20話 天を望んだその先で

 生まれた村は、裕福ではなかったが、川に囲まれ、緑の多い穏やかなところだった。村の唯一の寺で産まれた時、女だった事に父は落胆したらしい。

 優しい母と、厳格な父。兄が一人。父は「慈悲とは情ではない」といつも言った。仏壇の前で母が黙って頭を下げると、その横で父は経を唱えていた。祈り方さえ、違っていた。

 

 十の頃には読経ができるようになった。父が毎日仏の前で叩く木魚の音に合わせて、本堂の隣で一緒に唱えた。母はそんな私を見て、頭を撫でてくれたのを覚えている。得意になって、村人の前でも唱えた。良い声だと褒めてくれた。それを見た父が満足そうにしていた。嬉しかった。兄だけはいつも、難しい顔をしていた。


 ある日、兄が父に叱責されているのを見た。お前は跡取りであるのに、何故満足に経のひとつも覚えられないのかと。兄が真面目に仏に向かうのを、見た事はなかった。時折街に出ては、薄く笑いながら酒の匂いをさせて帰ってきて、決まってこう言った。「女の癖に」と。

 

 静かな夜だった。山の上の寺は、風の音すら吸い込んでいた。灯明の火が小さく揺れ、木の床は冷たく湿っていた。

 襖の向こうで、軋む音がした。足音。ひとつ、またひとつ。

 僧衣の裾が、闇の中で擦れる。口元に笑いのようなものを浮かべて、兄の手が枕元に伸びてきた。着物の裾から腿に入り込む、ぬるい感触。声を出すな、と兄は言った。何故かはわからなかった。ただ、身の毛がよだった。

 その時、ぱん、と火の粉の爆ぜるような音がした。


「仏の家に生まれて、何をしているの」


 母の声が震えていた。怒りでも、恐怖でもなく。まるで泣きそうに見えた。兄は何も言わず、唇を噛み、そのまま奥の間へと逃げていった。母の腕は、どこまでもあたたかかった。声が耳の奥で響く。


 「上を向きなさい」


 その言葉だけを覚えていた。それだけに縋って生きた。


 それから数年経ち、私は十五になった。

 隣の村の青年と、縁談の話が出た。挨拶にと、牛を三頭と、七匹の豚をくれた。隣の村は、こちらよりもずいぶんと裕福らしい。父は笑っていた。母は少し心配そうな顔をしていた。


 そうして、顔も名前も知らない人のところへ輿入れが決まった。寺の壊れた雨樋と、村長の家が新しくなった。


 しかし、その年の夏はひどく疫病が流行った。暑くなる前に、雨が降らなかったのだ。輿入れするはずだった青年は、病で呆気なく召されてしまい、幸か不幸か、結局どうにもならなかった。父は経を読んだ。兄もこの頃には読経をするようになっていた。

 

 そして、二十を過ぎた。不吉と思われたのか、あれから縁談の話もとんと無くなった。いよいよ剃髪して仏門へ入るか、という年、今度は雨が止まなくなった。空は常に灰色に覆われ、大粒の雨が隙間無く降り続ける。田畑は泥で使い物にならなくなり、川は水位を増し、轟音を上げ、今にも村を飲み込まんとする勢いだった。

 父は何度も仏に祈った。村人は父に責を求めた。そしてこの年、母が往生した。病だった。召される直前、母は細い声で繰り返し言った。


「上を見なさい。天は見ている」


 そうして私の手を握ったまま心臓を止めた。小さくなった母を、寺の裏に埋めた。


 雨が降りしきる朝だった。山のふもとの川は、まだ泥の色をしていた。

 小さな堂の奥。藁を敷かれた石の上は、ひんやりと冷たかった。膝の上には白い布。針の跡がまだ新しい。父の背後に、村人たちが沈黙のまま並んでいた。


 「これは村のため。お前の身は、仏の道へ還る」


 父の表情は何一つ変わらなかった。責を求められた父は、娘を生贄に雨を治める判断を下した。拒否は出来なかった。ただ、村人と父の前で、頭を下げる事しか許されなかった。嫁にも行かず、跡継ぎにもならない穀潰しの娘が、村のために死ぬことは名誉だと言い聞かせた。


 一人が座れる分だけ掘られた土。そこに御座を敷き、座禅を組む。鈴だけを持たされ、頭上に木の板の蓋が閉められる。息をするために開けられた穴に通る竹筒だけが、外界とのつながりだった。


 鈴を鳴らしながら、読経を続ける。水害による村人の苦しみを一身に引き受け、平穏を願うために。読経の声と鈴が聞こえなくなったら、それが仏の所へ還った合図になる。

 

