しないはずだったのに/目を閉じて、おやすみ

 ぎし……っ。スプリングのきしむ音。ラッドの影の中で、アトラの目が、赤銅色の瞳を見上げている。墨色の瞳をぼんやりと見下ろすと、細い手が頬に伸びてきた。まだ熱の残る頬を冷たい指先で撫でられて、心地よさにラッドは目を閉じる。


 ――いつからだろうか。ラッドの中で少しだけエンシアが遠のいた。しかし消えたわけではない。痛みはずっと残っているが、四肢を引き裂くような痛みはもうない。その代わりに、じりじりと疼くような爛れた痛みだけが胸に満ちている。この痛みはきっと、生涯消えることはないだろう。けれど、この程度の痛みならば、ラッドはもう抱えたまま生きていける。アトラが作る影のぬくもりが、ラッドの心を少しだけ暖めてくれているから。


 アトラの冷たい指先が、頬から離れる。首筋をくすぐるように滑って、背中に手を回された。


「ラッド」


 アトラの声は、恐ろしいほどになめらかに、ラッドの胸に滑り込んでくる。ラッドが目を開くと、アトラは微笑んでいた。


「ラッド、早くしようよ。明日も霧に行くんでしょ?」


 清廉さのかけらもない態度で急かされて、ラッドは思わず口元を緩めた。


「ああ……」


 短く吐息を返して、アトラの白い頬に手を触れる。手のひらをふわりと受け入れる、アトラの柔らかい頬。薄く開かれたアトラのさくら色の唇に吸い寄せられるように、唇を重ねた。――久しく味わっていなかった柔らかい感触に驚いて、目を開く。視界の中で、アトラがラッドと同じ表情をしていた。


「ラッド、今の――」


 高い声で言いかけたアトラの口を、大きな手で塞ぐ。


「何も聞くな」


 顔が熱い。酒の余韻のせいではない。ここに来て、ラッドはようやく自分の気持ちを理解してしまった。


 アトラの口から手を離すと、その口元は微笑んでいた。腹の立つことばかり言ってくるその口は、なんだかんだでいつもラッドを気遣ってくれる。わけのわからない行動に振り回されることも多いが、いつもその行動の中心にはラッドがいた。


 ラッドは自覚してしまった。自覚したくなかった。けれど確かに、ラッドの心中をアトラが占めている。エンシアが消えたわけではない。大切にしまい込んだエンシアとの思い出の隣にアトラがいる。ラッドの中には、同じ容姿をもつ大切な女がふたりいる。


 笑んだ目元でこちらを見上げてくるアトラの目を見つめ返す。指で華奢な顎先を捕まえて、もう一度口づけを落とした。



「はっ、はっ、は……っ」


 身体の芯がしびれるような感覚が去って、浅く早い呼吸が喉からこぼれる。ラッドの顎先から伝った汗が、アトラの胸元にぽたりと落ちた。


「……悪い」


 そう言ったラッドの声は掠れていた。落ちた汗を手のひらで拭って、身体を起こす。アトラから身体を離すと、触れ合った腿の皮膚が濡れた音を立てた。


 快楽の余韻の残る、アトラの吐息。荒くなった呼吸が落ち着かない。額の汗を腕で拭って、ラッドは天井を仰いだ。こぼれた前髪をかき上げる。枕元に置いてあった布でアトラについた体液を拭うと、アトラがまた甘く啼いて身をよじった。


「んん、んふ……」


 汚れた布を、先程脱ぎ捨てた自分の服の上に投げ捨てる。アトラの顔に目をやると、潤んだ瞳が微笑んだ。


「ラッド、今日は、もう寝れそう……?」


 息もきれぎれにそう問われて、ラッドは無言で顎を引く。アトラの隣に寝そべって、足元に避けていた布団を肩まで被る。


「んふ……眠くなっちゃったね」


 細い指先が、ラッドの汗ばんだ額を撫でる。心地の良い感触に目を閉じた。


「おやすみラッド。いい夢見れるといいね」


 アトラの静かな声が、夢の入り口でかすかに響いた。


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