第20話

春が深まるにつれて、学園は回復の時間を重ね、制度と文化の両面での再構築を進めていた。外部との協働は以前ほど波立たず、むしろ「どう組むか」をめぐる細やかな調整が日常になっていた。だが「静けさ」は別の種類の課題を招く。日々の細部で蓄積された摩擦、知らず知らずに生まれる優先順位の偏り、そして無意識のうちに形成される勢力圏──そうした小さな支配領域が、学園の柔らかな均衡を少しずつ歪め始めていることに、エレノアは気づいていた。


- 何が問題か

- 運営コアの判断が無自覚のルーチンになり、現場の多様な声を拾い切れていない。

- 外部パートナーとの「短期成果」要求が、運営の脆弱な箇所に圧をかける。

- 学生内での情報格差が生まれ、参加する人と見守るだけの人の間に距離ができる。


エレノアはまず透明性の深化を決めた。従来のアーカイブ公開だけでなく、運営の「意思決定ログ」を学内公開する試みを導入した。会議のメモ、判断の根拠、選択肢として検討された代案──それらを簡潔に読みやすい形で残すことにした。目的は二つ。ひとつは決定が恣意的ではないことを示すこと、もうひとつは未来に同じ選択を繰り返さないための学びを残すことだ。


導入当初は抵抗もあった。教員や運営メンバーは「議論の生々しさを晒すのは危険だ」と懸念する。だがエレノアは段階的公開を提案した。初期は要点のみ、次に背景情報、最後に完全ログへと段階を踏む。これにより、透明性は暴露ではなく教育へと変換される余地を持った。


もう一つの施策は「対等な窓口」の設置だ。外部パートナーや地域の要請が直接コアへ届くのではなく、まず学生評議会と教員代表のペアが受け止める。窓口は小さな「権限の分配」を制度化し、反応速度を保ちつつも意思決定の偏りを防ぐ仕組みだ。窓口運用は試行を経て拡大され、現場は徐々に均衡を取り戻していった。


季節が進むと、外部からの思いがけない提案が届く。ある市民団体が、学園の「参加モデル」を小規模な社会課題解決プロジェクトに適用したいと申し出たのだ。内容は地域の高齢者支援や子育て支援の実践的取り組みで、学園生が現場へ出向く形式を想定している。エレノアは即答せず、諮問委員会と学生評議会に諮り、慎重な条件付き承認を出した。承認の条件は明確だった──学園の憲章順守、地域の当事者主導、成果の学園アーカイブへの収録。条件を整えたうえでの受け入れは、学園の小さな支配領域を外へと伸ばすための安全な手段となった。


その年の初夏、学園は目に見える形で変化していた。運営はより分散化され、現場の窓口は機能し、学生たち自身が作る小さなプロジェクトが複数育っていた。エレノアは夜、屋上から校庭を見下ろし、窓に灯る灯火ひとつひとつが小さな自治の証であることを確認した。支配の縁は確かに縮まり、互いに監視し合うよりも協働する空気が育ち始めている。


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学園の制度化は進んでも、選択の瞬間は日常に幾度も訪れる。ある日、外部パートナーから「短期キャンペーン」の打診が来た。巨大な報道露出と資金援助を約束するが、同時に参加者の行動を可視化し数値化することを強く要請する内容だった。数値化は評価を容易にする一方で、短期のKPIが現場の意義を歪める危険がある。学生たちは賛否で割れ、教員も判断に悩む。


エレノアはこの件を学生評議会へ持ち出し、全員で議論する場を設けた。彼女は単なる賛否の多数決ではなく、選択の「価値勘定」を提示することを提案した。価値勘定とは、得られる資源と失われる可能性を可視化し、短中長期での影響を比較することである。学生たちはワークショップ形式で議論を重ね、次のことを学んだ。


- 数値化が有用な点:資金配分の透明化、外部への説明材料、短期的に注目を集める力。

- 数値化の危険性:参加者が数値目標へと行動を最適化し、内発的動機が損なわれるリスク。

- 妥協案の可能性:一部の活動だけを数値化し、それ以外は定性的評価を優先する混合指標の導入。


議論は長時間に及んだが、最終的には「限定的数値化+定性重視の併用」という合意が形成された。外部パートナーにはこの合意を持って条件提示がなされ、双方の合意書には「数値化は学園アーカイブと合意の上で公開すること」と明記された。合意形成のプロセス自体が学園の教育的実践となり、学生たちは選択の重みと妥協の構造を実地で学んだ。


この経験は学内の小さな裁量文化を育てた。現場の代表は単に指示を受けるのではなく、外部条件を翻訳し、学園の価値に照らして微細な判断を下す権限を持つようになった。裁量は責任を伴い、ミスもあるが、それらは学びとしてオープンにされ、次の意思決定の材料となった。エレノアはその過程を見守り、必要なときだけ手綱を締める役割を続けた。


