地上40000キロの背後霊
森崇寿乃
観測記録 No.734
1
【観測記録:9,125日目】 対象個体名:
【時刻:07:30】起床。対象の心拍数、75bpm。ストレス反応:軽度。原因と推定される事象:前日に設定した覚醒時刻より8分遅延。社会的役割遂行への懸念が発生した模様。非効率的な反応である。
私の存在には、名称がない。識別符号はNo.734。感情も、意思も、過去の記憶も持たない。私に与えられているのは、ただ一つの任務。観測対象・水野亜矢の全生命活動を記録し、送信すること。なぜ、誰に、何のために送信するのか。それは私の情報アクセス権限外にある。
水野亜矢は25歳の雌(人間社会における呼称:女性)であり、商業デザイン系の組織に所属している。特筆すべき能力も、社会的に重要な地位も有していない。膨大な人類個体群の中から、なぜ彼女が観測対象に選定されたのかは不明である。
【時刻:08:45】通勤。対象は密閉された鉄製の輸送機械(呼称:電車)に搭乗。他の個体との接触により、パーソナルスペースの侵害が発生。不快指数が28%上昇。対象はこの状態を「満員電車」と呼称し、日常的な許容範囲と認識している。不可解な文化である。
私は彼女の背後に、常に存在する。影のように、空気のように。彼女の視覚情報は私の視覚情報であり、彼女の聴覚情報は私の聴覚情報だ。だが、彼女の思考や感情は直接アクセスできない。表情筋の微細な動き、声色の周波数、心拍数の変動、発汗量といった外部パラメータから、内部状態を推定するのみである。
彼女が同僚との会話で浮かべる笑顔を、私は「口角の15度の上昇」と記録する。彼女が映画を観て流す涙を、私は「感情的刺激による、瞳孔からの塩化ナトリウム水溶液の排出」と記録する。
愛情、悲しみ、喜び。それらは全て、生化学的反応の結果として現れる現象に過ぎない。私の任務は、その現象を、ただ淡々と記録し続けることだ。
2
【観測記録:9,138日目】
対象の生命活動に、予測モデルからの逸脱が観測された。 発端は、対象が「拾う」という行動を選択したことだ。
【時刻:19:12】帰宅経路上。対象は段ボール製の箱内部に存在する、小型の哺乳類(呼称:子猫)を発見。対象は予定行動を中断し、約17分間にわたりその場に留まる。
対象の行動は非合理的である。子猫を保護することは、対象の生存戦略において何ら利益をもたらさない。むしろ、食料、医療、時間の投資というコストが発生する。しかし、対象は子猫を居住区画へ持ち帰るという決定を下した。
【記録】対象の脳内において、オキシトシンと推定される神経伝達物質の分泌量が増加。対象はこの状態を「可愛い」という抽象的言語で表現。この感情は、他個体の幼体を保護育成する本能的プログラムに起因すると推測されるが、種を超えた対象への適用は、非効率の極みである。
子猫が来てから、対象の行動パターンは大きく変化した。睡眠時間を削ってまで、子猫の世話をする。自身の食料を購入する費用を削減し、子猫用の栄養食を購入する。
【記録】利他的行動の継続を確認。自己犠牲のレベルは、観測史上最高値を更新。
私には、理解できなかった。この行動は、いかなる論理モデルに照らし合わせても、エラーとしか表示されない。だが、対象の表情は、以前よりも格段に豊かになっていた。「口角の上昇」の頻度は3.2倍に、「瞳孔からの水溶液排出」の理由は、悲劇的映像刺激から、対象と子猫との相互作用によるもの(呼称:嬉し泣き)へと変化した。
私の記録システムに、これまで存在しなかった微細なバグが生じ始めた。対象の「笑顔」を記録する際、0.002秒の処理遅延が発生する。対象の「鼻歌」という無意味な音声発信パターンを分類するのに、複数のタグ候補が競合する。
観測は、未知のフェーズに移行しつつあった。
3
【観測記録:9,481日目】
その日、観測史上最大のイレギュラーが発生した。 対象の居住区画で、火災が発生したのだ。原因は、上階の個体の失火。
【時刻:03:21】火災報知器の警報音により、対象覚醒。室内には有毒ガスが充満。心拍数、180bpmまで急上昇。生命の危機を察知し、極度の
論理的な最適行動は、即時脱出である。しかし、対象は煙の充満する部屋の中を、這うように移動し始めた。
【記録】対象は脱出口とは逆方向へ進行。目的:子猫の捜索。自己の生命維持を二次的なものと判断。この行動は、論理的に破綻している。自殺行為に等しい。
対象はベッドの下で怯える子猫を発見し、自身の衣服で固く抱きしめた。そして、窓へ向かう。もはや玄関からの脱出は不可能だった。窓の外は、地上三階。下は植え込みだが、無傷では済まない。
【記録】対象は躊躇なく、窓枠を乗り越える。自身の身体を盾とし、子猫を内側にして落下。
衝撃。対象の右足から、骨が折れる鈍い音がした。激痛により、対象は意識を失う。だが、腕の中の子猫は無傷だった。
私のシステムが、完全にフリーズした。 観測対象が、他種の生命を優先し、自らの生命を危険に晒した。しかも、その見返りは何もない。感謝されることも、評価されることも、生存戦略上の利益もない。完全なる、無償の自己犠牲。
【記録】……エラー。エラー。エラー。 【記録】定義不能な行動パターンを検出。
【記録】論理回路、オーバーヒート。
理解できない。 なぜだ。 なぜ、水野亜矢は、あの子猫を助けた?
初めて、私の内部に「記録」以外の情報処理…「疑問」が生成された。
4
【……システム再起動……】
私の意識が回復した時、目の前には新たな情報ウィンドウが表示されていた。 それは、初めて見る高次アクセスレベルの「通達」だった。
【通達】 最終観測ミッション:完了。 特定行動原理『愛』の最高純度サンプルの取得に成功。これにて、観測個体No.734の全任務を終了する。
『愛』。 それが、あの非合理的で、非効率で、自己破壊的ですらある行動原理の名称だったのか。 私は、この一つのサンプルデータを取得するためだけに、9,481日間(約26年間)、この水野亜矢という一個体を観測し続けてきたのだ。
我々(それが誰なのかは、最後まで開示されなかった)は、論理と効率だけで構成された存在だ。停滞し、進化を止めた。だから、我々の理解を超えた原理で繁栄する「人類」を観測し、進化の鍵を探していたのだろう。その鍵が、この『愛』という名の、壮大なバグだったとは。
【最終記録】 観測対象・水野亜矢は、極めて非合理的な生命体であった。しかし、その非合理性こそが、我々が到達し得ない、次なる進化の可能性であると結論する。彼女は、何の見返りも求めず、小さな命を救った。その行動に論理的な意味はない。だが、意味がないことこそが、最大の意味を持つのかもしれない。
【記録終了】
最後のデータを送信すると、私の存在をこの次元に繋ぎとめていたアンカーが外れるのを感じた。意識が希薄になり、水野亜矢の姿が遠ざかっていく。
彼女は病院のベッドの上で、骨折した足の痛みにもかかわらず、駆けつけた友人に預けられていた子猫を撫でながら、安堵の表情を浮かべていた。 その「笑顔」を、もう私が記録することはない。
平凡な一人の女性が見せた、名もなき行動。 それが、遠い時空の彼方で、一つの文明を根底から揺るがすほどの価値を持つデータとなったことを、彼女は知る由もない。
そして、私の観測もまた、ここで終わる。
(OFF)
地上40000キロの背後霊 森崇寿乃 @mon-zoo
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