13話 地獄二丁目、愛欲を抱く
炎獄の家から極楽庁へ出勤する日は、いつもより早く出る。朝の光が輝く極楽は、空気まで金色になったようで美しい。
天望は、今日は目覚めが良かった。暖かかったからだろうか。まだなんとなく炎獄の家の香りが残っているような気もして、すん、と鼻で息をした。
「よく寝たなあ……」
なんだかもしかしてすごい事したのでは、と思ったが、まあ友達だし、湯たんぽだし……??という無理矢理な理屈で納得する事にした。それが1番都合がいい。
天望が庁舎へ向かう途中、蓮池を渡る渡し船を待っていると、ふと隣から聞き慣れない低い声が聞こえた。
「アンタ、なんか珍しい匂いすんのね」
声の方向を見ると、炎獄とそう変わらない体躯の仏が天望を見下ろしている。
燃えるような紅色の長い髪、艶やかな唇。明王ゆえの六本の腕。極楽の朝には少し眩しすぎる極彩色のまぶた。
愛と欲の仏、愛染明王だ。
「えっと、香でしょうか……?」
「やッだァカマトト。危ないオトコの匂いに決まってんじゃないの」
愛染明王は信じられない!とでも言いたげに胸の前で握った拳を小刻みに震わせた。
天望は一瞬何を言われたかわからず、少し遅れて言葉の意味を理解して、顔が熱くなるのを感じた。
「地獄の匂いね。でもこの感じ、一線は越えてないわね? なんでぇ?」
「いっ……!?」
一線。と言われて思わず口ごもる。考えてもみなかった。というより、考えないようにしていた。だって、炎獄はそんな事しないから。
「……もしかしてマジでオトメ? ヤダ〜〜〜ッゴメェン!! 早かったわねぇ!?」
「あ、愛染明王、お声が、お声が大きいです!」
慌てて止めようとしても愛染は止まらない。小指を顎に立て、考えるような仕草をする。
「ねぇアンタ……もしかして天望吏?」
「そ、そうですが……」
「ああ!! 釈迦の言ってた閻魔の鬼の女ァ!!」
「待ってください語弊がすごすぎます」
とんでもない悪女みたいな呼び名を必死に否定する。合っている情報がひとつもなかった。
「思ってたよりおぼこいわねぇ。あんたこれじゃ鬼なんか相手したら壊れちゃうわよ」
「愛染明王!? 何の話をしてます!?」
「****に決まってんでしょぉ!?」
「ワァ――――――――ッ!?!!」
朝からフルスロットルの愛染を止めようという方が間違いだ。深夜テンションをそのまま持ってきたみたいな明王に、天望は既に疲労困憊していた。
「あの、私と炎獄、そういうのじゃないですから!」
「何よ、何を気にしてんの?」
「いや本当に……そういう煩悩とかじゃなくて……」
「あーアンタ、釈迦のお説教聞いて育ったクチね? いい? 煩悩は捨てるもんじゃない、抱いて躾ける、それがアタシの悟り」
愛染は人差し指と親指を擦り合わせ、小さなハートを指先で作る。
紅い唇が朝の金色に浮く。天望は思わず背筋を正し、耳の先まで熱くなった。いつか聞いた釈迦の教えと正反対で、天望は何を信じればいいか一瞬わからなくなった。
「いや、ですから」
「アンタ、天人なってからどのくらいよ」
「え……っと……大体ですが……百年と少し……」
「は!? 赤ちゃんじゃないの!!」
「いやそんなことは」
「そんな若い子に閻魔のとこの鬼が手ェ出そうっての!? ちょっと話変わってきたわね」
「いえ、だからただの友人」
「やだ、急に心配になってきたわ。これあげる」
愛染は袖口から、薄い札を一枚すべらせた。紅紫の紙の角に小さな鈴の印。触れると、ほのかに香が立つ。
――衆合地獄二丁目 MIX bar『クラブ愛染』――
「困ったらいつでもいらっしゃい。地獄の釜が開いたら開店よ」
人差し指と中指で差し出されたそれを、天望は反射で受け取ってしまう。名刺の箔が朝日に一瞬きらめいた。
「ミックスバー……?」
「仏も亡者も誰でもウェルカムってコト」
「なるほど」
ちょうどその時、渡し守が櫂を掲げて声を張る。蓮池の水面に朝の金がほどけ、船の縁が岸にことりと当たった。
「船、来たわよ。落ちるのは恋だけにしときなさい」
「愛染明王、私は」
「そういう子ほど、つま先で世界に穴空けるの。可愛いけど危ない」
「全然話聞いてくれない……!!」
愛染はくすりと笑い、天望の肩口の乱れた髪を指でひと撫でして整えた。紅い爪先がひとすじ、朝の光を引く。
「また会いましょ天望。じゃ、行ってらっしゃい」
「い、行ってきます……」
天望が船に足を掛ける。胸の内側で、薄い名刺の角がひやりと触れた気がした。
