12話 地獄で安眠

 基本的に地獄は眠らない。四六時中どこかで亡者が呻き、それを夜勤の獄卒が沈めている。地獄鳥は気が狂うかと思うほど甲高く鳴いた。

 それでも、炎獄の部屋が比較的静かなのは、永遠の無を彷徨う無間地獄方面に近いことと、閻魔の補佐官になって賃金が上がった瞬間に防音の部屋に引っ越したからだ。


 最初に鬼に与えられる寮という名のボロアパートは、そこに住む事自体が刑罰のようなものだった。


 ぽつりと灯りの光る部屋の中、机の上にはまだ湯気の立つ鍋と白い飯茶碗。天望が箸を置き、ほっと息をつく。


「ごちそうさまでした」

「おう。皿貸せ」


 炎獄は湯呑みの茶を飲み干し、流しに食器を放り込んで水につける。


「炎獄、次やる時春菊入れましょうよ」

「あれ美味いか?」

「えっ、嫌いですか?」

「いや嫌いってほどではねえけど……」

「だって炎獄が作るといつもお肉ばっかりですもん」

「豆腐もあんだろ」

「畑の肉じゃないですか」

「白菜入ってるからいいだろ」

「割合が」

「わかったわかった次な」


 換気扇を回し、煙草に火をつけようとして、やめた。代わりに、目の前の天人の横顔を見つめる。


「じゃ、梅鉄やります?」

「お前ほんと好きだな、それ」

「地名覚えられるので勉強になるんですよ」

「現世の地理覚えてどうすんだよ」

「地獄以外知らない炎獄みたいになりたくないので」

「おま、何だと」


 笑い声が、静かな部屋を満たす。地獄の夜にしては、柔らかい音。

 コントローラーを握って、ふたり並んで座る。梅干しみたいな顔の社長が、画面の中で線路を走っている。


「炎獄また目的地近いじゃないですか」

「運だから仕方ねえ」

「ずるい、私ずっと端っこにいるのに」 


 勝っても負けても、どうでもよかった。この時間が、終わらなければよかった。

 

 いつの間にか時計の針が一周して、天望が欠伸を噛み殺す。


「明日は?」

「明日は午前から極楽体験ツアーの案内ですよ」

「じゃあ早いだろ。寝ろ」

「炎獄も寝ないと」

「一本吸ったらな」

「今日は寒くないですか」

「鬼は体温高い。平気だ」

「でもソファだと、長さ足りてないでしょう」

「まあ、気にすんな。寝れる」


 天望が、少し考えるように視線を落とし——ベッドの端を、ぽんぽんと叩いた。


「……ん」


 炎獄の顔に明らかな動揺が走る。

 下手を打ちかねない。なんなら打つ自信さえある。それが一番まずかった。


「いや、お前それは」

「なんか申し訳ないじゃないですか」

「……いやでも」

「あと、寒いし。壁冷えるので、壁側で寝てもらっていいですか」

「俺は湯たんぽか」

「ちょっと似てますね」

「いいから、寝ろって」

「やです。さむい。寝れません」


 結局、負けた。敵うわけがなかった。

 

 炎獄は肩を竦め、枕を二つ並べる。天望は毛布を首まで引き上げて、小さくあくびをする。その横顔を見ないように、炎獄は壁の方を向いた。

 寝息が、まだ遠い。呼吸が、かすかに壁を震わせる。

 灯りの残滓が天井をゆらゆらと揺れて、天望の影が枕の端で淡く動いた。身じろぎの度に布団が擦れる音がする。


「……ねえ、まだ起きてます?」

「おう」

「この間の蓮池のお礼……言ってなかったなって」

「あー、いや、いいよ。びびったけど」

「ありがとうございました……本当に」


 炎獄の背中に、天望の手が触れる。ほんの少し掴むように、指の感触。


「目が覚めたとき、あなたの匂いがしたんですよ」

「……すまん」

「へへ、そうじゃなくて。安心したって話です。あの時ちょっと嫌な夢、見てたので」


 声が沈む。何かを思い出すように。遠い記憶を思い返した時の声音だった。


「でも、大丈夫でした。起きたらあったかくて。引き上げてくれてて」


 炎獄はずっと背中でそれを聞いていた。背中に添えられた天望の手が、服をぎゅっと掴む。


「……寒いの、嫌なので」


 声が震えていた。それが、泣きそうなのか、眠気なのか、炎獄には分からない。ただ、胸の奥がきゅっと熱くなる。これが鬼の業火なら、いっそ焼けてしまえばいいのにと思う。

 寝返りを打つようにゆっくり天望の方を向く。布団の上に髪が流れて、不安そうな、笑っているような表情で炎獄を見上げていた。


「まだ寒いか?」

「少し、だけ」


 喉まで出かかった別の言葉を、ぐっと飲み込む。選んだのは、一番単純で一番危ないやつだった。


「……おいで」

「……ん」


 天望が、ゆっくりと身を寄せた。小さな肩が炎獄の胸に触れて、息が止まる。

 毛布の下で、ふたりの心音が重なっても、同じリズムになってくれない。

 鬼の体温は高すぎる。それでも、天望は逃げなかった。

 炎獄の胸に額を押しつけ、片手を背に回す。


「……ふふ、あったかい」


 掠れた声が、耳の奥に沈む。炎獄は、その髪をそっと撫でた。香と、極楽の風の匂いがまざる。

 風が吹く。小さな火を巻き込んで燃え盛る炎になる。同じ温度になる。


「……いいよ、湯たんぽで」

「えへへ、便利……」


 抱き寄せる腕に力を込める。息をするたび、心臓が痛い。頼む、伝わるな。鼓動止まれ。

 その夜は、眠れなかった。


 遠くで釜の音がかすかに鳴る。地獄の夜が明ける合図だ。

 このまま、夜がもう一度巡ればいいのにと思った。

 ふと視線を落とす。規則的な寝息を立てて、天望がぐっすり眠っている。指先が時折動く。夢を見ているのかもしれない。そのたびに、髪が頬に触れて、くすぐったい。


 ——ああ、ほんと、ずるい。


 極楽の光の中にいるはずの天女が、地獄の鬼の体温にくっついて、何の疑いもなく目を閉じて眠る。それがどれだけ危ういことか、分かっていない。いや、きっと分かってても来るのが、天望だ。


 腕の中で眠る顔を見てると、息が詰まる。触れる指先が焼けそうだった。

 やがて、窓から光が差し込み出し、鐘がひとつ響く。

 腕の中の天望が軽く寝返りを打つと、ゆっくりと薄く目を開けた。


「……ん……」

「起きたか」

「……んーん……起きてない……」

「あと十五分くらいは大丈夫だぞ」

「ん……」


 再び寝息。早い。

 炎獄は、ふはっ、と笑って天望の髪を撫でた。


「あーぁ……しんど」


 もう一度目を開けたら、またいつもの地獄に戻る。

 全部言ったら終わる。だから、黙ってる。この沈黙の中だけでいい。お前が呼吸してる音を聞けるだけで、それでいい。

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