17話 妄語の根

 朝の光は柔らかく、極楽の蓮池にはまだ露が残っている。

 天望は釈迦の庁舎に呼ばれ、香炉の前で手を合わせた。釈迦が菩薩や直弟子以外の個人を庁舎に呼ぶ事はかなり珍しく、天望は少し緊張していた。香炉の煙は一本の糸のように伸びて、天井の見えない針に留められているようだった。

 部屋の中は、外よりもほんの少し冷えている。


「焔摩天に仕える鬼と、随分と仲が良いようですね」


 釈迦の声は、湯気みたいに静かだった。


「……炎獄の事でしたら、友人です」

「天望吏」


 釈迦の伏せた瞼が僅かに開き、天望を見る。


「“妄語”とは、他人を欺く嘘ではありません。自分に嘘をつくことこそ、最も深い妄語です」

「……」

「あの鬼を“友人”と呼んだとき、あなたの心は静かでしたか?」


 天望が下を向く。言い返す選択肢は無かった。


「一切皆有仏性。鬼にも、仏の心があります。炎獄もまた、慈悲を知るために生まれた火。鬼と仏が交わるのは、禁忌ではありません」

「……私は」

「ただし、相応の覚悟は必要です」


 釈迦は胸の前で、右手の指先で輪を作る。優しい声で、天望に語りかけた。


「天望吏、あなたはこの極楽で、立派によくやっている」

「……ありがとうございます」

「だからこそ、今一度確認をします。天望吏。あなたはこの極楽に“在る”者です。あの鬼よりも、この先遥かに長く」


 天望の指がわずかに震えた。沈黙の中、釈迦は立ち上がり、天望の頭上から声を掛ける。


「どんな鬼でも、いずれ輪廻に還る。輪廻とは、“因果の川”です。流れ、溶け、形を変えてゆく。魂が新たな器を得た時、あなたの知る“炎獄”はもういない」


 天望の呼吸が、浅くなる。言葉が喉で止まり、沈黙が胸に重く積もった。


「あなたの望みは、流れる水を手のひらで掬うようなものです。その形のまま、決して留めてはおけない。掬えば零れ、零れてなお掬おうとすれば、あなたの手が裂ける」


 天望の目が揺れる。釈迦は淡く笑った。


「仏の心でありながら、永遠という望みを離れられない。それがあなたの苦です」


 釈迦の目が、静かに天望を見た。その瞳は、あまりにも澄んでいて、あまりにも痛い。


「あなたが見ている“炎獄鬼”は、彼の表層。その炎が何を燃やしてきたかを見なさい。それを知らずして、彼を救えはしません」


 釈迦は静かに天望の額に手をかざした。手のひらが金の光を返し、天望の影をゆらめかせる。


「彼は輪廻に帰る。あなたはここに残る。それがこの世界の理です」


 天望は何も言えなかった。ただ、静かに頷いた。

 光の中で、声だけが穏やかに響いた。釈迦の手が天望の額に影を作る。


「慈悲とは、痛みや悲しみを深く理解する事からです」


 極楽の鐘がひとつ、遠くで鳴る。次の拍で、それは釜の蓋の音に変わった。

 釈迦の声の余韻のまま、天望の脳裏に炎の過去が落ちてくる。

 

 風が熱を連れてくる。肌が先に季節を知る。そうして彼は在った。名付けられる前から。

 呼び名はあとで来た。炎獄鬼——燃やすために生まれた火。

 鬼に親はいない。生まれた覚えもなく、死ぬ日も自分では選べない。気づいたときには地獄に居て、亡者を痛めつけるための鬼という現象。そういう存在意義が、炎獄にはどうしても腑に落ちなかった。

 だからどうにか自分を納得させたかった。理由が欲しかった。

 欲は原動力だ。金が欲しい。名声が欲しい。良い女を抱きたい。そういうもののために人は必死になる。そして満ちていく。

 行動さえすれば満たされるのか。そう思った。

 仕事をした。金を得た。空虚だ。夜毎違う女を抱いた。空虚だ。笑い声も、酒の香りも、全部どこか遠くに感じた。

 