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制度と運用が落ち着いたころ、学園の「風景」は確かに更新されていた。校舎の片隅に新設された小さな掲示スペースには、外部とともに行ったプロジェクトの現地報告と子どもたちの絵、手紙が並び、来訪者はそれを見て少し立ち止まるようになった。外からの評価は少しずつ温かくなり、地域の人々の参加も増えた。だが、なにより変わったのは「個人の物語」が学園の中心に戻ってきたことだった。


- ルカの変化:現場での小さな調整を重ねるうちに、彼はプロジェクトマネジメントの手腕を身につけた。彼は今では地域ワークショップの連絡調整を任され、小規模ながら確実に参加者を増やしている。

- ミラの成長:ミラは子ども向けの読み聞かせとワークショップを続け、自分のやり方で人を巻き込む力を育んだ。彼女は参加者からの手紙を大切に保存し、時々スタッフに見せては笑顔になる。

- 教員の再発見:ある教員は、外部との協働を通じて授業の新しい文脈を得た。彼は地域の高齢者との対話から得た素材を国語の授業に取り込み、生徒の表現力が豊かになったことを報告した。


こうした個人の物語は、制度の成果を数値以上に裏付ける証拠となった。学園アーカイブには、動画と文字と写真の混成のドキュメントが蓄積され、外部の誰もが当事者の声に触れられるようになった。アーカイブは単なる記録ではなく、次のプロジェクトの種を育てる「物語の貯蔵庫」として機能した。


一方で、個人の物語には不在の者の声も混ざっていた。疲れ切って離脱した学生、外部の条件に合わず参加できない教員、保護者の事情で途中離脱した家庭──そうした欠落は制度だけでは埋められない。エレノアは個別のケア体制を整え、離脱者に対しても戻るための緩やかな入り口を提供することを優先した。人が戻るための柔らかな階段をつくること、それが学園の成熟の証だと彼女は考えた。


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しかし外の世界は常に静かではない。ある週末、学園に一枚の写真が届いた。学園のワークショップでの一コマをとらえたもので、子どもたちが楽しげに活動する様子が写っていた。だが写真にはキャプションとして、出所不明の短い文が添えられ、ソーシャルメディアで瞬く間に拡散された。その文面は一見無害だったが、写真を切り取って「宣伝素材」として流用する文脈へと編集され、瞬時に外部の広告代理店らしきアカウントに転載された。


この連鎖は急速だった。学園の意図しない文脈での利用、外部企業の掲載、そして一部メディアの断片的な記事化──三日間で学園の取り組みは「商業プロモーションの泥沼」にあるかのように語られた。匿名アカウントがセンセーショナルな解釈を添え、コメント欄は批判と擁護で埋まった。


学内の空気は重くなった。ミラは涙ながらに訴えた。「私たちが一生懸命やったことが、勝手に使われるなんて……」

ルカは怒りを抑えきれない。「僕たちが作った場が、広告にされるなんて認められない」


エレノアはまず冷静に動いた。彼女は即座に学園アーカイブの関連資料を公開し、写真のオリジナル、使用許諾、意図した文脈を明示した。外部に向けた声明は短く、事実を整理して示すことだけに徹した。次に、学園は法務チームと連携して権利関係の確認を行い、必要ならば転載元に対する是正要求を行う準備を整えた。


だが物語の力は強い。反論や法的措置だけでは、既に生まれた「印象」を完全に消すことはできない。エレノアは別の戦術を取ることにした。彼女は直ちに「現場の声」キャンペーンを仕掛け、当事者の短い動画と手書きのメッセージを学園のチャネルで連続公開した。子どもたちの無邪気な声、教員の説明、現地ボランティアの感想――それらは断片化された広告イメージに対する、温度のある反証となった。


キャンペーンは効果を生んだ。数日後、外部のいくつかの媒体が学園の声明と当事者の声を取り上げ、映像や手記を再掲した。拡散の渦は完全には消えないが、当初の印象が薄まり、学内の怒りは徐々に建設的な議論へと収束していった。学園はこの事件を契機に、写真や動画の取り扱いに関する「素材管理プロトコル」を強化した。撮影時の同意取得、メタデータの添付、転載条件の厳格化──小さな技術的対策が、以後の予防線となる。


夜、エレノアは疲れた顔でノートをめくり、一枚の写真――流出した元のカット――を見つめた。そこには手を取り合う子どもたちの自然な笑顔が鮮やかに写っている。彼女はペンを取り、ページの隅に一行を書き付けた。


「物語はいつも編集される。だが編集の中心に当事者を置けるかどうかが、私たちの勝負だ」


学園は嵐を乗り越え、だが幾分か擦り切れていた。夜明け前の静けさに、エレノアは次の設計を思い描き始める。外部との境界を守りつつ、当事者の物語を守る術を制度へと落とし込む作業が、また一歩本格化する予感があった。


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悪役令嬢バズります 柿野愛 @ia123

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