なんだったんだ、と思いながら振り返ると、愛染はもうすでに背を向けて歩き出していた。
「うちの極楽ガールを弄ぶ鬼……アタシがシメてあげる」
六本腕のうちの一番上の手が、パキパキと骨を鳴らす。
愛染明王。愛と欲の仏。その所属する明王部は、極楽の治安維持部隊だ。
紅紫の裾が金色の朝にほどけ、愛染は地獄の方角へと消えた。
*
地獄。十王裁判所第五審。午後。
普段は硫黄と血と焼けた鉄の匂いしかない場所に、異物の甘さがひと筋混ざる。廊下に流れ込む香水の匂い。紅紫、長い髪、艶の口紅。細いヒールが高い音を立てながら愛染明王は執務室の扉を開いた。
「アンタが炎獄鬼? ツラ貸しなさいよ」
「……誰だ」
「っげぇ! 愛染明王!」
先に反応したのは閻魔だった。閻魔が至極嫌そうに玉座から声を飛ばすと、愛染は片目でウインクしながら人差し指を唇に当て、閻魔にキスを投げた。
「閻魔ちゃん久しぶりィ♡」
「な、なんで明王がここに……」
「アンタの鬼、ちょっと借りるわよ」
「は? 令状なんか来てねえぞ。炎獄、お前何した」
「いや、何も……」
「愛欲の管轄はアタシよ。“本尊筋”で通すわ。なんか文句ある?」
閻魔は一瞬何か言いたそうに口を開けたが、すぐに下唇を噛み、静かに扇を閉じて顎を引き、冠を正した。それは明らかな“上位への礼”だった。
地獄の王といえど、仏法の序列の前では正式な態度を崩せない。
「……明王の采配に服する」
「は!? おい、ジジイ」
「閻魔ちゃんありがと♡」
「お、おい、閻魔コラッ、説明しろオイッ」
「アンタはこっち」
ほとんど引きずられるようにして炎獄が連行されて行く。扉が閉まってから、閻魔はぽつりと呟いた。
「炎獄、すまん。あいつの本尊、大日如来だから……俺は何も言えん」
愛染は大日如来の忿怒の化身であり、明王。要は仏法の上座である。いくら閻魔でも、上から来られたら引くしかない。
「……ま、なんとかなるだろ多分……炎獄なんかモテそうだし……二丁目らへんで……」
閻魔は頭を掻きながら、炎獄の残した残りの書類を見て、大きめのため息をついた。
*
衆合地獄。二丁目。
表通りから離れた奥まった路地に、その店はあった。
細い階段を上がり、扉を開けると、薄暗い店内にカウンターといくつかのテーブル席。カウンターの奥に酒が並び、まさしくバーだ。
「適当に座んなさい。あんた何飲むの」
「……長居する気はねえ。何の用だ」
「そんなに固くなんないでよ。アタシはアンタと話したくて連れてきたの。仕事サボれてラッキーくらいに思いなさいよ」
「俺は鬼だ。仏の序列なんか知った事じゃねえ」
「じゃ、アンタは客、アタシはママ。そういう序列でいきましょ」
愛染明王が灰皿を炎獄の前に置く。グラスに氷の入る音がからん、と響いた。
「んじゃ、質問。アンタのタイプは?」
にっこり微笑む愛染とは対照的に、炎獄は眉をひそめて軽く身震いした。
「……悪いけど、俺はノーマルだ」
「アタシだってアンタみたいなゴツいのよりカワイイのが好きよ。自惚れんな」
酒の瓶を棚から取り出し、グラスに注ぐ。少しだけ濃いめの水割り。
炎獄は愛染の手元を見ながら、タバコの箱を取り出した。
「アンタがロリコンな事はわかって聞いてんの、こっちは」
「ロリコンでもねえよ」
「アタシからしたら十分ロリよあれは」
「……もしかしてヤニカスギャンブル狂の天人の話してんのか?」
「ヤダ、だいぶ思ってたのと違ったわあの子」
愛染はマドラーでグラスの中を混ぜると、出来た酒を炎獄の前に差し出した。炎獄はそれを少し口に含む。落ち際だけ熱い口当たり。
「で、好きなんでしょ」
「黙秘」
「沈黙はキンタマよ」
「そこは金でいいだろ」
炎獄は無言で煙草に火をつける。すかさず愛染が灰皿を寄せた。一服。灰が静かに落ちる。
「じゃあ質問変えるわ。どういう女が好み?」
「どういう女……」
「あるでしょ、顔とか、身体とか」
「こだわりはねえな」
「本当にぃ〜? 乳と尻ならどっちよ?」
「なんだその質問」
「オトコの人となり見んならコレが1番手っ取り早いのよ」
炎獄は少し考えて煙を吸い込む。
天望の歩き方、笑う時の揺れ、風呂上がりに髪を結ぶときの動き。頭の中に嫌でも浮かんでしまう。
グラスで氷が鳴る。煙を吐き出して、答えた。
「……腰」
「は? 尻じゃなくて?」
「尻……っつうか、腰だな。動くし」
「“動くし”!? えっっっっっろ!!!」
