21話 なりたい者になりなさい
忙しくすればするほど、考える事は減る。定時を過ぎても帰る理由の無い炎獄は、炎獄である必要の無い業務でさえ引き受けていた。今はとにかく何も考えたくなかった。
執務室で机に齧り付いていたが、書類に書かれた極楽の二文字が目に入る度、余計な事ばかりが浮かんで来る。
それならば、と炎獄は立ち上がり、地獄へ続く扉に手を掛けた。獄卒の仕事は単純だ。拳を振り、痛めつければいい。それこそ鬼の意義であり、理由。
炎獄は血の池の周りを一人で歩く。幾千幾億の亡者の血で満ちた池は、ごぽごぽと音を立てて泡が弾ける度、鉄の酸味と熱気が辺りを包んだ。金棒で地面を擦る。鬼の象徴として新人の時に拵えたそれは、重く無骨で手に馴染んだ。
血の池の縁、他の鬼の居ない一角に、這いあがろうとする亡者が居た。岩の影で見落としがちなエリア。注意喚起はしているはずだが、今日の担当は視野が狭いらしい。どの鬼も他の亡者にかかりきりで気付いていない。炎獄はその岩陰へ向かうと、血の池から上がろうと上半身を縁に乗せた亡者の前にしゃがみ込んだ。視線を合わせる。亡者は炎獄を見た途端、真っ青になって息を止めた。
「ごめんなさい……もう勘弁して下さい」
やっとの思いで這い出て、池の淵に手を掛けたのだろう。きっとこれで解放されると思ったはずだ。亡者の指は、節が白くなるほど力が入っている。
炎獄は立ち上がり、その亡者の頭上に金棒を掲げた。現世ならば罪。だがここは地獄で、炎獄は鬼だ。場所と人が変われば正当になる。正しく在りたいのに、そのやり方がひとつも浮かばない。
亡者の口から吐かれる言い訳も、命乞いも、耳障りだ。“ごめんなさい”なんてたった一言で許されようとするその神経が気に食わない。こんな奴らと自分は違うという思い込みたかったのに、どこが違うのかわからずにただ苛ついた。とにかく今、亡者が好き勝手に生きたツケを、ここで払わせなければ気が済まなかった。亡者の瞳が恐怖と絶望に歪む。地獄に救いなどない。犯した罪は消えない。
金棒を振り下ろそうとした瞬間、軽い金属の擦れる音と共に、炎獄の目の前に錫杖が差し込まれた。
その持ち手に、揺れる数珠の房と、丸く落ちる笠の影。法衣の袖が揺れ、袈裟が地獄の熱風を受けて靡いていた。
「呑み込まれてはなりません……」
「……地蔵菩薩……」
地獄に仏。地蔵菩薩が錫杖で炎獄を制す。いつの間に横に居たのか、炎獄は全く気付かなかった。錫杖の先が血の池の赤を映して光る。金色の輪がちり、と音を立てた。地蔵は口元にやわらかな笑みを浮かべながら、視線はしっかりと炎獄へ向けている。
炎獄が行き場の無くした腕を下ろすと、地蔵もゆっくりと錫杖を戻す。それから膝を折り、亡者に向かって手を差し出した。その光景を、炎獄は理解できない。
「よく頑張りました……さあ」
亡者は震えながら地蔵の手を取ると、血の池からその身を引き上げられる。亡者から滴り落ちた雫が辺りを赤く染めている。声を出そうとして口を開いたと同時に、地蔵が錫杖を杖のようにして地面に突き立て、シャン、と音が鳴った。
「立てますか。こちらへ」
「……地蔵菩薩様。勝手な事をされたら困る」
ようやく声が出る。炎獄が去ろうとする亡者と地蔵の背中に声を掛けた。それは振り損ねた金棒の、やり場のない衝動をぶつけるような、八つ当たりに近い。
「そいつの禊は済んでねえ。罰されるべき魂だ」
「炎獄鬼……その言葉、誰に向けていますか」
背を向けたままの地蔵の声に、炎獄の体がわずかに強張った。亡者に向けたつもりの言葉が、すべて自分自身に跳ね返ってきたのを、図らずも自覚してしまったからだ。
地蔵は亡者の肩を支えながら、まっすぐ炎獄へ振り返る。
