23話 いつか終わるその時までを

 極楽の空は、いつ見ても柔らかい。光は真上から降るのではなく、まるで雲の裏側から滲むように広がっている。

 天望はいつも通り、報告書に朱を入れ、釈迦の印を受け取り、淡々と業務をこなす。誰もが微笑んで働く庁舎の中で、自分だけが少し遅れて呼吸している気がした。書類を閉じても、筆の先が手に馴染まない。誰にも責められず、誰にも求められず、ただ善いままでいることはこんなに息苦しいと知らなかった。


「あら、お疲れ」


 極楽の廊下で、天望を呼び止めたのは、愛染明王だった。


「愛染明王、お疲れ様です」

「……あら、何あんた。寝れてる?」


 愛染は天望を見るなり、心配そうに顔を覗き込んだ。


「寝れてはいます、一応」

「なんか微妙にブスよ。この間の方がまだキラキラしてたわ」

「そう……ですか?」

「あいつになんかされたんじゃないでしょうね。ぶん殴ってきてあげようか」

「大丈夫です。むしろ……なんかしたのは私というか」


 愛染がふはっと笑って、天望の背中を叩いた。


「女はね、振り回すくらいでいいのよ。待ってる女はカワイイけど、アンタそういうタイプじゃないはずよ」


 そう言って愛染が軽く肩を小突く。天望は遠くを見たまま答えた。


「……賭けるのは、慣れてるんですけどね」

「負けたくて賭けてる勝負なんかないでしょ?」

「もちろんです、それは」

「勝てるならズルも戦略でしょ。貪欲なやつが結局一番美味しい思いすんのよ」


 ヒールの音が廊下に響き、愛染は背中の手をひらひらさせながら先へ進んで行った。


「じゃーね天望。アンタがいらないならアタシが貰ってくから言ってよね。よろしくぅ」


 愛染明王の背中が遠ざかる。発破の掛け方が乱暴だが、ほんの少し息ができるようになった。

 

 夕方の鐘が鳴り、机の上に影が伸びる。

 天望は筆を置き、整えた書類を抱えて立ち上がった。庁舎を出ると、蓮の香が風に混じっていた。その匂いが、なぜか胸の奥を熱くする。


 歩くたびに足元で蓮の花が琥珀色に輝いた。一人、何の予定もない帰り道はいつもより広くて、寂しい。このまま右に曲がれば、地獄へ繋がる通路に出る。もしかしたらまだ早いかもしれない。もう炎獄はなんとも思って無いかもしれない。忘れたいと願っているかもしれない。糸は、切れているかもしれない。それでも、このまま終われなかった。

 

 天望の足は、鼓動と同じ速度で進んだ。吐く息が震える。覚悟を決めて道を曲がって顔を上げると、白と金に包まれたその視界の先に、極楽に到底似つかわしくない赤と黒が立っていた。


「……久しぶり」

「炎獄……」


 お互いにひと月ぶりだった。姿を見るのも、声を聞くのも。言葉が見つからないまま、時間だけが静かに流れた。天望の手の中で、極楽の報告書が小さく震えている。


「……来て、くれたんですね」

「ああ」


 それだけで、胸が痛い。声を聞くことさえ、こんなに苦しいとは思わなかった。

 炎獄は以前より少し痩せて見えた。頬に赤く痕が残り、口の端は血が滲んでいる。


「あのジジイ本気でぶん殴りやがって。痛え」

「喧嘩ですか」

「いや、俺が悪い。責任取れって言われた」


 炎獄は視線を落とし、蓮池の縁を見ていた。光が水面に散って、影が二つ、揺れる。


「……取れましたか」

「いや、これから」

「でも、来たんですね」

「ああ」


 炎獄が天望を見て、困ったように笑う。


「会いたくて」


 天望は一瞬、息を止めた。返す言葉が見つからず、ただ頷く。沈黙の中、蓮の花がひとつ落ちて、波紋が広がる。極楽の風は、静かにその輪を撫でていった。


「……少し、歩きませんか」


 炎獄が頷く。

 

