9話 極楽で息をする

 極楽庁の上空には、絹のような雲がゆるやかに流れている。蓮池の水面は静かに光を弾き、風に乗って金の花びらがひとひら落ちた。


「で、ここで閻魔大王がセリフ!」


 吉祥天がカメラを構えながらキラキラと指差す。衣の袖が太陽を受けて、反射するみたいに眩しい。

 隣で台本を持った天望がうなずいた。


「講話イベントのPR用映像、ここなら良い画になりそうですね」

「だよねー!! 極楽っぽさ満点の蓮池と、地獄の象徴閻魔大王! 映え!」


 吉祥天の声が響くたび、空気が輝いて震える。極楽の朝は穏やかだ。ここに地獄の気配など何ひとつ無い。――はずだった。


「おい、多いだろ荷物」

「あっ炎獄、照明ありがとうございます」


 大きな荷物を持たせられた炎獄が、天望達から少し遅れて到着した。炎獄の肩に掛けた大きな鞄の中で、ライトに三脚、レフ板、その他諸々の撮影機材が金属音を立てている。天女2人と行動して荷物持ちに甘んじるのは、最早男鬼の宿命とも言える。


「炎獄さんこことここにその照明と三脚立てて!」

「鬼使いが荒れぇ……」


 がしゃんがしゃんと音を立てて照明機材をニ灯立てる。点灯すると、辺りがパッと明るくなった。


「え、めーっちゃ良い!! 天望ちゃんそこ立って!」

「ここですか?」

「そう! かわいいー!!」


 炎獄は閻魔も来いと言ったが、じゃあ誰が裁判やるんだよと返されて閉口した。仕方がないので天望を閻魔に見立てて立ち位置につかせる。スタンドインというやつだ。


「天望ちゃん、こっちもう半歩下がって!」

「ここですか?」

「うん! 背景の蓮がちょうど光入って最高! もうちょい下がって、あと半歩——」


 その時、天望の踵が石畳の端を踏み外した。


「あ」


 ぱしゃん、と小さな音がして、水が跳ねた。静かな池の水面が波紋を広げていく。


「天望!!」


 炎獄が池の縁を蹴った。反射的に。何かを考える前に。乱雑に脱ぎ捨てた羽織が空を舞った。火の鬼は本来水に近付かない。本能的に相性が悪いと分かっているからだ。それでも飛び出さずにはいられなかった。

 照明が倒れ、吉祥天の悲鳴が混ざる。天望の手から離れた台本の文字が水を含んでじわりと滲む。花びらと水しぶきの中で、天望の姿が沈んでいった。


 水は生ぬるかった。水面から差し込む光が揺れる。

 天望の指先がそれを掴もうとして、届かない。袈裟が水を含んで、上手く上がれない。喉の奥に水が入り込んで、咳き込んだ瞬間、体の中から空気が抜けた。

 音も光も、ゆっくり遠のいていく。

 ――あれ、息、どうするんだっけ。

 そう思った瞬間、視界の底で何かが揺らいだ。

 土の匂い。畳の軋む音。誰かの声。


「――、苦しい時は上を見なさい」


 そう言って笑った顔を、天望は思い出せずにいた。断片ばかりの記憶が、まるでリフレインのように浮かんでは消える。


 ぬるい気配。読経の声。差し込んで来る歪んだ月の光。

 暗くて、寒い、水の底。


 ――もう、良い。


 遠くで、誰かが呼んだ。それは光のようでもあり、火のようでもあった。

 暖かい何かに身体を包まれているのがわかる。

 引き上げられる。どこまでも、上へ、上へ。


「――っ! 天望! 天望!!」


 水の音と共に、焦げた匂い。焚き火みたい、と思った。

 掌に感じる強い力。炎獄の腕の中で、天望が浅く息をした。


「天望! わかるか?」

「……すみません……少し、夢を……」

「心配させんな、くそ……」


 炎獄の掌が頬を包む。優しくて、暖かい。蓮の花びらがいくつか散る中、光がゆらゆらと水面を照らしている。

 遠くからばたばたと走って来る音と、涙混じりの吉祥天の声がした。


「天望ちゃん大丈夫!? それはそれとしてやばい今めっちゃ映えてるけどどうする!? 撮っとく!?」

「お前今じゃねえだろそれ!」

「いやマジ! 今激エモい!! 1枚撮っとくね!!」

「やめろ!」


 ぱし、というシャッター音を聞きながら水から上がる。

 炎獄に後頭部を軽くはたかれる吉祥天を見て、天望はほんの少し目を細めた。

 

 *

 

