かわいいやつ

 ――まだ少し、身体が熱い。ラッドが天を仰ぐと、尻の下で椅子がぎしっと鳴いた。

 普段から好き好んで飲むことはしないが、ラッドは特段酒に弱い方ではない。あの店で飲んでから二時間ほど経って、ほとんど酔いは抜けている。しかし身体の熱と仄かな気だるさが残っていて、なんとなくベッドに横になる気にはなれなかった。


 ラッドの隣にはアトラが座っていて、粗雑な造りのテーブルの上に置いたラッドの財布をぼんやりと視界に入れている。先程からずっとそうだ。冒険者たちとあの店にいたときも、娼館に借りた部屋に帰ったあとも、アトラはいつもより口数少なくラッドから目を逸らしている。


「具合でも悪いのか? おまえ、朝もなんか変だったよな」


「んーん、具合悪いんじゃないよ」


 アトラはかぶりを振って、また黙った。財布の口からはみ出た銅貨を一枚手にとって、アトラがそれをもてあそぶ。銅貨に施された眠っている子犬の意匠を細い指先で撫でて、アトラが静かに息を吐いた。銅貨に向けてふせられたまぶた。そこから生えた長いまつげは、どこか憂いを帯びて見えた。


「眠いのか?」


 問いかけて、ラッドが財布を手に取る。酔った勢いで雑に置いたそれから散らばった硬貨を拾って、財布に戻す。アトラの白い手が、手にしていた銅貨をラッドの大きな手に渡す。アトラの薄墨色の瞳が、ラッドの赤い瞳を貫いた。


「どうした?」


 ラッドの再三の問いかけに、アトラは何も答えなかった。その代わりに、細っこい指先でラッドの頬をつまみ上げた。いきなりのことに、ラッドの険しい造作の目が丸くなる。アトラの手を掴んで、ラッドが目尻を釣り上げた。


「やめろ。おまえさっきからなんだ? 子どもみてえに」


 掴んだアトラの手は、冷たかった。――いや、自分の身体が熱いのだろう。ひんやりとして気持ちのいい手を離すのがなんだか名残惜しくて、ゆっくりとその手を離す。アトラはテーブルに目を向けて、小さな声で答えた。


「なんか……ラッドが他のやつと話してるのつまんない」


「はぁ? 何言ってんだ?」


 思わず放たれた、間の抜けた高い声。アトラはなにも答えなかった。普段ならそんなことを考えもしないのに、沈黙が気まずくなったラッドは、咳払いを一つして口を開く。


「……なんだ、おまえ拗ねてたのか。かわいいところもあるんだな」


 アトラから返ってきたのは沈黙だった。ため息をついてラッドが天を仰ぐ。手のひらで覆った顔が熱い。気まずい沈黙をごまかすように足を揺らすと、足元で床板が軋んだ。

 きしっ、ぎっ、ぎし……ラッドの足に嬲られて床が鳴る。その音はしばらく続いて、不意に止まる。アトラと目が合った。


「ねえ、ラッド」


 アトラの静かな声。


「なんだ?」


「もうすぐだね。塔についたら、ラッドはどうするの?」


 感情の読めない、落ち着いた声だった。いつものようにこちらをまっすぐに見つめるその目には、いつもと違って勝ち気な様子はなかった。


「復讐を終わらせる」


 ラッドは短く、一言だけ返した。何も言わずにまばたきだけを返したアトラに、ラッドが問いかける。


「おまえはどうするんだ? おまえが探してるのが塔かどうかもわからねえんだろ」


 アトラは『霧に帰らなければならない』という衝動を抱えているらしい。しかし、記憶がないせいか、霧の中のどこへ向かうべきなのかはアトラにもわからないようだ。霧を歩く道中で何度かその話をしたが、何度聞いても答えはいつも「わからない」の一言だった。

 霧の中で鋭く働くアトラの方向感覚はいつもあの塔を指しているので、ラッドは、もしかするとアトラもあの塔に目指すべき何かがあるのではないかと思っている。実際にどうかはわからないが。


 アトラは少しの間沈黙して、ラッドに向けて目元を笑ませた。


「わたしはラッドを見届けるよ。わたしがどうなるかは、その後かな」


 ラッドはアトラから顔を逸らした。うつむいたせいでこぼれた赤銅色の髪をかきあげる。


「……おれの目的が終わったら、おまえの帰る場所を探すの、手伝ってもいい」


 低い声を床に向けて投げると、隣からいつもの笑い声が返ってきた。


「んふふ、一生見つかんないかもよ? そうしたらわたしと一生いてくれるの?」


「さあな。……飽きるまでは付き合ってやるよ」


 ラッドが椅子から立ち上がる。テーブルに戻した財布を掴んで、壁にかけてあったかばんの口に突っ込む。その背中に、アトラの笑い声が掛かる。


「ふうん。じゃあ、帰る場所見つかんなくてもいいや。おまえと一緒のほうが面白い」


「……帰る場所はあったほうがいいぞ。ないと自分がわからなくなる」


 ラッドは振り向かなかった。かばんの中身を漁るふりをして、低い声だけを返した。ラッドはもうきっと、あの村には帰らない。復讐に縋って生きてもなお埋まらない心の穴を埋めるには、あの村には忘れたい思い出が多すぎる。ラッドが暮らしたあの家、エンシアの家、レモンの木、ラッドが整えたあの倉庫――ぬくもりを持っていたはずのその全てが、今ではラッドの心を冷たく突き刺す。


「それならわたしはおまえのところに帰る。……おまえも、わたしのところに帰ればいいよ」


「はは、面白い冗談言うじゃねえか」


 笑いながら振り返ったラッドは、目を開いて一歩後退あとずさった。壁に背を打つ。いつの間にか背後に立っていたアトラが、ラッドの赤銅色の目を見つめて穏やかに微笑んでいた。酒の余韻で熱がこもったラッドの背に、冷たい手が触れる。それが妙に心地よく感じて、ラッドは反射的に上げた両手を下ろして、素直にアトラに抱かれた。ただ、その華奢な身体を抱きしめ返すことだけはしなかった。


 ラッドの壊れた心は、アトラの存在に救われている。しかし断じて、アトラはラッドの光などではない。どちらかというと影だった。

 アトラはイカれた行動ばかり取るし、ラッドを困らせるようなことばかり言う。一緒にいて腹の立つことのほうが多いが、そのおかげで気が紛れることもある。心のすべてを照らし出す強い光だったエンシアを失って翳ったラッドの心には、アトラの中にある影は、自分と同じ色をしていて落ち着ける空間だった。


「ラッド、なんかいつもと違ういい匂いがする。お酒のせいかな?」


 ラッドの胸に顔を埋めたアトラが、くぐもった声で笑った。隣の部屋から、睦み合う男女の甘い声が聞こえる。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る