夢に見た日

 小さなテーブルに置かれたカップからは、甘く香ばしい匂いのする湯気が立ち昇っている。昨夜爪を整えたばかりのラッドの指先が、カップの取っ手に引っ掛けられる。行商で買ったエンシアお気に入りのナッツとミルクの飲み物を一口すすって、ラッドは眉間にしわを寄せた。


あっちぃ」


「んふふ、淹れたてだもんね」


 ラッドの目の前で、肩に毛布を羽織ったエンシアが笑う。エンシアは猫舌なので、まだカップには手を付けない。小さなテーブルの上に並んだクッキーは、エンシアの手作り。砂糖につけたレモンの皮とナッツが練り込まれていて、甘酸っぱくておいしい。熱い飲み物が冷めるのを待ちながら、皿の上からクッキーを一つ取る。

 それなりに大きさのあるクッキーを一口にねじ込むと、日に焼けた頬がいびつな形に膨らむ。クッキーを咀嚼するラッドの間抜けな顔を見て、エンシアが目を細めた。


倉庫ここももう、片付けないとね」


 ぽつりとこぼれた一言に、うなずいて返す。口の中のクッキーを飲み込むと、ラッドの張り出した喉仏が上下に揺れる。


「……そうだな。でも、少し落ち着いてからだな。しばらくは片付けなんかしてる余裕もないだろ」


 カップを手にとって、芳しく香り立つ薄茶色の水面に息を吹く。ラッドの吐息に流されて、立ち昇る湯気が冷たい空気に溶けていく。


「んふふ、ゆっくりやろ。椅子とテーブルだけ早く持ってかないとね」


 愛おしそうに小さなテーブルを撫でるエンシア。長いこと使われていなかったのを両親から譲り受けて整えて、ふたりの部屋のように使っていたこの倉庫も、明日には用事がなくなってしまう。

 外気をほとんどまるごと通してしまう、夏は熱く、冬は寒いこの倉庫。今だって冬の夜の冷たさが部屋中に満ちていて、エンシアは毛布にくるまってもこもこになっている。それでも、その不便さもラッドには愛おしい生活の一部だった。おそらくエンシアも、ラッドと同じように少しだけ名残惜しいような気持ちを持っているのだろう。


「――明日、何もねえ家に帰るんだな」


 まだ熱いカップの中身を一口飲んで、しみじみとつぶやく。エンシアがラッドの赤銅色の目を見つめて、その目元を笑ませた。


「ベッドはあるよ」


「ベッドだけな。……あんな小せえ家なのに、ここまで時間かかるなんてな」


 明日からふたりで過ごす新居は、エンシアの家が管理しているレモンの木のそばに建てた。木の管理もしやすくて、家が密集しているあたりよりも静かで落ち着ける。最低限不自由なく暮らせる程度の小さな家を頼んだのに、完成までにラッドが想像していたよりも遥かに長い時間がかってしまった。明日の準備や日々の職務なんかに時間を取られて、先週ようやくベッドだけを運び込んでそれきり手つかずのままだ。

 しばらくは生活雑貨を揃えたり、互いの実家にものを取りに行ったりと何かと慌ただしくなるだろう。


「んふふ。でも、一緒に眠れるね。楽しみだな。ラッド温かいから、よく寝れそう」


 涼やかな造作の目元を柔らかく細めて、エンシアが笑う。控えめな仕草で口元を押さえる小さな手。隣に並んで眠ったら、きっとその手も身体も触れ合ってしまう。ラッドは目を閉じて、頭を振った。