「天望吏……!?」

「いやあ、あはは」


 観光課に戻ると、摩訶迦葉が濡れ鼠の天望を見て目を丸くした。きっちりと揃えられた書類の端がずれ、机に無造作に投げ置いて駆け寄って来た。


「何がありました……!?」

「不注意で蓮池に落ちまして……」

「そんな、怪我は」

「大丈夫です。炎獄……さんが助けてくれたので」


 癖で呼び捨てそうになったのを、取ってつけたように言い直す。天望は肩に掛けた炎獄の上着を握りしめた。その隣で、炎獄が機材を片付けながら、軽く頭を下げる。炎獄もまだ髪の先が濡れたままだった。

 迦葉はひとつ息を吐くと、炎獄の持つ機材を受け取りに向かう。


「お手間をかけました、炎獄鬼」

「いや……むしろすんません、俺がついてたのに」

「いえ、感謝します。火の鬼に冷たい水は堪えたでしょう」


 迦葉が深々と頭を下げる。炎獄はなんとなく気恥ずかしくなって、角の根元あたりを爪で掻いた。


「マジでも炎獄さんいなかったらやばかったよ!!」

「でもほら、もう死ぬ事はないですし……」

「そういう問題ではありません。この身は器です。壊れれば形を保てなくなるのですよ」

「……すいません……」


 そうだったのか。と炎獄は思った。反射的に飛び込んだが、特に何も考えていなかった。もしあそこで天望が沈んだままだったら――そこまで思い至った瞬間、炎獄は体の芯が冷えた。


「……天望吏、本当に大丈夫でしたか」


 迦葉が心配そうに声を掛ける。天望は一瞬、水の中で感じた土の匂いを思い出して、すぐに首を振った。


「大丈夫です。ご心配おかけしました」


 強がりのような笑顔に、迦葉は何もいえず、ただ家に帰す事しか出来なかった。


 *

 

 極楽、天望の自室。風呂に入ろうと袈裟を外した時、隙間から白い蓮の花びらが1枚出てきた。脱いだ服はまだ少し水を含んでいる。

 体を清めて、白い壁の部屋で久しぶりに香を焚く。龍涎香のやわらかな香り。

 あの記憶を思い出す事があるなんて思っていなかった。池の中さえ暖かいこの極楽で感じた、冷たい水の底。

 ただ、“もういい”と言われた時、ひどく安心したのをなんとなく覚えている。

 風のない部屋の中で、白い煙が真っ直ぐに伸びては揺らいで消える。なんだか食欲も無くて、ただ煙をぼうっと見ていた。


「……炎獄」


 目を覚ましたあの時、水に濡れた彼が泣いているようにも見えたのは、きっと気のせいだ。

 だって、泣くような鬼じゃない。あれはきっと願望だ。


 ――願望……? 何の……?


 ほんの少し胸の奥がちりりとする。水の中で触れられた頬がまだ熱い気がする。

 炎獄が自分の為に泣いていた、なんてそんなの、まるで。


「……違う、炎獄は友達だし……」


 言い訳みたいな呟きが、部屋の中に吸い込まれた。

 それでも思い出すのは、焚火みたいな匂いと、体温の高い胸板と、名前を呼ぶ声。水の底に沈んだ恐怖より、引き上げられた時の温度ばかり思い出す。

 あんな風に助けられた事なんて、一度もなかった。世界が全部、炎獄で動いたみたいで――


「いや、いやいやいや、それは……それは違う……」


 思い当たる感情を、押し込めて消す。認めてしまったら戻れなくなる。今のままでいられなくなる。それだけは避けたかった。

 携帯端末を開く。吉祥からのメッセージが入っていた。


 《天望ちゃんおつー! 帰れた?》

 《風邪ひいてない?? 無理しないでね!》

 《撮った写真送る! ガチ池なんだけど笑》


 添付されていた写真を開く。蓮池で、水に濡れた炎獄が天望を抱えてカメラを見ていた。天望の顔は炎獄の肩に隠れて見えていないが、体重を預けているのが、ちょうど寄り添っているように見える、そんな角度。


「……たしかに」


 周りに散る蓮の花びらも相まって、吉祥の言いたい事もなんとなくわかる。ちょっと映えていて笑った。

 なんとなく二本指で炎獄をアップにしてみる。


「……髪下ろしてると……雰囲気変わるなぁ……」


 いつも後ろにかき上げている髪が、水に濡れて額に落ちている。普段と違う姿に、胸の奥に爪を立てられたような気分になった。見慣れないからだ、と思っても、何故か胸のざわつきが消えない。

 香炉の煙が途切れる。灰が中で崩れて、火種が消える。

 天望は、しばらくそれに気付かなかった。

 吉祥から送られてきた写真をファイルに保存して、端末を閉じた。

 暖かい手のひらの感触を、天望はまだ覚えていた。

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