24話 極楽、晴れのち

 窓の外で風が靡いて、遠くで地獄鳥の声が響く。黒縄の谷から上がる熱気は、夜でも衰えることがない。そんな中、炎獄の部屋だけにぽつんと灯りが落ちていた。


 土鍋の小さな穴から白い蒸気が真っ直ぐに天井まで伸びて部屋の湿度を上げていた。天望が鍋掴み代わりのタオルを探している間に、炎獄が素手で鍋の蓋を開けた。出汁の香りが、じんわりと部屋の空気に混ざる。

 鍋からは、くつくつと泡が上がる音。鶏団子が表面に浮かび、湯気はふわふわと天井へ昇っていく。その湯気の向こうに、お互いがぼんやり揺れて見えた。


「ほら、野菜いっぱい入れた方が汁美味しいでしょう」

「ん、うん」


 好きだ、とはっきり口にしてから、まだ数時間も経っていない。距離感が変わったのかどうかも、よくわからない。

ただ、なんとなくお互いに落ち着かなかった。


「天望」

「なんですか?」

「……いや、その……お前、ここ住む?」


 天望は一瞬大きく目を見開いて、咀嚼を止めた。冗談かと思ったが、目の前の炎獄の目があまりにも真っ直ぐで、すぐ真剣だと思い直す。口の中の白菜を飲み込んでから、んん、と少し唸った。


「……は……早……くないですか?」

「……まあ、それはそうだけど……」


 炎獄も自覚はあるらしく、少し眉間にシワを寄せて唸った。その頬がほのかに赤いような気がするのは、熱い鍋のせいかどうか天望にはわからなかった。


「俺からしたら……百年待ってたわけで……」

「……そんなに……?」

「……うるせえなそうだよ……」


 いよいよ炎獄が首まで赤くして目を逸らす。天望はその反応を見て、一気に熱くなるのを感じた。天望が極楽に居るのとほぼ同じ時間、炎獄が想い続けていたなんて、流石に予想外だった。

 初めて、天望は炎獄の事を“可愛い”と思ってしまった。


「……じゃあ炎獄、来ないままでいいんですか?」

「……?」

「私の部屋」


 炎獄の箸が止まる。何なら、口も開いたまま止まった。


「いつか来るかなと思って、色々準備してたんですけど」

「……色々……?」

「なんか、パジャマとか」

「俺の……?」


 今度は炎獄があからさまに動揺した。あらゆる思考が巡るが、九割煩悩だ。


「だって炎獄は用意してくれたし」

「……早く言えよ、そういうの」

「え、でも来なかったんで」

「そんなん……行くだろ……そりゃ……」

「ん、じゃあ今度」


 お互い、思っていたより好かれている事をようやく気付いてしまって、その後は少し言葉少なになった。

 

 食べ終えて、テーブルの上には湯気の名残だけが漂っている。さっきまで白かった湯気が消えると、急に部屋が静かになった。無言で食器を洗う。水音だけが部屋の空気を揺らす。片付ける。風呂に入る。行動はいつも通りなのに、いつもとは少し空気が違った。


「炎獄」


 天望の指がほんの少し炎獄の指先に触れる。炎獄は一瞬ためらうように引こうとして、一拍置き、それから指を伸ばして天望の手を包む。意思確認するように炎獄は繋いだ手をほんの少しだけ強く握る。天望も握り返した。指を絡めた時、今まで躊躇し続けた境界を跨いだような気がした。


「……おいで」


 部屋の灯りは柔らかく、外の風の音だけが小さく聞こえる。

 寒さの言い訳は、もういらなかった。


 *

 

 極楽は穏やかで明るい。

 ここでの業務は罰ではなく、呼吸の回復と心の整備。日付は数えず、笑い声だけが勤怠になる。

 対して地獄は制度的で煩雑。業火に照らされた審判の間では、生前に犯した罪と因果が照合され、一切の虚偽が通じない。

 

 天望は早めに庁舎に着き、机の上に報告書の束を揃える。筆を取って朱を入れる。誰もが笑い合い、香木の香が満ちる庁舎。それでも天望の呼吸は少しだけ遅い。筆の先がわずかに震えるたび、まだ昨日の温もりを思い出す。

 吉祥天が隣の机からひょいと顔を出した。


 「天望ちゃん。なんか顔つき柔らかくない?」

 「……そうですか?」

 「うん。なんか、光が入った感じ?」

 「別に、いつも通りですよ」

 「ふーん?」


 吉祥天は唇の端を上げ、にやりと笑って戻っていった。からかわれたはずなのに、天望は不思議と怒る気になれなかった。指先で筆を回す。朱の線が、今日だけ少し丸くなる。


 昼前、摩訶迦葉が出庁した。書類を確認しながら、天望の机の前で足を止める。


 「天望吏、顔色がいいですね」

 「そう見えますか」

 「ええ。……浮かれすぎぬように」

 「……き、気をつけます」


 迦葉はわずかに微笑み、頷いた。


 「それならいい。あなたは律を越えてはいけません。しかし——」


 言葉を区切り、静かに目を伏せる。


 「業務外ならば、お好きになさい」


 天望は胸の奥でその言葉を噛みしめた。穏やかな息をひとつ吐く。

 風が吹いて、香炉の煙がほどける。焦げた火の記憶が、ふわりと香に溶けた。身体の中に、まだ燻る火種が残っている。



 ――一方その頃、地獄。


「だぁからぁ! これは接・待・費!」

「駄目です焔摩天、飲み代は経費では落ちません」

「けち!!! このむにむにそわか野郎!!」

「焔摩天、真言イジりはライン超えですよ」


 十王裁判所第五審執務室。ダダをこねる閻魔と、領収書を突き返しに来た釈迦の横で、炎獄が帳簿をまとめ、朱印を押す。頬の痣はもう薄く、筆運びも以前より落ち着いていた。


「それから、炎獄鬼」

「……あ? 不備ねえだろ」

「ええ、今日はずいぶん字が丸いですが、おおむね」


 炎獄が今書いたばかりの帳面の文字を指先で示して、釈迦は微笑む。


「答えは出ましたか」

「……お前が勝手な事してくれたお陰様でな」

「ははは。一度飢えなければ気付けぬものですよ」


 珍しく声を出して笑った釈迦を、炎獄は軽く睨みつけたが、結局金色の蓮の香りを返されるだけだった。


「もう、“ただの火”ではありませんね」


 朝の風がわずかに吹き込み、灰が舞う。炎獄が照れたように顔を逸らすと、釈迦と閻魔が目だけを合わせ、言葉のないまま会話する。閻魔が玉座で肘をついたまま、手元で扇を広げた。


「で、昨夜はお楽しみだったわけ?」

「殺すぞクソジジイ」


 閻魔が笑って扇をひとつ鳴らす。炎獄も筆を取り、静かに朱を入れる。

 

 火と光。罪と赦し。極楽で地獄を想い、地獄で極楽を想う。今日も仕事が終われば、境目で待ち合わせて隣で歩く。特別な事は何もない。

 人も、鬼も、王も、仏も。今、誰かのために燃えている。

 

 ――本日極楽、晴れのち業火


 了

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