18話 もう誤魔化せないから
極楽の朝は、いつもより少しだけ重たかった。風は涼しいのに、胸の奥がまだ熱い。
天望は布団から半身を起こす。髪が肩を滑り落ちる音だけが、やけに大きく聞こえた。
寝起きの鏡は正直見たくなかったが、仕事の前に確認しないわけにもいかない。
予想通り酷い顔をしていた。目元が少し腫れている。泣いたわけではない。ただ、あの光景が瞼の裏に焼き付いて、あまり眠れなかった。
「……むくむんだ……死んでても……」
小さく呟いて少し笑っても、部屋の中に吸い込まれて消えるだけだった。
顔を洗い、軽く化粧をする。目元のクマを隠すにはどうしたらいいって言ってたっけ……と思い出そうとして、また幻視の炎獄が浮かんで、勝手に眉が寄った。
白湯と、白米に卵を落としただけの朝食を摂る。一人だとこんなもんだ。炎獄と二人の時は、小鉢を少し足すのに。
朝、いつもなら罪人ダービーのレースアプリを開くのに、今日はなんとなくそんな気分にもなれなかった。罪人の顔を見ると、なんだか鬱屈としてしまいそうで、端末を静かに伏せた。
極楽の風は爽やかで、どこまでも清らかだ。だけど、胸が澄むわけではない。
出勤のための小船の中、蓮池から水音が聞こえる。揺れる蓮が水面に輪を作る。朝日を浴びて軽く金色の池が、目に痛い。
庁舎に入ると、既に迦葉が机の整理をしていた。
几帳面すぎて、朝から書類がきっちり塔のように積まれている。
「おはようございます」
「……おはようございます。……天望吏、少し顔色が悪いようですが」
「大丈夫です。本当に」
大丈夫ではなかったが、仕事を休むほどではない。
デスクに座り、端末を開いて今日の観光ツアーの予約人数を確認する。画面の光が眩しい。
書類をまとめる手を動かしていれば、余計なことは考えなくてすむ。
天望は机に積まれた文書を整理しながら、指の先に残る光の残滓を見つめた。
何をしていても離れてくれない、炎獄の過去。あの火の赤さと、静かに燃える孤独が、まだまぶたの裏に残っている。
何も映さない瞳で罪人を裁き、何も感じない体で夜を消費し、何もかもを終わらせようと自らを焼こうとしたあの姿が、いつまでもそこに佇んでいる。
香炉の煙が立ちのぼる。香木の匂いが、釈迦の声を呼び戻す。
――彼は輪廻に帰る。あなたはここに残る。それがこの世界の理です。
あの言葉が、まるで鎖のように胸に絡みついて離れない。
わかっている。炎獄は鬼だ。いつか離れる時が来る。
それでも、見てしまった。彼が何を燃やしてきたのか。その熱を知らなければよかったと、今さら思っても遅い。
「……炎獄」
小さく名前を呼ぶ。声に出すだけで喉が焼けるように熱い。返事が返ってくるわけもないのに、胸の奥がざわめいた。
「天望ちゃん〜〜おは〜〜!」
軽やかな声に振り返ると、吉祥天が顔をのぞかせていた。
いつものように袖が金粉を散らしている。
笑っていたのに、天望を見てすぐに表情が変わった。
「え、待って。どした?」
「……いえ、何も」
「嘘! 絶対なんかあった!」
天望は苦笑でごまかす。吉祥天は呆れたようにため息をつき、机の端に腰かけた。
「なにー? お釈迦様の説法くらった?」
「……はい」
「そっかあ。どしたのぉ」
「……秘密です」
天望がそう言うと、吉祥天は目を細めて微笑んだ。
「絶対鬼の話じゃん!」
香炉の煙が二人の間をすり抜け、空へ昇る。
「天望ちゃんさ、もっと自信持って良いと思うよ」
吉祥天の長い爪が、机の上できらめく。天望は一瞬だけ、その指先に残る光を見た。
「最初に炎獄さん見た時一発で思ったんだぁ。あ、この人めっちゃ天望ちゃん好きじゃん、って」
「……え」
「だからあたし聞いたじゃん? ピ? って」
確かに言っていた。ただの軽口だと思っていたが、吉祥天はそれなりの確信を持っていたらしい。
