5話 釈迦如来到来
お釈迦様が極楽の蓮池の淵にお佇みになる姿は、まさしく掛軸の如しだった。水晶のような水を透き通して、血の池の景色や、ネオンの瞬きをじっと見つめている。
蓮の根の泥を見ながら、時折目を伏せ、誰にも聞こえぬほど小さく息を吐く。その手元には、蜘蛛の糸――ではなく、極楽観光ツアーお試し地獄付きの中止報告書。
「ふむ」
ゆっくりと面を上げ、浮かび上がった蓮の花座に乗る。
お釈迦様はそのまま、金色に輝く極楽を下っていった。
*
十王裁判所第五審、執務室。午前の裁判を終え、閻魔大王とその補佐官炎獄がそれぞれ腰を下ろしている。机の上には、まだ裁き切れていない帳簿がうずたかく積まれていた。
閻魔は戸棚から取り出した菓子盆を抱え、炎獄は煙草に火をつける。地獄の昼休みは短い。短いくせに、二人はいつもその数分をだらりと浪費する。
「窓際で吸え、窓際で。くっせえ」
「悪い悪い」
炎獄が煙草を咥えたまま閻魔の背後の窓に手を掛け、開ける。外気がふわっと中に入り、地獄の硫黄と硝煙の香りが流れ込んだ。
と、同時に、似つかわしくない花の香りも混じる。
「……ん?」
炎獄が窓の外に目を凝らすと、遠くから光り輝く金色の蓮の花。眩しく、それでいて柔らかな光がだんだんとこちらに向かってくる。
「……おい、クソジジイ、なんだあれ」
「え?」
閻魔が振り向いたと同時に、窓から蓮の花が二人の間をすり抜けて室内へと入ってきた。執務室の真ん中で蓮が開く。
瞬間、目の前に現れたのは麗らかな光を放ち、その場すべての空気を浄化するような清らかさを振り撒く、釈迦如来。
「天上天下唯我独尊。久しいですね、焔摩天」
「釈迦っ……!」
二本指で天と地を差した釈迦が、伏せ目がちな瞳でゆっくりと閻魔を捉える。全てを導く。そんな眼差しだった。
閻魔は驚いた様子で立ち上がると、すぐにめんどくさそうに頭を掻いた。
「お前さあ! 正面から来いよ! 受付あんだからよ!」
「行く先は常に涅槃寂静に至る」
「アポ無しで来んなっつってんの!」
「受付、混んでた」
「めんどくさがってんじゃねえよ仏がぁ!!」
釈迦は気にもとめず、閻魔の目の前に一枚の紙を出した。赤ペンで“中止・講話に変更”の文字。
ただの書類でさえ、釈迦が持つと何かのありがたい経典のように見えた。
「こちらの件で」
「なんだよ。言っただろ。地獄は危ない。終わり」
「それは理解しています。私が言いたいのはこちらの講話の方」
「あ?」
「何故、あなたがやらない?」
微笑の形をしているのに、一歩も退かない気配を含んだ声音。慈悲の眼差しで閻魔を捕まえて、問いを残す。閻魔はニ、三度まばたきして、紙と釈迦を交互に見た。
「……え」
「十王の頂として、“責苦の理”を語る。それが最も説得力を持つでしょう」
「やっ……やだよ!! お前みたいに説法大好きじゃないの! 俺は!」
聞いていた炎獄が煙草の煙を吐きながら言った。
釈迦が出てきた途端、休憩時間が終わった気分だった。
「俺も反対だ。ジジイが居ないと裁判が回らねえ」
「そうだそうだ!! 忙しいんだうちは!」
「五審は最も公平で、最も厳格でなくちゃならねえ。こいつの講話なんか聞かせてみろ。イメージダウンにも程がある」
「そうだそう……あれ炎獄? もしかして今失礼?」
釈迦が炎獄をじっと見る。そして、ふっ、と口の端を僅かに上げて微笑み、口を開いた。
「よく喋る火ですね」
「……………………は?」
その声音は、問答無用の断罪に似ていた。炎獄の手から煙草が滑り落ちる。床に散る灰がやけに目についた。
釈迦は一歩、二歩と近づき、花の咲くような静けさで立ち止まる。その目線は柔らかいのに、底の見えない深さがあった。
「火は、燃やすものです」
釈迦の声は芯を通り過ぎていく。まるで布教でもしているかのような話し方で、背骨の奥にまで届くような感覚だった。
「あなたの炎は風を欲しがり、燃え盛ろうとしている」
炎獄の眉が僅かに動いた。
「何の話だ」
釈迦は炎獄を真っすぐに見たまま、優しい口調で続ける。
「天女は導く者です。寄り添うことで光を分ける側の存在。あなたは、その光に執着していない、と言えますか」
ようやく、炎獄は何を言われていたのかを理解した。反論しようとして言葉を探すが、どの語彙も口を開く前に崩れ落ちた。まるで名前のない傷をなぞられたように、炎獄の呼吸が止まる。
釈迦の声はさらに穏やかに沈んだ。
「欲がある事、それ自体は否定しません。ただし、火は近付きすぎると焦げていく」
炎獄は、ただ黙っていた。握った拳の中で爪が手のひらに食い込んだ。怒鳴る理由も、抗う言葉も、どこにも見つからない。
「炎獄鬼、側に居る事だけが慈悲ではありませんよ」
煙草の先で焦げた灰が静かに落ちる音がする。釈迦の瞳を、炎獄は見られなかった。視線を上げたら、自分の躊躇いごと見透かされそうで。
「おい釈迦ァ。お前、ウチの子あんまいじめないでくんない?」
閻魔が手元で扇子開いたり閉じたりしながら、どこにかけるでもなくそう言った。
釈迦は視線を戻し、閻魔に向き直る。