 終わった後、女は「またね」と言った。

「ああ」とだけ返した。

 煙草に火をつけた瞬間、指先の小さな炎が妙に冷たく見えた。


 灼熱の庁舎。

 亡者の山が裁かれ、帳簿が積み上がる。炎獄は一人、苦悶の表情で浮き上がって来る亡者を燃やし続ける。

 虚無を抱えた顔で、ただ機械のように仕事をこなす。


「炎獄鬼」


 奥から声が響く。閻魔だ。重々しい装束を引き、影を纏いながらも笑みを浮かべている。


「……なんすか」


 炎獄は手を止めずに答える。


「お前、俺の隣に立て」


 朱い炎が止まった。一瞬、焦熱地獄の空気が凍る。周囲の鬼たちのざわめきが耳に刺さる。


「あ?」


 炎獄は顔を上げ、低く睨む。


「補佐官の席が空いた。座れ」


 閻魔が淡々と告げた。周囲の鬼が息を呑む。その場の空気は刃物のように張りつめていた。


「……理由は?」


 閻魔はあっさりと言った。


「簡単だ。一度も仕事を裏切らなかった。遊んでも抱いても酒に溺れても、亡者を罰し帳簿を必ず通した。俺に必要なのは、そういう鬼だ」


 炎獄は視線を落とし、短く答えた。


「……ねえだろ、拒否権は」


 閻魔は笑った。


「それでいい。隣に立て、炎獄」


 その日から、炎獄は立った。虚無を抱えたまま、閻魔の隣に。

 閻魔の言葉が地獄に響いた時、炎獄の胸に走ったのは誇りでも喜びでもなかった。


 ——くだらねえ。


 上に立つことも、名を得ることも、地位を築くことも。

 鬼は現象でしかない。燃やすために生まれた灼熱に、意義を与えられるわけがない。

 

 執務室の空気は張りつめていた。鬼たちの視線は一人に集中している。


「……なんであいつが」


 低いざわめきが部屋の隅で漏れる。


「遊び人だぞ」「信用できるか」


 言葉は刃のように鋭く、炎獄の背に突き刺さる。

 炎獄は無言だった。机に帳簿を叩きつけるように置き、朱筆を走らせる。ページをめくる音が鋭く室内に響くたび、ざわめきは一瞬で途切れる。


 「……次」


 低く短く告げられる声。鬼たちは渋々資料を差し出す。炎獄は一度だけ鋭い目を上げ、すぐに書類に視線を戻す。その表情に感情はない。ただ、鬼としての職務を貫く冷徹さだけがあった。

 奥の席で閻魔は笑っていた。頬杖をつき、まるで芝居でも見ているかのように。


 ――ほらな。すぐ黙る。


 炎獄は誰に認められなくても、誰に好かれなくても構わない。己の役目を果たすことだけに集中している。

 女遊びで夜を浪費し、朝には虚ろな目で庁舎に現れる。だが業務に手を抜いたことは、一度もなかった。

 閻魔だけは、それを知っていた。


「次」


 炎獄が低く言い放つ。冷たい声が響くたびに、空気は締め直されていく。

 その場に光はなかった。ただ虚無と責務だけが執務室に満ちていた。


「司命も兼任してもらう」


 そう閻魔が言い放ったのは、炎獄が閻魔に仕えて50年ほどした頃だった。

 炎獄がそれまでしていた役職は、“司録”という、亡者の罪と行いを記録し、閻魔の裁きのために「過去」を写す役職。

 一方、司命は生まれてから死ぬまでの「命の線」を見届け、その終わりを報告する役職だった。

 片や過去を記す者、片や未来を見届ける者。

 本来この二つは決して兼ねてはならない。記録する手が情を持てば、事実が歪む。命を見つめる眼が冷たければ、輪廻が狂う。


「……なんで」


 炎獄の問いに、閻魔はまたあっさりと答えた。


「お前なら出来るだろ」


 信頼されているのか。それともただの王の気まぐれか。どちらでもいい。何にせよ拒否権は無かった。


「お前は亡者の最後を見届けてきた。だから、誰よりもその二つを一つにできる。お前に任せる。腐りかけた制度ごと、締め直せ」


 閻魔の視線が、炎獄の頬の筋を掠める。閻魔は扇子で軽く払うように笑い、赤印の朱肉を炎獄の手に押し付けた。その朱の印は、以後彼の筆に働く印章となる。


 それから年月が流れた。

 書くことは、いつだって終わりを意味した。帳をめくれば、そこにあるのは線引きされた生涯だ。炎獄の筆は迷わなかったが、心は少しずつ削られていった。

 書けば書くほど、終わりの匂いが指先に残る。それでも筆を止められなかった。止めた瞬間に、自分が何のために燃えているのか、わからなくなる気がした。

 