 蓮池を離れ、白砂の回廊を抜けていく。極楽の外れ、灯籠の並ぶ小さな庭。日が傾き、金色の光が砂に滲んでいた。

 天望は立ち止まり、振り返る。炎獄は少し離れた場所に立っていた。光と影の境に、赤と黒が溶ける。


「このひと月、何してました?」

「何も。記録して、裁判やって、亡者燃やして、そんだけだ」

「結構色々やってるじゃないですか」

「全部仕事って一言で片付くやつだよ」

「私も……何も」

「賭けもか?」

「賭けは、そうですね。しました」

「してるじゃん」

「賭けました。あなたに」


 風がぴたりと止まる。光の輪が揺れて、空気が張り詰めた。


「呼べば、きっと炎獄は来てくれるって思ったんです。元通りになれるって。ごめんなって笑って、私もごめんなさいって言って。それでまたご飯とか行って、元通りに」

「……」

「でも何も送らなかった。それでもまた会えるのか、賭けました」

「じゃあ、俺は負けた訳だ」

「ふふ、いいえ。炎獄と勝負した訳じゃないですよ。勝ったとしたら、お釈迦様かも」

「……そっか」

「ねえ、炎獄。閻魔様に殴られなくても、来てくれましたか」


 炎獄は目を伏せた。長い沈黙。灯籠の火が小さく瞬き、白砂の上に影が揺れる。


「……わかんねえ」

「そう、ですか」

「でも摩訶迦葉に言われて、閻魔にぶん殴られて、ちゃんと目ぇ覚めた。ごめん、臆病で」

「知ってます。炎獄が臆病な事くらい」

「敵わねえな仏ってのは」

「だから炎獄、私――」

「好きだよ。天望」


 顔を上げた炎獄の声が真っ直ぐ届く。吸い込もうとした空気が、直前で止まった。天望の心臓が、ひとつ大きく跳ねる。


「ずっと。初めてお前がうちに来た日かな。あれからずっと好きだ」

「……っ、えん、」

「俺は何も残せねえ。だから言わないで離れるつもりだった」

「……」

「でもごめん。俺、仏じゃねえから、煩悩まみれでさ」

「……うん」

「焦げ跡をお前に残したくなった」

「えん、ごく」


 炎獄の手が天望の手に触れる。繋ぐでもなく、包む。


「責任の取り方なんて正直わからん。ただお前と一緒に鍋でもつついて、酒でも飲んで、賭けでも麻雀でもいいから遊んで、仕事中にたまに思い出して。……同じ場所で一緒に眠りたい。あと二千年くらいかけて責任の取り方は考える事にした。だから、俺が今までお前に救われた分、今度は俺の火が終わるまでの間を、全部お前に使わせてくれ」


 声なんて出なかった。ただ涙だけが溢れて、喉の奥で言葉が詰まる。ただ漏れていく嗚咽を炎獄は黙って見ていた。言いたい事は山ほどあったのに、そのどれもが言葉にならずに息になる。 

 炎獄を見る。いつもの炎獄だ。大きくて、熱くて、誰もが恐れる鬼で、口が悪くて、誰よりも優しい。見上げて話し掛けた時はいつも少し屈んでくれていた。


 ――ねえ母様、私もう上を見なくても大丈夫みたい。


「泣くなよ」

「無理、むりです、だって」

「うん」

「好きだもん、私だって、炎獄……っ!」


 答えた瞬間、包まれていた手は握られ、勢い良く引き寄せられる。ほとんど倒れ込むように炎獄の腕の中へ収まって、ただ熱だけを感じた。

 耳元で鼓動が跳ねる。世界の全部が燃えるように熱い。ふたりとも、暫く何も言わなかった。ただ噛み締めるように、腕に力がこもる。今この瞬間だけで、すべてが報われていた。やっと、全部が埋まったような気がした。


 炎獄の指が涙を拭う。それでも溢れ続ける涙に炎獄は少し笑って、天望の顔にかかる髪をよけた。指先で髪を耳に掛ける。そのまま顎の下へ滑る。首の後ろへ手のひらが回って、合図もなく、天望は目を閉じた。まぶたの裏で、炎と光が重なり合う。焦げた香が、やさしく残った。それは痛みでも、罰でもなく、ただ暖かく触れるだけ。

 目を開けて、近くに顔があって、照れ臭くてまた笑う。涙はもう止まっていた。


「怒られそうだな、釈迦に」

「そしたら、地獄に逃げましょう」

「いいな、それ」


 どちらともなく、指先同士が触れる。炎獄の手が覆うように天望の指を掴むと、指の間を埋めるように繋ぎ直した。


「ねえ炎獄、お腹すきました」

「おう、何食う」

「鍋の材料買って帰りましょうよ」

「そうするか」

「はい!」


 ふたりの間を、光が通り抜けた。灯籠の火が揺れ、極楽の空が白く滲む。風が静かに、ふたりの影を撫でていく。


 光の中で、蓮がひとつ、音もなく開く。世界は静かに燃えていた。

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