「そいつ、見た目の割に大真面目なわけ。お前のその説法、間に受けちゃうだろ」
「仏門は、いつでも開いています」
「だから俺が困るんだよ、成仏されてもさあ。そいつの管轄は俺。お前じゃねえ」
「……相変わらず、あなたは優しいのですね」
釈迦の微笑みは、慈悲というより懐かしさの色を帯びていた。閻魔は扇子で頬を仰ぎながら、ふん、と鼻で笑った。
「では、講話は焔摩天がやりなさい」
「あー戻ってくんなよも――――!!」
「言語道断、問答無用」
「やだ!! やだやだやだやらない!」
「あなたは裁く者でしょう、焔摩天。裁きとは、罰ではなく“教え”です。語ることを拒む裁きは、ただの処刑ですよ」
「…………ぐぅ……」
「おや、ぐうの音がまだ出ますか」
釈迦は閻魔の前に滑るように行き、長いまつ毛の向こうから閻魔を見据えて、貫く。
次にこれを言えば落ちる、と分かりきった目だった。
「では、端的に。“語らぬ王”に救われた者はいません」
「……刺さるねえ、相変わらず」
閻魔は玉座の背もたれに沈み込み、簪でがしがしと頭を掻いた。
「あのさー、じゃ、その焔摩天てのやめてくんない? 俺は今閻魔大王様でやってんの」
「名体不二。呼び名が変わろうと、魂の在り方は同じですよ」
「じゃあ変えろ。リピートアフタミー。えんまだいおうさま」
「焔摩天」
「……強情〜……腹立つねえ……ま、いいや。お前しつけえから今回は折れてやるよ」
釈迦が満足したようににっこり微笑む。
閻魔は面白くなさそうに、扇を広げて口元を隠した。その向こう側で、小さく音を立てないまま舌打ちをする。
「では一ヶ月後、極楽講堂ホールで」
「あいよ。今回だけだかんな」
蓮の花の芳香を漂わせ、釈迦はくるりと背を向けた。満足そうに微笑んで、扉に手を掛ける。
はたと思い出したように振り返ると、炎獄をじっと見た。
「艱難辛苦、汝を玉にす」
釈迦の視線は攻めていない。諭すような目。
炎獄は何も返せなかった。まだ先程の釈迦の言葉が刺さって抜けない。焦がさない自信が彼には無い。
「炎獄鬼、あなたの火は――」
「炎獄――――! 地獄通信記念杯見ましょ――――!!」
「オゴッフ」
内開きの執務室の扉が、釈迦に激突した。閻魔の趣味により無駄に装飾過多な取手が盛大にぶつかり、釈迦の背骨がおしゃかになる鈍い音を、閻魔と炎獄ははっきり聞いてしまって目を逸らす。
ニコニコしながらダービー視聴しに来た天望が、その空気に気付いて目線を下げると、そこにはどの仏像でも見た事のない姿勢の釈迦如来がいた。
「えっ、あれっ!? ごめんなさい! え!?」
「風っつーか台風じゃない?この子」
「天望吏……扉は……静かに……」
「ウワーーッお釈迦様!? なんで!? 誰がこんな事を!」
「お前だ、お前」
天望がうずくまる釈迦の背をさする。釈迦の顔に苦痛は無い。ただ微笑みをたたえている。が、小刻みに震えていた。
悟っても、痛いもんは痛いらしい。
「……これも、苦行……」
「いやシンプルに事故だろ」
「すみません! お釈迦さま!! 本当にすみません!」
「構いません……天望吏……ただ……」
釈迦は天望の手をゆっくりと包み、その手の内に潜んでいた三枚の紙をするりと取る。
「……諸行無常……」
釈迦は光に包まれ、粒となって姿を消した。蓮の花の芳香と、金色の輝きだけを残して。
「も、持ってかれた……! ダービーチケット……!」
「あいつ、多分ちょっと怒ってたよ」
「背骨いわしたからな」
「お、お釈迦さま――――っ! ごめんなさい破門だけは――っ!!」
ばたばたと涙目で天望が出ていく。二人が去った後、部屋は花の香が残っていた。心を鎮めるには少し甘く、罪を洗うには少し優しすぎる香り。
取り残された閻魔と炎獄は、大きなため息をつき、それぞれ背もたれと壁に体重を預けた。
「なんか、すっげえ疲れた……」
「はー、ほんっとに、うるさい火と風と花が次々さあ……」
「クッソ……誰がよく喋る火だ……」
炎獄がもう一本煙草に火を付ける。吐き出された煙が風に乗って窓の外へ溶けた。
閻魔は菓子盆から饅頭ひとつ取り、口に放り込んで咀嚼して飲み込む。炎獄も菓子盆から1つ小さな菓子を手に取った。
「てか、お前バレてんじゃん。釈迦に」
「あ?」
「天望ちゃんの事どう思ってんのか」
「……ああ……」
饅頭の包み紙を指先で弄びながら、閻魔は机の上に足を投げ出す。
「焦がすな、ってよ。火」
「火って呼ぶな」
「煩悩なんか燃やしてナンボだと思うけどな、俺は」
閻魔の指先が卓上の浄玻璃の鏡を弾いた。鏡の向こうで、天望が釈迦に土下座している。
閻魔がそれを見て、少しだけ笑った。
「ま、焼きマシュマロくらいにしとけ」
「……どういう事だ、それ」
「上手くやれよってこと」
「おー……」
地獄庁の時計が、ゆっくりと昼を告げた。
その音の下で、炎獄の煙が静かに立ち上り、やがてどこか極楽の方角へと流れていった。
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