「おれは気が気じゃない。いつもエンシアが隣に寝てるとか、理性がたないかも」


たなくてもいいんだよ?」


 素直な調子で返されて、ラッドは雷に打たれたような気持ちで頭を抱えて天を仰いだ。


「やめてくれ……」


 項垂れたラッドに掛けられる、んふふ、と抑えた笑い声。ラッドがエンシアの方に目を向けると、薄墨色の瞳が、テーブルの上に向けて伏せられた。


「――明日、緊張する。恥ずかしい……」


 小さな声でこぼされた一言。うつむいたエンシアのとんがった鼻先を見つめて、ラッドは笑う。


「おれは楽しみだ。エンシアのきれいな姿が見れる」


 そう言うと、エンシアがちらりとラッドの目を見た。その目はすぐに逸らされて、再びテーブルの上を泳ぐ。


「ラッドにはいいの。でもみんなに見られちゃうから……」


 膝の上で、エンシアの手が遊ぶ。もぞもぞと動くその指先が愛おしくて、ラッドは険しい造作の目元を緩めた。


「おまえもおれだけ見てればいい。そうすれば緊張なんかしねえだろ」


 はっきりとそう言い切ってから、自分がとんでもなくきざなことを言った事実に気がついた。顔が熱い。顔を上げたエンシアと目が合うと、その目は穏やかに細められた。


「んふ、そうするね」



✳︎



 窓から差す昼過ぎの穏やかな光が、白いドレスを照らしている。エンシアとふたりで選んだドレス。銀色に光る糸で刺繍が施された布地は、エンシアの動きに合わせて揺れるたびにきらりと光る。


 広場の奥に建てられた簡素な小屋。行商が来る日は彼らの控え室として使われているこの小屋は、今はラッドとエンシアのために開けられている。緊張した面持ちで窓際に立つエンシアを見て、ラッドは間抜けな表情を顔に貼り付けている。ラッドと目を合わせて、エンシアがふっと吹き出した。


「ラッド……んふふ、面白い顔してるよ」


「しょうがねえだろ」


 そっけなく言って、ラッドは壁際の方に向けて顔を逸らす。それからまたエンシアの方に視線を戻すと、言うことを聞かなくなった表情筋がだらしなく緩む。


「きれいだ……」


「やだ、恥ずかしい」


 小さな手のひらが、ラッドの両目をそっと押さえた。瞼に触れる手が熱い。華奢な手首を掴まえて、手のひらを両目から剥がす。純白のドレスを身に纏ったエンシアの姿を視界に収めると、白い肌が紅く染まっている。ただでさえ細いのに、コルセットに絞められてさらに細くなっている腰に手を回して、そっと抱き寄せる。

 熱い額に唇を寄せると、白い花の香りがする。少し前にエンシアに贈った香水の香り。普段からつければいいのに、エンシアはもったいないから特別な日にだけつけると言って、ラッドが贈ってからはごくたまにしかつけていない。さわやかな甘い香りの奥に、嗅ぎなれたエンシアの匂いがする。


「ラッド……」


 エンシアの、ぼやけた声。頼りない感触の手が、ラッドの腰に回された。互いに見つめ合って刹那の間。扉が開けられた音に反応して、ふたりは弾かれるように距離をとった。


「エンシア、準備は終わった?」


 扉を開けたのは、エンシアの母親だった。ふたりの様子を見てか、なにかを察したように含みのある笑顔を浮かべている。扉を開けた彼女のその後ろには、エンシアの父親と、ラッドの両親が控えていた。


「うん……終わったよ。もう行くね」


 エンシアが、ぎこちない動きで顎を引く。ラッドがそっとその肩に手を置くと、エンシアがラッドの目を見上げて微笑んだ。


「ラッド、行こ」


 小さな手が、ラッドの武骨な手のひらを捕まえた。手を引かれるままに、ラッドはエンシアの後ろを歩く。昼過ぎの穏やかな光のもとに姿を晒すと、エンシアのドレスが、まるで祝福でも受けているかのようにきらめいてエンシアのきれいな顔を照らした。ラッドは神なんか信じていないけれど、エンシアの美しさに感動するたびに、その存在を信じてしまいそうになる。

 光を浴びてあまりにも美しく輝くこの笑顔は、今までもこれからも、自分だけに向けられ続ける。ラッドはそんな希望を抱きながら、エンシアに向けて笑顔を返した。



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