10話 天と地の頂点達

 炎獄の退庁後、五審に残っていた閻魔は玉座に座ったまま、何をするでもなく扇で自分をあおいでいた。

 帳に目を落とす。墨の線は容赦なく、ただ残酷なまでに正確だった。誰もが自分の罪と向き合った末の行き先を刻みつけられる。

 ふと、閻魔は扇を口元に当て、目を閉じた。誰もいない五審は妙に広い。その広さが今だけは少しだけ鬱陶しかった。

 地獄は好きだ。退屈が無い。毎日刺激だけが降り続けて穏やかさなんてひとかけらもない。だがその分、ひとりになると静けさが浮き彫りになる。

 そんな空気を裂くように、背後で光が揺れた。


「焔摩天」


 蓮の芳香。釈迦が、まるで最初からそこにいたような顔で立っていた。

 閻魔は眉を片方だけ上げる。


「……アポ取って受付から来いっつってんの」

「失礼。あなたが一人になったので、少しだけ」

「昔っから“少しだけ”が多いんだよなぁ、お前」


 釈迦は微笑んだまま、視線だけ廊下のほうへ動かした。


「……あの火は」

「火て。炎獄の事?」

「ええ」

「なんか妙に気にするじゃん。どうした」

「火の方を気にしているわけではありません。……天望吏の方です」

「……ああ、あの子ね」

「はい。あれは……私が掬い上げましたので」

「あー、ね」


 閻魔は立ち上がり、五審の棚の前へふわりと浮かぶと、一冊取り出して見せる。黒い表紙のそれは、地獄行きが確定した亡者の人生が記された閻魔帳。古いらしく、動かすたびに埃が舞った。

 釈迦は、閻魔の指先の動きを目で追う。あまりにも自然で、呼吸のように滑らかだった。


「コレだろ」

「……そうです。よく覚えていますね。この量を」

「王だからね」


 閻魔が釈迦の前に降りると、その閻魔帳を開き、軽く目を通す。


「ひでーことするよな。人ってのは」


 閻魔は帳面から目を離さずに言った。釈迦はその言葉に反論も肯定もせず、ただ静かに立つ。

 

「私に彼女を知らせたのは、月天(がってん)でした」


 閻魔が少しだけ視線を釈迦へ向ける。


「……あいつ、そんな慈悲深い事すんの?」

「救いたい、というよりは、視線が痛すぎるから見ろ、という感じでしたね」

「なるほど。告げ口の得意なあいつらしいね」

「そこで私は彼女を把握し極楽へ掬い上げましたが……まさかあの子が極楽で苦を知るとは」


 釈迦の目が細くなる。五審の灯りが、二人の影を長く落とした。

 釈迦が苦と言うとき、感情は入らない。ただ因果を述べるだけの、静かな刃物のような語り口だった。


「お前ね、恋を“苦”って言ってやるなよ」

「執着すると、苦が生まれます。近付きたい、見て欲しい、思い通りに行かない……渇愛は全て苦の燃料です」


 閻魔は帳面を閉じ、扇を肩に乗せて、ふん、と鼻で笑った。


「……あいつらはお前じゃねえよ」

「ええ勿論。この世界は、愛着が生む苦の連鎖で出来ています。恋はその最たる物。これを抱えたままでは悟る事は出来ません」


 釈迦はいつも通り穏やかだった。如来の視点は、どこまでも正しく揺らがない。故に、遠い。


「悟り、ね……」

「苦しみから逃れるための法です」

「退屈だな、そりゃ」


 閻魔は扇の先をとん、と釈迦の胸に当てて笑った。五審に風が流れ、二人の髪が揺れる。

 釈迦はゆっくり顔を上げ、閻魔を見た。


「……退屈?」

「めっちゃくちゃつまんねえじゃん。恋もしない、愛もない。目標もなけりゃ成長もない、ただ穏やかなだけの極楽なんざ、俺はごめんだね」

「……焔摩天、しかし、執着を捨てなければ苦しみ続けるだけです」

「苦しい、ってさぁ、楽しいんだよ」


 釈迦の眉間に僅かに皺が寄る。珍しく歪んだ表情に、閻魔は嬉しそうに続けた。その顔は、地獄の“生き物”そのものだった。


「お前、恋した事ねえな?」

「……正直なところ、無いですね。ですが、それがどういうものかは分かります」

「“理解する”と“感じる”は全く別モンだろ。お前、如来としてはご立派だけどな、心の話すんなら、目線地べたまで落とせよ」

「……目線は常に合わせております」

「じゃ、してみな、恋ってやつ」


 五審の灯りがふっと揺れた。蓮の香がわずかに強まる。


「……既に私は悟りに至った。恋も愛も、私にとっては苦です」

「そうかいそうかい……そりゃ、哀れだ」


 閻魔は心底面白そうに笑った。釈迦の価値観を揺らしたいわけでもない。ただ、この如来が永遠に触れられない領域を、地獄の王として軽々と扱えるのが愉快なだけだった。


「私を憐れむのは、あなたくらいですよ焔摩天」

「こんな楽しい事知らねえまま永遠を生きるんだろ?……可哀想だな、お前」

「あなたはあるので?」

「夜が出来る程情熱的なやつ向けられてみろ。揺らぐぜ」


 釈迦の表情は微動だにしない。その静けさは、拒絶でも怒りでもない。ただ、本当に“分からない”者の静けさだった。恋も情も捨てた者は、挑発を挑発として受け取ることすらない。