「超わかりやすいけどね。あたし見る時と天望ちゃん見るときで全然違うもん」
「そうですか……?」
「つかさー、天望ちゃんもガチで気付いてなかったわけじゃないっしょ?」
吉祥天が首を傾げながら聞く。天望「いや」と返事をしようとして、少し喉の奥で言葉がつかえた。それが嘘になることに、気付いてしまった。
「……正直、少しは。自惚れかもしれないですけど」
「いや、わけなくない? だってあの超ブラックの閻魔大王の直属が、わざわざ時間空けて待ってんでしょ?」
「……そうですね。……家とか、泊まってますし……」
「ねえ、それ“付き合ってないけどやることやってる”とかじゃないよね?」
「全然。だから何ともないと思ってたんです。思い込みたかったというか」
「……じゃあさ、天望ちゃんはどう思ってるの?」
そんなもの、決まっている。でもはっきりと口に出すのが怖かった。
「……どうするのが正解なのかが、わからなくて」
近付きすぎれば、きっと火傷する。それでも、会いたいと思ってしまう。
「会ったらわかるかもよ?」
「……そうですね……行きます。報告書もありますし」
口にしてから、自分でも苦笑した。そんなもの、明日でもいいのに。
それでも今日じゃなきゃ駄目な気がした。彼の顔を見なければいけないと思った。
椅子を立ち、窓の外の蓮池を眺める。朝の光が水面に跳ね返り、眩しすぎて、少しだけ目を細めた。
天望はそっと香炉の蓋を閉じた。香煙が細く、空へと伸びていく。
地獄へ足を踏み入れるのもすっかり慣れた。硫黄と錆びた鉄の匂い。罪人が沈み、罪を禊ぐ。
鬼達はそれぞれの責務を全うする。炎獄もまた、この地獄の仕組みのひとつ。
重苦しい扉の前で、天望はひとつ息を吐いた。いつもは気軽に通る五審への扉が、今日はいやに大きく見える。
軽く握った拳で、扉を3回叩く。返事を待って、中へ進む。
「失礼します。先日の報告書をお持ちしました」
「おう、わざわざ悪いな」
「いえ。……仕事ですから」
ただのやり取り。けれど、耳の奥で自分の鼓動がうるさい。
炎獄は、いつも通りの声で答える。その“いつも通り”が、今だけどうしようもなく遠かった。
「つか、昼か。天望、飯は?」
「いえ、まだ……」
「ん、じゃあとあと少ししたら下で……」
「あ、いや、今日は……吉祥さんと約束、してて」
「そうか。わかった」
天望自身も、嘘をつくつもりはなかった。守りのつもりだった。1番卑怯な守り方。だけど今はあまりに、熱い。
「じゃあ、極楽に戻ります」
「そこまで送る」
「え、でも」
「閻魔」
「行ってらー。20分で戻れ」
「おう。行くぞ」
ああ、どこまでも優しい。ぶっきらぼうな声が、扉を開けてくれる腕が、全部。
「天望ちゃん」
閻魔の声。振り返ると、閻魔が扇子を閉じて、表情を見せる。その口元は、にぃ、っと弧を描いていた。
「大丈夫」
全てを見透かされている。そんな気がした。もう炎獄を気軽に友人と呼べない不安も、見てしまった事の罪悪感も、境を越えてしまうことの畏怖も、いつかの別れの恐怖も。
きっと閻魔大王は、全部分かって言っている。
「なんだ? あいつ……」
炎獄は不思議そうに隣を歩く。
歩幅をいつも天望に合わせてくれていた。裁判所までの廊下も、家へ向かう道中も、ネオンの街でも、いつも。
ふと、目が合う。炎獄の眉が下がる。鬼の赤い瞳が細くなって、笑う。
「お前も何見てんだよ」
ああ。ダメだ。誤魔化しが効かない。
ずっと前から知っていたのに、見て見ぬふりをしてきた。
あなたが笑うと、自覚してしまう。燃えてしまう。それでも、そばに居たいと願ってしまう。いつか離れる事になっても、この世界にあなたの痕跡がなくなるその日まで。共に燃えたいと思ってしまった。