愛染が椅子ごと仰け反った。カウンターの隅に置かれた酒瓶がカタカタ揺れる。
「歩く時も笑う時も動くだろ。なんか、生きてんなって感じで好きなんだよ」
「っどぁ――――っはははははははは!!!!!」
愛染が全部の手をべちんべちん叩いて笑う。炎獄は馬鹿正直に性癖暴露した事を少し後悔した。酒が回って口が滑った。
「あーっは、おっもしろ……まあでもわかるわ、アンタ付き合ったら信号待ちでいちいち腰抱きそう」
「流石にやらねえ……と思う」
「因みに太腿も好きでしょ」
「嫌いなやつはいねえな」
「わかってんじゃーん」
グラスをがちんと合わす。
愛染がひとつ息を吐き、カウンターに肘をつく。その表情はどこか艶っぽかった。
「悪い事じゃないわ。欲は愛し方だもの。ブッ壊したいのも、包みたいのも全部」
「包む方は向いてねえんだよ、鬼に」
「だから手ェ出さないワケ?」
その言葉に、炎獄の指が止まる。酒のグラスから結露が滴ってコースターを濡らした。
「……まあ、な」
「優しいじゃないの」
「違ぇよ」
「違わないわよ。守れないことが怖いんでしょ、アンタ」
「……怖えよ。触って、温度残すのが。一回知ったら、離す時痛え」
「ふぅん。鬼のくせに、痛いのは嫌いなんだ」
「好きなヤツいねえだろ」
「いるわよ」
愛染が笑った。紅の口紅がゆるく滲む。
「痛くても、触れたいヤツ。燃えてもいいって思うヤツ。そういうのをアタシ達は恋って呼ぶの」
炎獄は何も言わなかった。代わりに、氷がひとつ、音を立てて沈んだ。
地獄の釜が開く時間になると、扉のベルが鳴る。
紅い照明の下、ぞろぞろと客が入ってくる。顔に札を貼ったままの鬼、酔いどれ天人、さらには小さな精霊。
「この店ほんとに混沌だな」
「ミックスバーだもの、誰でもウェルカム」
炎獄の隣の席に、酔った天人が腰を下ろした。ふわりと香るのは、極楽の花の匂い。
「あっ、アンタ上司とどうしたのよ」
「ママァ〜……今日全然話せなかったぁ……」
「アンタから行けば良いでしょぉ?」
愛染が口を開けば、店が沸く。鬼が笑って、天人が手を叩く。
愛染がグラスを傾け、客たちに視線を流した。
「仏も亡者も鬼も、みんな似たような顔すんのよ。仏だって感情がないわけじゃないわ。どっかしらに欲はあんの。そういうもんなんだから」
炎獄は煙を吐きながら、店内の光景を眺めていた。ここでは誰もが自分を隠そうともしない。
「なぁ」
「なによ」
「ここ、地獄か?」
「そうよ。地獄のド真ん中。でも極楽よりイイでしょ?」
愛染の声は柔らかかった。炎獄はそれにふっと笑って、グラスを掲げた。
「……鬼が極楽話に混ざってもいいのか」
「いいのよ。腰派も尻派も、悟る時は皆平等だもの」
笑い声と氷の音が混ざり合う。愛染の紅い衣が光を反射する。
地獄の鳥が鳴き出す頃に、炎獄は店を後にした。何もかもが明け透けな空間は、地獄にしては居心地が良くつい酒が進んだ。
細い階段を降りると、夜風がひとつ吹く。
「で、結局何の話だったんだよ」
「え? あー、そうねェ……どんなヤバい奴かと思ったんだけど、思ったより良いオトコだったからもう良いわ」
「そうかよ」
「あのコにフラれたらいらっしゃい。そしたら慰めてあげる」
「いらん」
「あぁん、いけず」
「やめろくっつくな酒くせえ」
愛染が炎獄の腕に絡みつく。しなだれかかるように肩に頭を乗せる愛染を、軽く退かすように押すと、余計に愛染は近寄ってきた。
「ほら腰派、実地研修♡」
「なんでおめえの腰抱くんだよ俺は天……」
「炎獄?」
聞き覚えのある声。炎獄の酔いがスッと冷めた。
振り向くと、棒立ちの天望。
「……天望、違う」
「あの、私、お名刺、いただいたから、せっかくと思ったんです、けど、なんか、お邪魔、みたいなので、すいません、帰ります、ね」
あからさまに目が泳ぎ、肩がちいさく震えている。天望は軽く頭を下げると、くるりと踵を返して走り去った。
袈裟の裾が夜風を切る。
「天望!! ちがっ……天望!! おい離れろクソ力強えな! 天望!! 天望――――――ッ!!!!」
地獄の路地に、炎獄の叫びがこだました。
翌日、打ち合わせで顔を合わせた時に説明したが、天望は「あ、へー」とだけ言って、しばらく炎獄の顔を全然見てくれなかった。
地獄の二丁目では、今宵も釜の蓋が開く。
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