 その日もいつも通り、書き、記し、見届け、裁いた。狂ったのは、一人の亡者が裁判所に引き渡された時だった。

 その亡者は、老いた僧だった。かつての名跡を誇り、布施を重ね、人々に徳を説いたという。罪状は、殺生。


「理由は?」


 閻魔の問いに、亡者は悪びれもしなかった。


「多くを救うため」


 炎獄は黙って浄玻璃の鏡を覗いた。

 鏡の中では、水害で悩む村人達と共に、土の中へ自分の娘を埋める男の姿が映っていた。慈悲を語る口で、命を断つ。そこに一片の悪意もない。

 彼の仕事は罪を記すことだ。だが“司命”として見る限り、この亡者の命の線はどこか清らかで、静かだった。罪を重ねた者の濁りではなく、何かを手放した者の終わりの光。


「……閻魔。こいつ、本当に地獄行きか」

「記録にある通り。罪は罪だ」

「……」


 炎獄は黙って帳簿を閉じた。罪の字は滲んで見えなかった。

 その一件が、どうしても心に残った。

 罪は罪。その通りだ。だが、天災によるやるせなさを、自らの娘を大義のため差し出した男を、単純な罪として裁くべきだったのか。炎獄は腑に落ちる答えを見つけられていなかった。


「炎獄」


 閻魔が一冊の帳面を差し出した。閻魔帳。亡者の人生を全て記した記録。炎獄が記す前の物だった。

 炎獄は帳面を手に取る。筆を置き、開いた。


 某村寺ノ娘ニ生ル。母温ク、父厳格。兄多シ。幼時ヨリ雑事ト経読ニ従事、声明明朗也。

 兄酒癖悪シ。夜半、室ニ入ラントスルヲ母止ム。未遂ニ終ル。

 婚ノ話アレド疫ニテ縁絶ツ。

 水害。村流レ、田畑泥入ル。祈祷寄進モ実ラズ。村衆、寺ノ娘ヲ生贄ニ選ブ。

 娘、拒マズ。即身ノ儀ニテ土中ニ入ル。竹筒ヨリ息ス。筒ノ先ニ向カヒ、天ヲ望ム声有リ。

 功徳ニ因リ釈迦牟尼世尊拾ヒ上ゲ、極楽ニ迎フ。天ヲ強ク望ミシト記シ、「天望」ト賜フ。


 紙のざらつきが掌に残る。これは、あの僧侶に殺された娘の記録だ。


「……極楽に、居るのか」

「極楽庁観光課。今は天女だ」


 炎獄は帳面を閉じかけて、もう一度開いた。

 頁の端が、僅かに焦げている。記録は正確だ。だが、どうしても納得がいかなかった。


「多くを救うため、娘を殺した。……それで、娘は救われた。釈迦が拾った。極楽に居る。じゃあ結局、死によって救われたって話じゃねぇのか」

「炎獄」


 閻魔の声は低く、しかし刃のように鋭かった。


「娘は救われた。だが“救われたから”殺生が薄まるわけじゃない」


 閻魔は帳を指で弾いた。


「結果の善は、原因の悪を洗い流さない。記録は残る。その朱は免罪の印じゃなく、二度と同じ因を起こさせないための杭だ」


 朱筆の先が震える。炎獄は息を吐いた。硫黄のにおいが鼻に残る。


「……誰もあの村を止めなかった。あの父親ひとりの罪で済ますのか」

「それを記すのが司録、見るのが司命。どちらの手も抜くな」


 閻魔が席を立つ。静かな足音だけが、地獄の床を叩く。


「多面的に罪を見ろ。お前の役目はそれだ」

「……はいよ」


 炎獄はもう一度、筆を取った。

 男の生涯の枝分かれ。堤を早く築けば。隣村に逃がせば。先に田を売り、米を分ければ。“多くを救うため”と言いながら、最も安い犠牲に乗っただけの枝。


「……チッ」


 筆を走らせる。墨が滲み、字が歪む。己の炎が、帳面の縁を焦がしていた。


 生贄ノ儀、村衆合議ニテ決シ了承。代替策探索ナシ。

 供犠ノ後、上流堰補修完了。祈祷効験トノ誤認広ガル。

 娘、天ヲ望ム願力強シ。是ニ依リ釈迦拾ヒ上ゲ、極楽ニ迎フ。

 功徳ナシ。因ニ相殺サレズ。罪相応ニテ地獄行。


 僧侶の記録を書き終えた瞬間、炎獄は筆を落とした。喉が熱い。胸の奥で、何かが蠢いた。

 救われたのは、娘の“魂”だ。父の“因”じゃない。


 書き終えた頃、閻魔は黙って背を向けた。その広い背中を見送りながら、炎獄は息を吐く。

 火は消えたはずなのに、胸の奥だけが熱かった。