優しい顔のまま、しかし一切誤魔化しのない目で。怯える亡者の背を撫でながら、地蔵の視線は金棒へと注がれる。それから亡者の顔色を確認した後、炎獄を見た。
炎獄は金棒を握る手に力を込める。一度握った拳を開けない子どものように、ただ握り続けることしかできなかった。
「それは他者に向かうものでなく、あなた自身が向き合うべきもの……」
炎獄は唇を噛む。地蔵の言葉は火のように熱くなく、水のように冷たくもなく、ただ真ん中を射抜く温度だった。炎獄は視線を逸らす。亡者のすすり泣きが、妙に遠く聞こえる。
地蔵は亡者を下がらせ、炎獄と向き合う形で立った。その距離は手を伸ばせばすぐに触れられるほど近い。
「あなたほど強い存在が、こんなにも乱れている……それが、私には心配なのです」
「……乱れてなんか」
「亡者への怒りでも、業の濁りでもない。あなた自身の苦しみが……血の池よりも深く見える」
炎獄の喉が、ひくりと鳴った。地蔵はそっと微笑む。慈悲の仏の微笑みは、その実逃げ場の無い観察だった。
「怒りは武器ではありません……あなたが弱っている合図です」
金棒を握る炎獄の手に、地蔵は金棒ごと包むように触れる。その手に落とした視線を、ゆっくりと上げ、炎獄の目を見た。
「地獄に落ちた者の禊は、続きがございます。しかし……あなたの禊のほうが、いまは先かもしれませんね」
地蔵の眼差しは、責める色も哀れむ気配もなかった。ただ、苦しみをそのまま受け止めるような、静かなぬくもりで満ちていた。だからこそ、炎獄はその視線に耐えきれずに逸らす。
「私は、あなたごと救いたいのです」
「救われるような立派なもんじゃねえ」
「あなたがそのように自らを低く見積もるのは、鬼ゆえにですか。……それとも、亡者を裁く罪禍の自責ですか」
地蔵はいつも炎獄の痛い所だけを突く。自覚すら無かったものを錫杖の先で突かれると、ひび割れたところから溢れ出すように流れて行く。炎獄は頬の内側を噛む。余計な言葉を出さないように。
「裁きを罪だと感じるのならば、あなた方が地獄に落とした魂を私は救いましょう。この地獄が空になるまで……」
地蔵の透き通る瞳の奥に、確かな強い意志が宿っているのがわかる。亡者の体を地蔵菩薩が支える。優しく、力強く。清く正しい、信じた道を逸れたことのない仏の誓願は、炎獄には眩しすぎた。
「鬼に生まれた事が罪じゃねえなら、俺のこの醜さは何だ」
炎獄の喉から搾り出されたそれは、血の池の泡立つ音に掻き消えてしまうほどに小さかった。それでも地蔵は聞き逃さない。炎獄から滲んだ、初めての救いを求める声を。
「……あなたが自らをそう評することは……あなたの側で微笑む者すら、低くします」
地蔵はただ静かに、柔らかく言葉だけを返した。
「鬼であることは、善でも悪でもなく……ただの事実です」
「傷付けるために生まれたのにか」
「そうです」
「亡者を痛め付ける事を何とも思わねえ、自分勝手な頭の作りをしていてもか」
「はい」
地蔵は頷いた。血の池の赤い湯気が揺れ、金棒の先がわずかに震えた。地蔵は炎獄から目を逸らさない。どこまでも背筋を伸ばして、ただ見据える。
「炎獄鬼。なりたい者に、なりなさい」
炎獄はしばらく動けなかった。胸の奥で、押しつぶしていた何かが、じわりと熱を帯びて浮かび上がる感覚だけが残る。
なりたい者になれるのなら、とっくになっている。悔しそうに新聞を睨む日も、口いっぱいに食べ物を詰め込んで幸せそうに笑う日も、微睡んで蕩けて眠る日も、いつもその隣に相応しい自分でいたかった。どんなに愚かでも、せめて人だったなら。だけどどうしようもなく鬼で。炎獄はまだ答えを見つけていなかった。
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