22話 立て、クソガキ

 炎獄が天望と会わなくなって、ひと月が経った。メッセージは届いていない。送ってもいない。天望の来なくなった部屋は、すっかり色を失っていた。使われない土鍋やカップが流しに入れっぱなしのまま水に浸かっている。仕事をして、帰ってきて、寝る。それだけの空間。大丈夫、戻っただけだ。あの頃に。 

 朝は変わらない。地獄はいつも同じ色で始まる。釜の音。鉄の匂い。鬼と亡者の声。仕事も滞りなく回っている。炎獄の机の上には、昨日と同じ書類が積まれ、灰皿の中には吸い殻が増えただけだった。


「……」

「……」

「……」


 五審、執務室の空気は率直に言って最悪だった。誰も口を開かない。それだけなら単なる真面目な職場だが、空気があからさまに重い。炎獄の態度が何か変わった訳ではない。ただ、閻魔も紫式部も下手につつくこともできず、どの雑談が何の地雷を踏み抜くのか見極める術がないのだ。肩身狭そうに広報資料をまとめる紫式部が、閻魔に目で“気まずい”と訴えた。


「……炎獄」


 閻魔は玉座から炎獄に声を掛ける。いつもの扇は閉じられ、手には何も持っていない。薄暗い光を背にして、炎獄から表情は見えなかった。


「報告書、届いてねぇな」

「……後でまとめてから渡す」

「まとめる、ねぇ」


 低い声。閻魔はゆっくりと机の前まで歩み寄り、視線を落とす。


「お前さ、自分でわかってる? 最近身入ってねえの」


 炎獄は何も返さない。閻魔は机の灰皿を指先で軽く叩いた。灰が散る。そのまま沈黙が落ちた。


「仕事の手は抜くな。何考えてたっていいけどな、公私は分けろ」


 閻魔の目の奥は怒りの色をしていなかった。ただ、どこまでも冷静で、遠い。

 紫式部は内心、“なんで余計気まずい事すんの……?”と思いながら、資料棚を整理しに向かった。

 

 その時、ノックの音が響く。丁度立ち上がった紫式部が扉を開けると、香木の香りが漂った。摩訶迦葉が入ってくる。衣の裾を整えながら、無駄のない所作で机の上に書類を置いた。


「五審への提出分。天望吏の代理でお持ちしました。

 本人は極楽観光課のツアーが重なっているそうで。……今日は地熱泉巡りの案内中です」

「……珍しい」

「ええ。天望吏には現場の対応を優先してもらっています。この一週間も職務に遅れはなく、報告も正確でした」


 迦葉は書類の角を揃え、差し出す。淡々とした口調。その静けさが余計に空気を張り詰めさせた。


「閻魔大王。少し彼に、よろしいですか」


 迦葉が玉座の閻魔に声を掛ける。「許す」と閻魔が言うと、迦葉は炎獄の正面に立ち、静かに言葉を紡いだ。


「彼女とあなたに何があったのか、私は聞きません。職務の範囲外です。けれど、先月うちの部下が赤い目で戻ってきたのは、記録として残っています。泣き腫らした目で報告書を提出し、翌朝には笑って出勤しました」


 迦葉の声音は、まるで報告だった。だがどこか滲む。それは上司として、守る者の声だ。


「観光課のガイドも、欠勤も遅刻もなく。吉祥天とも、うまくやってくれていて、助かりますよ。……あなたが何をしたにせよ、彼女は職務を果たしている」


 淡々とした声が、灰の静寂を打った。“助かる”という一言が、まるで「お前が居なくても彼女は立っている」と告げているようだった。


「鬼であれ仏であれ、“働く”とは責を果たすことです。そして、あの子は果たしています。なら、あなたはどうです。与えられたものを燃やして放置するのは、怠慢です。彼女の足を止める権利は、あなたにはない」