 庁舎を出ると、空気は重たく澱んでいた。硫黄と灰の匂い。地獄の夜は燃え残りの光で照らされている。

 炎獄は階段の手すりに手をつき、吐き出すように息をついた。喉がまだ熱かった。


「……救われた、ねぇ」


 誰に言うでもなく呟いた。足元には、燃え尽きた亡者の灰が積もっている。指でつまむと、簡単に崩れた。その粉の向こうに、無数の魂が呻いている。

 生前の嘘、罪、欲、裏切り。

 全部を燃やし続けて、何百年。その果てが「赦されて終わり」だというなら――


「俺らのやってること、なんなんだよ」


 罪も罰も、誰かの救いのための舞台装置だというなら、鬼は全部、茶番の道具じゃないか。

 掌に炎が灯る。小さな火種が、呼吸に合わせて揺れた。

 朱の火が走る。一瞬で炎に包まれる。


「……赦しも、慈悲も、馬鹿みてえだ」


 熱が肌を裂き、視界が赤に染まる。帳面も、記録も、罪も。自分自身さえも、すべて燃やしてしまえばいい。そう思った。

 その時だった。背後から扇の音が響いた。

 爆ぜる音とともに炎は割れ、消し飛び、閻魔が立っていた。


「やめとけ」


 声は低く、静かだった。


「それは救いじゃねぇ。無視だ」

「……何が悪い。結局最後は同じ事だろ。裁判も、地獄も、全部燃やして終わらせりゃ早いじゃねえか」

「赦すってのは、見続けることだ。終わらせることじゃねぇ。罪を背負ってる奴らが、誰にも見られなかったまま終わるなんて、最悪だろ」


 炎獄は拳を握った。火種がまた燻る。閻魔が近づき、その手を取る。まるで重い鉄を押さえるように包み込んだ。


「俺は釈迦みたいにはできねえ。全ては救えねえ。だから、お前がいる。赦すために、燃やせ。罰の炎から、照らす焔となれ」


 火はゆっくりと沈み、煙になって消えた。

 それから幾星霜、閻魔の隣には、炎獄が立つ。

 彼は炎。赦しの火種を植え続ける。

 

 光が、静かに閉じていった。炎も、灰も、炎獄の姿もすべて溶けて消える。

 次の瞬間、蓮の香が戻ってきた。天望は息を呑む。

 瞼を開くと、そこは再び極楽の庁舎だった。

 香炉の煙が細く立ち、釈迦がその向こうに静かに座している。


「見ましたね、天望吏」


 釈迦の声は穏やかだった。金の光がまだ天望の指先に残っている。

 胸の奥が熱く、痛い。


「……炎獄」


 天望は膝の上で手を握った。指の間に光の残滓が落ちる。

 心臓の音が、まだ耳の奥で鳴っていた。


「これが、あの“鬼”という存在です」


 釈迦は目を閉じる。その声はまるで祈りのように静かだった。 


「彼の空虚は、王のもとで埋まりかけています。そして今、最後の空虚を埋めようとしている」


 天望は俯いた。喉の奥が熱くなる。


「私に、何ができましょう」


 炎獄が何もかもを終わらせようとした、その原因の一端が自分にある事が、天望に重くのしかかる。


 ――炎獄。あなたはどんな気持ちで、私を抱きしめたの。


 釈迦の言葉が、ゆっくりと降りてくる。


「天望吏」

「はい」

「怖れましたか」


 釈迦はただ言葉を置く。攻めるでもなく、問う。

 天望は釈迦の瞳を見て、口を開いた。


「私が彼を恐れたことなど、一度もありません」


 そこに嘘偽りはない。誰かが鬼の炎獄を恐れても、炎獄の過去を知っても、怖いとは思わなかった。火は、美しい。

 釈迦が薄く笑った。その笑みはどこまでも優しい、慈悲。


「それが、先程のあなたの妄語の“根”です」


 天望は答えなかった。ただ静かに、胸に残る熱を抱きしめるように目を閉じた。


「糸は切れば堕ち、手繰れば縛る。あなたはまだその糸を掴んだだけ。選びなさい。その糸の先を」


 香炉の煙がふわりと揺れ、天望の頬を撫でた。

 光は静かに溶け、極楽の朝が、再び訪れた。

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