「例えばよ。めちゃくちゃ魅力的だと“わかる”奴が居るとする。お前はそいつをどうにかしてそばに置きたい。どうする?」

「前提が成り立ちません。そばに置きたいという感情は、すなわち執着です。その方が何を選択しようと、私は慈悲で迎えるのみです」

「ほらな、何にもならねえ。そいつをそばに置きたいから自分が魅力的になろうとか、そういう方法を考えもしねえ」


 閻魔が釈迦の目線に合わせるようにふわりと浮かぶ。

 顔を近づけ、閻魔が獲物を見るような笑いで覗き込んだ。


「停滞だ。空虚だ。退屈だ。そして何より、傲慢だ」


 釈迦の反応を探る。だが釈迦はきっぱりと言った。


「焔摩天。あなたは、本当に楽しそうですね」


 挑発を挑発として受け取らず、ただ事実だけを述べる声音は、鋼よりも揺れなかった。


「……愛も欲も、捨てずに悟る術がないわけではありませんが……よほど難しいかと」

「じゃ、お前はイージーモードで悟ったわけだ。ぷぷ」

「焔摩天、そろそろ私ではなく、信徒に怒られますよ」

「あーあうるせえうるせえ。そんな奴は全員地獄行きだ」


 閻魔が軽口を放つと、五審の空気がほんのわずかに止まった。釈迦は相変わらず揺れず、閻魔だけが笑う。


「お前の言う“苦”ってのは、そのまんま“原動力”に言い換えられる。人はその苦しみのために“生きる”んだよ」

「……その通りです。しかし、その苦しみを乗り越えるための悟りです」

「んじゃ、悟った奴はみんな死んでんのか?」

「……いいえ。感情を捨てるわけではありません。ただ、全てを理解します」

「やっぱつまんねえな、そりゃ」


 閻魔の口元にはもう、悪い笑みが浮かんでいた。言葉が出る前から、すでに釈迦を煽る準備万端だった。


「先が読めないから楽しい。苦しいから乗り越えた時嬉しい。物語ってのはそういうもんだろ」

「……人生は絵空事ではありません」

「そうだな。フィクションより面白ぇ」


 閻魔の胸を突くような言い分にも、釈迦は少しも眉を動かさない。理解していないのではなく、そうした刺激を扱う領域が、釈迦の中に無いのだ。


「愛別離苦……天望吏は、いつか別れの苦しみを知ります」

「だろうな。鬼と天じゃ寿命が違いすぎる」

「深く繋がるほど、反動は凄まじい。その時、彼女にとっての極楽は、永遠の地獄となります」

「んなもん、道理だろ」

「では、あなたはそれで良いと?」


 閻魔は扇を閉じ、釈迦を見据えた。薄い唇を引き締め、金色の瞳が真っ直ぐ射抜く。


「勿論」


 ただ一言、落とす。釈迦はその言葉を受け取り、目線を返した。


「あいつらが生きてんのは今だ。過去でも未来でもねえ」

「……そうですね」

「未来のために今を犠牲にしろなんて、俺にゃ言えないね。ほら、見ろ」


 閻魔が卓上の鏡を爪先で弾く。その簡易的な浄玻璃の鏡がゆらめき、炎獄と天望を映した。鏡の中、並んで歩くふたりは、何か話しながら笑っている。


「大丈夫大丈夫。なんとかなるだろ」

「今穏やかだからこそ、私はその先を憂うのです」

「逆だろ。その先がわかってるからこそ、今輝かすんだよ」


 閻魔が玉座に背をもたれ、だらしなく釈迦を見上げる。どこか愉悦さえ滲ませながら、表情の変わらない釈迦に笑顔を向けた。


「焔摩天、私には良いですが……あまり他の魂を煽りすぎぬように。あなたが損をしますよ」

「はっ。お説教ど〜も」


 釈迦は軽く合掌し、まるで降りてきた道をそのまま逆再生するように、光の中へと戻っていった。

 気配が完全に消える。五審に、ようやく本来の静けさが降りた。灰がひとつ舞い落ちる音すら、やけに大きく響く。

 閻魔は玉座に座ったまま、扇で軽く風を送りながらぽつりと呟いた。


「……悟りねぇ。クソ喰らえだな」


 誰に聞かせるでもなく、ただ一人きりの王の声。五審の灯りが揺れ、帳の影が長く伸びては消える。

 閻魔は足を組み直し、煙管に火をつけるでもなく指先で回した。


「苦しいからいいんだよ。なぁ?」


 地獄に問うても、返事などあるはずもない。ただ、静寂だけが五審の広間を満たしていた。

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