 氾濫する川の程近く。暗い土の中は雨の匂いがした。竹筒ひとつぶん差し込む光からだけ、空が見えた。

 読経の声を上げる。鈴を鳴らし続ける。線香の匂い。鳥の羽音。雨の名残。竹筒の向こうは、どこまでも遠い。

 やがて、声が出なくなった。唇は切れ、顔を上げていられなくなる。鈴の音を鳴らす力さえ、もう入らない。


 ――ああ、終わる。


 最後に天を見た。母の言葉の通り。雨は降っていない。代わりに月が見下ろしていた。丸く差し込む光が落ちる。


 どうして、私が。


 産まれた時から愛されなかった。父がこちらを見てくれた事が、一度としてあっただろうか。顔よりも、仏像に向かう背ばかりが浮かぶ。兄のぬるい手が何をしようとしたのか、幼い頃はわからなかった。今になってやっと、あれの意味に気付く。母もいなくなってしまった。伴侶は持てなかった。きっと皆、私を何かの駒だと思っていた。好き勝手に動かして、一度も自分の意志で盤面に立てなかった。


 怖い。怖い。こわい。死にたくない。

 まだ何も知らない。愛される事も、愛する事も。私が何をしたって言うんだ。何の罪で死ななくちゃいけないんだ。もし、もし望んでも良いなら、この地獄から出して欲しい。南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏。見ているのなら誰でも良い、何でも良い。天へ。極楽へ。

 

 その時、ふと、風が通った。

 光が形を持ったような、柔らかいまなざし。その奥に、誰かが笑った気がした。


 ――もう、良い。


 声ではなかった。けれど、あの時確かに聞こえた。誰よりも天を望んだ、あの時に。

 上を見た。天を望んだ。竹筒の向こうに月が見えた。

 

 今、私はあの光の続きに立っている。極楽の風は絹のように薄く、肌を撫でても冷たくない。

 

 いつだって極楽は優しい。その優しさが、今は寂しい。午前も午後も、何も変わらない日常が進む。

 天望は机の上で端末を開き、文面を一行だけ打っては消した。


 ──炎獄。


 指先が止まる。送信欄だけの、何もない画面を見つめる。

 迦葉が巡回に来て、朱の印をひとつ渡した。


「本日のツアー資料、確認を」

「はい」


 朱肉の匂いがわずかに立つ。印は静かに紙へ沈み、赤い丸だけが残る。何があっても、極楽は続く。誰もが穏やかで、暖かい。このまま、何もなく、平穏なだけの日々を過ごせたら幸せなはずだった。それ以上を求めるのは贅沢な話なんだろう。


 ずっと気付いていて、見ないふりをした。炎獄の優しさに甘えて、ずっとずるかった。壊したくなかった。


 ……違うかも。壊して欲しかったのかな。だから、その視線に気付かないフリをしていた。

 

 歩く時はいつも風上に立ってくれた。段差があったら、気を付けろって言ってくれた。上手く笑えない日はただ黙ってそばにいてくれた。寒い夜に、抱き締めてくれた。そのどれもを、友人だからで誤魔化してきた。


 きっとこれはその報いだ。罪には罰がある。これが苦なのだと思い知る。愛別離苦、って確かお釈迦様が言っていた気がする。正直、あんまり覚えてないけど。お釈迦様みたいに、そういうものだ、と悟れたならばどんなに良いだろう。まだ、仏になんて程遠いらしい。


 見るな、と言った炎獄の姿が焼き付いて離れない。恐れと、後悔と、絶望。あんな顔をさせたいわけじゃなかった。炎獄はいつだって、難しい顔して、呆れて、しょうがねえなって笑って、最後に全部許してくれる。

 あの時、私が走って手を取れば、炎獄は握り返してくれたはずなのに。できなかった。愛する勇気も、愛される勇気もなくて。

 

 昼の鐘が鳴り、香炉の煙がほどける。吉祥天が書類の束を抱えて顔を出した。


「天望ちゃん、お昼行こ!」

「あ、行きます」


 手に持ったままの端末の電源を切る。引き出しにしまって、鍵をかけた。


「ね、弁天ちゃんの新しい標語ポスター見た? 超可愛かったよー!」

「まだ見てないです。今月のやつですよね」

「そう! 天望ちゃん会ったんだよね、いいなぁ」


 ふと、弁財天の言葉を思い出す。ステージで輝きながら、愛は手を伸ばせばそこにある、と言った彼女。そして、彼女の影でありたいと言った宇賀神。輝くための、影。影のための、光。

 私は、彼の何になれるだろう。……薪とかかな。

 

 午後の窓口は、波のように静かに満ちては引いた。

 ツアーの導線を確認し、朱印をひとつ押す。反射で出来ることは山ほどある。けれど反射では埋まらない隙間もある。

 端末を開く。名前を打つ。消す。繰り返す。


 終業の鐘が鳴る。庁舎の影が長く伸び、蓮の縁が金色に縁取られる。天望が回廊に出ると、弁財天のポスターが目に留まる。完璧に微笑む彼女は、愛を掴めたのだろうか。

 庁舎を出る。髪が風を含んで靡く。蓮の花が揺れて、水面を揺らした。上を見る。あんなに望んだ天が、こんなにも近い。髪が風を含んで浮く。遠いはずの熱が、指先だけを温めていく。

 

 オッズも払い戻しもない、誰にも見えない賭けをしよう。賭けなければ当たらないから。買わなければ、戻ってこないなら。

 この極楽で、蜘蛛の糸は、切らさない。ひっぱらない。ただ、張る。あなたが掴んだ時、私が一直線に滑り降りるために。

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