釈迦が見せた炎獄の過去。彼が燃やすしかなかった痛みを知った瞬間に、きっともう戻れなくなっていた。
だって、好きだから。きっと炎獄も、好きでいてくれるから。
なら、その痛みを分けて欲しい。あの時あなたを苦しめたのが私なら、その分の痛みも全部共有したい。
けれど、その願いは彼の過去を踏みつけることと同じかもしれない。
……それでも、言わなければ。
沈黙のままでは嘘になる。心のどこかで炎獄の優しさがどこから来るのか、ずっと見てみぬふりをしてきたから。
揺らぐ。その優しさを信じたいのに、それが同情なんじゃないかって思ってしまう今の自分が、どこまでも嫌だった。自分が彼と並んで立つ資格を失いたくない。だからこそ、口を開く必要があった。
地獄庁舎を一歩出ると、硫黄と鉄の匂いが強くなる。遠くで地獄の釜が煮え、亡者の叫びがこだまする。
天望は刑場の方をじっと見て、足を止めた。
「ねえ、炎獄」
「どうした」
「あなたの過去を、少しだけ見ました」
「……天望?」
「耐えて、耐えて、燻っていた時を」
炎獄の瞳が開かれる。数秒考えて、理解したのか、低く絞り出すような声で答えた。
「釈迦か」
「はい」
「余計な事しやがって……」
「勝手にすみません。でも、必要だと思いました」
「……どこまで見た」
「あなたが、何もかも燃やそうとした時までを」
「ああ――……なるほど」
炎獄の顔が苦しげに歪む。
天望がはっとする。ちがう、そんな顔をさせたかったわけじゃない、と天望の口から言う前に、炎獄は両手で額を抑えるようにして俯いた。
「すまん。俺は、そういう鬼だ」
「炎獄」
「お前の前で、善良であろうとした。何もかも無かったことにして、取り繕って、やましいことなんかねえって面して」
炎獄の視線が足下に落ちる。小石がひとつ、転がった。
「でも、そんなお綺麗なもんじゃねえ。どうしようもない熱を他人にぶつけるような、そんな鬼だ」
それはまるで懺悔のようで、ただどこにも許しを乞う気配の無い告白だった。罪人が己の罪を自白する、そんな温度。
「違う、炎獄、私は……」
「お前だけは、焦がしたくない」
「炎獄」
「……悪い。行け。今は……頼む」
明確な、初めての拒絶。
それは違うと否定したかった。だけど、彼も恐怖していた。それがわかってしまったから、何も言えなくなった。
「炎獄」
「行け。頼む天望」
両手の隙間から覗いた炎獄の表情は、泣きそうなような、吐きそうなような。何より、全てを諦めたような顔だった。
「――見るな」
息を吸う。何も言えないまま、空気が喉を擦った。足元の灰がわずかに舞い上がり、炎獄の足元に散る。それを見た瞬間、言葉が全部、意味を失った。
音は無い。ただ、燃え残りの熱だけが、まだ互いの間にあった。
炎獄に触れようとした手は空を掻き、何も触れずに落ちる。こちらを見ない彼に背を向けて、極楽への道を1人で歩く。振り返るとまだ彼の姿がそこにある。
――どうしよう、間違えた。違う、責めたかったんじゃない。全部受け入れたかった。のに。
極楽に戻る扉の前で、天望はまた振り返る。庁舎の灯が、まだ赤く揺れている。あの火の中に、自分の居場所はない。
「っ……ふ、ぅ、……っ」
どうしようもなく、溢れた。焦げて、溶けて、甘い。瞳からとめどなくこぼれていく涙を、止められないまま歩く。
炎獄の火にあてられて、自分の中の何かがようやく溶け始めた。
あんな顔させるくらいなら、もっと静かにしていればよかった。何も知らないふりをしていれば、優しいままでいられた。それでもまだ、進みたいと思っている。
頬を拭って、息を吸う。極楽の蓮の香りは、まだ地獄に残っていた。
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