完璧から解放される


 最近、完璧でない自分が気にならなくなった。

 

 以前の僕は思索や表現に完璧を求め、その衝動に突き動かされていた。細部が気になり、少しの粗があると、そこに意識が吸い寄せられていった。推敲がいつまで経っても終わらない。

 その裏側にあったのは、不安だった。「完璧でない自分」への恐れ。その恐れが、細部への執着となって表れていた。

 

 完璧にやれば安心できると思っていた。

 きちんとやれている、ちゃんとしている、そう自分に言える状態になれば、不安は静まるはずだと。

 けれど実際には、完璧を求めれば求めるほど、別の問題が立ち上がってきた。

 

 一つのタスクに過剰な時間と意識を注げば、他のタスクが滞る。すると、今度は「あれができていない自分」「これを後回しにしている自分」が現れる。

 真っ直ぐに努力しているはずなのに、気がつくと「できていない自分」だけが増えていく。

 欠けを一つ埋めるたびに、別の欠けが見つかる。その繰り返しの中で、心は少しずつ疲弊していった。


   ***

 

 そのときの僕は、この悪循環に気づいていなかった。

 疲れている理由は、まだ努力が足りないからだと思っていたし、気になる箇所が増えるのは、真面目に向き合っている証拠だと解釈していた。

 

 悪循環を断ち切ったのは、「思索には終わりがない」という事実だった。次から次へと浮かぶ問い、終わりのない営みに没頭していくうち、「完璧でない自分」が気にならなくなっていった。


 意識的に考え方を変えたわけではない。自分を許そうと決めたわけでも、完璧主義をやめようと誓ったわけでも、不完全な部分が消えたわけでもない。今も未熟なままだし、滞ることはしょっちゅうだ。

 それでも、それらが「問題」として心を占拠することがなくなっていった。

 

 欠けがある方が、思索は続く。

 未完成であることが、居場所になる。

 

 その経験が積み重なるうちに、「できていない自分」を常に監視する必要がなくなった。


 以前の僕は、「答えを出すため」に思考や執筆をしていた。だから、その途中にある欠けや粗が、怖かった。

 でも、思索と言葉を探す営みは違う。答えの有無に関係なく、いつも僕のことを待っていてくれる。

 いつしか、思索や表現の世界が「帰る場所」になっていた。うまくいっていても、いかなくても、戻ってこれる場所。評価や完成度とは、距離を置いたところにある場所。


   ***

 

 何ができていないか、ではなく、どこに立って見ているか。

 何を達成したか、ではなく、居心地のよい場所に戻ってきているか。

 そうした問いのほうが、僕の中に残るようになった。

 

 この変化がどこへ向かうのかは、まだ分からない。

 

 ただ一つ言えるのは、「できていない自分」を数え上げていた頃よりも、今の方が楽に呼吸できている、ということだ。



 

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