 言葉がそこで一度途切れる。迦葉は視線を逸らさず、少しだけ声を落とした。


「司録司命、炎獄鬼。あなたは、ちゃんと彼女を見ましたか。彼女の言葉を、聞きましたか」

「……」

「あなたの理論で完結して、目を逸らしていなかったか。ご自身で確かめてください」


 炎獄は言葉を失う。迦葉は淡い溜息を吐き、静かに書類を差し出した。


「天望吏は、立派な職員です。彼女のような部下を持ち、私は誇らしい。彼女に恥じない働きをなさい」


 静かな叱責。怒鳴り声ひとつないのに、痛い。迦葉は報告書の端を軽く叩いて揃え、背を向けた。


「閻魔大王、お時間いただきました。それでは私はこれで」

「ん、御苦労」


 香木の香りが残る中、扉が静かに閉じた。その音が、罪状告知の鐘みたいに重く響いた。灰の粒がゆっくりと落ちていく。

 誰も息を飲まないのに、部屋の中心だけがぽっかりと冷えているようだった。叱責の余韻が壁にはりつき、五審本来の厳粛さと混ざり合い、妙に生々しい静けさをつくっていた。


「怒られてやんの」


 先程までの迦葉と対照的な、閻魔の軽い声。扇を置き、玉座から炎獄を見下ろしている。


「ま、俺もそう思うよ。今のお前がやってんのはただの逃げ」

「……わかってる」


 炎獄の拳が机の上で握られる。関節が白くなる。下唇を噛み、絞り出した。


「でも合わす顔……ねえだろ。あいつは極楽の天女で……極楽は、俺みたいな奴の居ていい世界じゃねえ」


 言葉が落ちたあと、部屋の空気が沈む。閻魔はそれを追い払うように、ゆっくり息を吐いた。


「合わす顔、ね……」


 扇を閉じ玉座から降りる。衣を引きずって、閻魔は炎獄の前に立つと、袖口を上げた。


「よし、歯ァ食いしばれ」


 ――瞬間。閃光。鈍痛。


 閻魔の拳が炎獄の頬に飛んだ。鈍い音が部屋の奥に吸い込まれる。頬が焼けるように熱い。灰が落ち、帳簿が音を立てて床に散らばった。炎獄は反射的に身を固くしたが、閻魔はもう一歩も近づかない。その代わり、声だけが響いた。


「閻魔様!?」

「ッ、何……」

「まずお前の上司の閻魔大王様から。炎獄、お前この地獄で何を見てきた。責から逃げた末路は、誰よりも知っているはずだぞ。何故お前がそれを繰り返す。この地獄で1番目の当たりにしてきたお前が。何故自分の事になるとそっち側に回る」


 炎獄を殴ったその腕で、閻魔はゆっくりと頭上の冠を外した。


「次に俺からだ。立てクソガキ」


 いつもの軽口のようで、その語気は明らかな苛立ちを含んでいた。裁判中に亡者に向けるそれとは違う、どこか実感のこもったような色。


「ダッセェ。何だ合わす顔がねえって。最初からずっとねえだろ、そんなん」

「んな事、分かってる」

「分かってねえよ。分かってねえからそういう馬鹿が言えんだよ。利用するだけ利用して、都合悪くなったらポイか? 何様だよ」

「そんな簡単に捨てられるなら俺だってこんなにわけわかんなくなってねえんだよ! 俺があいつを壊さねえ保証がねえ、だから、離れるなら今だろ……!」

「なんだその理屈。だったら離れるのはもっと前だろ。テメェの欲で引き延ばした癖に何言ってんだ。お前が選べる立場じゃねえんだよ弁えろ炎獄!!」


 喉まで出かかった反論は、声になる前に熱だけ残して消えた。怒鳴り声が途切れたあと、閻魔は長く息を吐く。拳を握ったまま、炎獄を睨み下ろす。その眼には怒りよりも、呆れと哀れみが混ざっていた。


 沈黙の中で、閻魔の衣が小さく揺れる。しばらく無音が続いてから、声が低く落ちた。


「責を果たせ。それまで戻るな――判決は以上だ」


 音が止んだ。炎獄の呼吸だけが、狭い部屋に残っている。灰の匂いに、血の味が混じった。頬を伝う熱が、痛みなのか涙なのか、自分でも分からなかった。


 閻魔はもう拳を下ろしていた。炎獄は答えられない。閻魔の足音が遠ざかる。布の擦れる音がやけに響いた。

 沈む。沈んで、底まで行って、それでも火は消えなかった。頬に残る痛みが、まだ熱を持っている。

 “責任を取る”とは何だ。燃やすことじゃない。壊すことでもない。

 迦葉の声と、閻魔の怒号が、脳裏の奥で重なる。


「……行ってくる」


 そう呟いて、立ち上がる。天望のもとへ謝りに行くためでもない。“戻るため”でも、“やり直すため”でもない。

 ただ、天望が信じた“炎獄”を裏切らないために。


 扉が閉まる。閻魔は外した冠をまた頭に乗せた。玉座に座り直し、炎獄のいない執務室を見つめる。


「……ほんと、手間かかるガキ」


 誰に言うでもなく落ちた声は、紫式部だけが拾っていた。

 呆れに見せかけた声の底に、かすかな安心が混じっている。


「……閻魔様」

「あー式部ごめんな。びっくりしたろ」

「いいえ、荒療治だなとは思いましたけれど……」


 紫式部が床に散らばった書類や閻魔帳を拾い集める。それを見ながら、閻魔は普段飾りにしか使っていない煙管に火を付けた。

 閻魔が殴ったのは、天望を守るためじゃない。ここまで沈んだ炎獄を、まだ引きずり上げられると信じているから。


「……炎獄様、大丈夫でしょうか……」

「大丈夫っしょ。あれでダメになるようなら補佐官にしてねえよ」

「……そうですわね」

「ま、あとは天望次第だな」


 紫式部は、拾い集めた書類の中に、一枚だけどこにも束ねられていない紙がある事に気付く。それは極楽と合同で行った講話イベントの打ち合わせ資料の一部で、既に破棄しても構わないものだった。

 その紙の端に、炎獄のものでは無い文字のメモ書きが走っている。


 “十八時 じごく通り←ちこくしたらごめんなさい”


「……ああ、もう。なんて不器用な……」

「な。わかる」


 筆を指先で回しながら、式部は目を細める。どちらも、もう少しだけ素直になればずいぶん楽だろうに。

 そう思うたびに、式部は“地獄で恋をするものたち”が愛おしくて仕方なくなる。


「心だに、いかなる身にか、かなふらむ、思ひしれども思ひしられず……」


 どんな身の上であれば、心は満足するのか。わかっていても上手くはいかない。紫式部はかつての詠を、今再び重ねた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る