崖下の獅子

秋乃光

血で創り上げる仮面

 ボクの大切な人の話をしよう。ボクが幼稚園児だった頃の話を、振り返りながらでいいかな。


理緒りおち。今日は〝動物園〟に行こっか?」


 土曜日の朝。昨日とやらで大損したオカンは、ボクを〝動物園〟に連れて行ってくれる、らしい。夕飯として冷凍食品のグラタンを食べつつ、パソコンの画面とにらめっこしている姿は、昨日までで見納めか。……よかった。どう見ても稼げていなかったから。


「どうぶつえん」


 ボクは磁石でくっつくオモチャで遊ぼうとしていたが、オカンの言葉で、箱を持ち上げるのをやめる。ライオン、ゾウ、キリン。いろんな動物たちが脳内を駆け回った。


「いく!」


 こうして向かった先の駅名が府中競馬正門前だ。この〝動物園〟は馬が多い。馬は嫌いではないが、ボクは『いろんな動物たち』を期待していた。上野とは違う方向の電車に乗ったから、おかしいな、とは思ってたんだ。似たり寄ったりの理由で連れてこられたのであろう子どもから「キミもか」の視線を送られている。


「当たったら、モランボンで焼肉ね」

「やきにく!」

「そう。スーパーの冷食四割引セールで買ってきたごはんじゃなくて、や・き・に・く。しかも! お外の焼き肉屋さんの焼肉!」


 ボクの顔に、落胆の色が出ていたのだろう。オカンはボクを励ますように、魅惑の四文字を強調した。お外の焼き肉屋さんの焼肉は、オカンのが連れて行ってくれるぐらい。オカンとふたりきりで行ったことは、ない。


「やきにく、たべたい!」

「よーし。当てて当てまくっちゃうぞ!」


 ――と、意気込んでいたのが約六時間前のオカン。約六時間後のオカンは、声をかけるのも躊躇ってしまうほどに、切羽詰まった表情をしていた。


 ボクはオカンのそばに立っていながら、まるでよその家の子どものように、素知らぬフリをしている。親に騙されて連れてこられた子どもが、親に手を引かれながらボクとオカンの前を通り過ぎた。哀れみの目を向けられて、気まずい。


「最終レース……最終レースで全部を取り戻すんだから……」


 先ほど終わったに、オカンは微々たる払戻金のすべてを賭けていた。当たってはいたから、つい調子に乗ってしまったんだろう。この様子だと、めいんれーすは『ハズレ』たようで、握りしめていた小さな紙はゴミとなった。くしゃくしゃになっている。


「理緒ち!」


 オカンはボクの名前を呼んで、ボクを含めた周囲の人間がびくりと反応した。異様な迫力があったので、動物の鳴き声と勘違いされたのだろう。


「……どの馬が勝ちそう?」


 よからぬ注目の的となったオカンは身をかがめて、声をひそめた。ボクに細かい文字がびっちりと並んだレーシングプログラムを見せてくる。当時は幼稚園児のボクに、漢字は読めない。ひらがなやカタカナは、オカンが絵本を読み聞かせてくれていたから、なんとなく読める程度。だから『どの馬が勝ちそう』かなんて、わからない。オカンにわからないものが、ボクにわかるはずがない。


「えー」

「こういうのはフィーリングでビギナーズラックなのよ」

「どういういみ?」

「びびっときたおうまさんを教えてね、って意味」

「びびっと……」

「そうそう! 理緒ちは蓮司れんじさんの息子なんだから、不思議な力があるに違いないわ!」


 親父殿を引き合いに出されて、ボクはムッとした。宮下蓮司。悪霊を祓う、強力な霊能力を持つ男。おそらく、このときは、土曜日担当の彼女のところにいるか、仕事中。オカンとボクのことなんて、頭の片隅にもないだろう。


 オカンは親父殿の話をするとき、その大きな瞳をいっそう輝かせていた。親父殿と会っているときには、月9ヒロインに勝るとも劣らない〝恋する乙女〟に変貌する。


 ボクには、うらやましかった。幼心おさなごころに嫉妬の火がついて、親父殿の話をされるたびに、炎が燃え上がる。


 普段のオカンは母親の仮面を付けていて、この〝恋する乙女〟の樹里じゅりちゃんこそが、オカンの正体だ。ボクは、他の女たちを曜日ごとに取っ換え引っ換えするようなクズなんかよりも、樹里ちゃんのことを大切に想っている。なのに、いつまで経ってもオカンとボクは、母親と息子のままだ。この関係性に進展はなく、どちらかが先に逝ったとしても変わらない。


 ボクはオカンがギャンブル狂いで、親父殿ではない別の男のお友だちとの付き合いがあろうともかまわない。このお友だちはボクにオモチャを買ってくれるから好き。


 樹里ちゃんがどんなにダメな大人でも、世間一般的に見てよくない母親だとしても、ボクの大切な人だ。


 この頃のように一緒に暮らせたらいいのに、今のボクは実家暮らしで、樹里ちゃんは別の場所に住んでいる。樹里ちゃんがダメと言ったらダメだ。一ヶ月に一度、給料日に顔を合わせて、ボクの給料のをオカンに渡している。借金まみれになっていても、ボクは樹里ちゃんを見捨てない。金なら、ボクがいくらでも用意できる。会えないほうがイヤだ。


「このおうまさんかな」


 特に理由はない。ボクが指差した先を、オカンが見る。オカンは競馬場内のモニターを確認し、ため息をついた。


「理緒ち。このおうまさん、最低人気よ」

「?」

「百円の単勝を買って、当たったら万馬券。……でもまあ、理緒ちのご指名なら、千円ぐらい買っておこっか」

「ひゃくえんのたんしお?」

「ふふっ」


 ――結局、この日の夕飯は焼肉になっている。

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崖下の獅子 秋乃光 @EM_Akino

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