第15話
冬が近づき、学園の朝は鋭い冷気で満ちていた。裂け目の修復作業は着実に進んでいるように見えたが、現場では依然として微細な軋轢が続いていた。外部協働の手続きや教材管理の改訂、学生評議会の新たな権限付与──エレノアはそれらをひとつずつ潰しながら、同時に新たな「風穴」を作る必要を感じていた。風穴とは、変化を受け入れつつも現場の声を逃がすための抜け道であり、安全弁だ。
「透明性だけでは、人は安心しきれない」
ユーディが控えめに言う。彼の言葉は冷静だが、現場のデータを見渡すと確かな実感に裏打ちされていた。数字上の改善が示されても、個々人の不安は残る。エレノアはノートの余白に「風穴の設計」という見出しを書き込み、小さな施策を列挙していった。
一つ目は「意思表明の場」の恒常化だ。月一回の公開フォーラムではなく、もっとカジュアルで即時性のある「意見ポスト」や小さなアンケートステーションを増設する。二つ目は「現場アドボケイト」の制度化で、各ブースやクラスに学生代表と教員代表のペアを置き、外部とのやり取りは必ずそのペアを通す運用にすること。三つ目は「事故時の即時説明プロトコル」。小さな誤解でも学内で透明に処理し、外部に先走られない仕組みを作る。
これらを提案し、学園長や教員会、学生評議会と協議を重ねるうちに、徐々に合意が得られていった。反対する保護者団体には個別の説明会を重ね、不安を一つずつ丁寧に解消していった。エレノアは疲労を感じながらも、それが短期の苦労であることを信じていた。
その折、予想外の人物が彼女の前に現れる。図書室の入口で立ち止まったのは、ライラだ。彼女は以前よりも落ち着いた装いで、手に小さな封筒を持っていた。
「協働の提案、順調に見えるわね」
「まだ道半ばだけど」
ライラは微笑みつつも、真剣な顔つきで封筒を差し出す。「これ、地域の子ども支援団体からの連携申し込みよ。君がやったことが外にも届いて、善意の輪が広がったみたい」
エレノアは封筒の中身を覗き、小さな企画書と数名の推薦文を読む。そこには地域の教師やボランティアの感謝が綴られており、学園の取り組みが外部で具体的な実益を生み始めていることがわかった。思わず胸が温かくなる。
「君が外部をコントロールするのではなく、外部と学園が互いに学ぶ関係を作った。結果はこうして返ってくる」
ライラの言葉には、以前の挑発めいた響きはなく、共感と実利の両方が混ざっていた。エレノアは小さく息を吐いて答える。
「これを大切に育てましょう。条件とガバナンスは厳格に守るけれど、善意は潰さない」
ライラは頷き、手を伸ばして短く握手を交わした。その握手は形式的な和解以上の意味を持っていた。敵対の余地よりも、協働の利点が現実的に必要とされる場面が増えているのだ。
学園内の風穴が機能し始めると、現場の空気は少しずつ軽くなった。学生たちは以前より自発的にプロジェクトを立ち上げ、教員たちも運用の負担が減る工夫を見つけていった。外部からの視察や問い合わせも、事前にアドボケイト制度を通じて受け付けるため、無断利用や誤解の余地が減っていく。
だが平穏が長く続くほど、新たな問題は別の角度から忍び寄る。ある日、匿名のメールが学園の公開窓口に届く。差出人不明の文面は冷ややかで、こう記されていた。
「学園の成功事例を真似したい人々は多い。だが、その方法論を外部の市場に流通させることで、真の『場』は失われる。あなたたちは学園の価値を守れるのか」
メールはあくまで問いかけだけを残し、責任の所在を曖昧にしたまま消えていった。だがその問いは重く、学園の運営陣の間で繰り返し議論された。外部への拡張は利益と影響を生む一方で、場の性質を根本から変える危険がある。エレノアは再びノートを開き、価値と定義について書き込んだ。
「場の定義を明確にする。教育的価値、当事者性、自律性。この三つは最小限の不可侵のラインだ」
彼女はそれを学園の新たな憲章案としてまとめ、学生評議会と教員会に提出した。議論は熱を帯びたが、最終的に憲章は多数の賛成を得て採択される。憲章は外部との協働の前提となり、違反した場合の是正措置や公開手続きも明記された。
憲章の採択は、一時的な勝利だった。だがその夜、エレノアは屋上で冷たい風に当たりながら、自分の心の中に浮かぶもう一つの問いに向き合っていた。本当に守るべきものは何か。ルールで守れるものと、ルールでは守れない感覚的な価値はどこで交差するのか。
ミラが肩越しに囁く。「エレノア様、学園はあなたのおかげで強くなった。だけど、私たちが本当に守りたいのは、誰かの笑顔だよね」
エレノアは微笑んで頷く。「そう。私は設計者であり、今は守り手。次はその笑顔をどこまで、どうやって広げていくかを考える番だ」
夜空に瞬く星を眺めながら、彼女はノートに一行を書いた。
「設計は成果を生む。守ることは価値を確かめる。広げることは、選択を増やす責任だ」
ページを閉じると、冷えた風が髪を揺らした。学園の灯りは穏やかに瞬き、再び前へ進むための静かな力を貯めているようだった。
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