3話 地獄に仏
鬼の恋は、通常、鬼へ向く。
同じ炎を持ち、同じ業を抱き、同じ夜を歩む者同士が番うのが普通で、常識。種が違えば温度も違う。流れる時でさえも変わる。
鬼は千で燃え尽き、天は万で散る。だからこそ、炎獄の想いは異質そのものだった。
「どいつもこいつも、ロクな人生じゃねえな」
今朝、極楽へ続く道の手前まで天望を送ってから登庁した炎獄は、今日の裁判資料を広げて悪態をついた。独り言のつもりでも、声に棘が混じる。先ほどまで一緒だったあたたかくて柔らかい極楽の光と、現実の落差に嫌気が差していた。
資料に並ぶ物騒な文字。地獄で見る人生は、末路だけが濃縮されていて、人の愚かさや醜さを瓶に詰めて並べているみたいだ。
閻魔大王の補佐官として長く勤めてきた炎獄には、ざっと目を通せば地獄行きかどうかは大体わかる。今回も長引きそうな裁判だ。
「また不倫かよ……多すぎんなマジで……」
痴情のもつれ系の裁判は基本的に厄介だ。反省の色を見せる亡者が一割いれば良い方で、“出会ったのが遅かっただけで運命の人”とかが始まるのがセオリー。口で情熱的なポエムを吐くやつらほど、鏡に映るのは他人を踏み台にした欲と身勝手だった。何度も同じようなことを聞き、何度も同じような判決を下す。地獄と告げると、亡者は決まって最後に泣きながらこう言った。
――“恋をしたらいけないのか”と。
「ダメに決まってんだろ」
ぽつり。小さな呟きが落ちた。誰に伝えるでもなく、ただそこに転がるだけの音。
恋してはいけない相手に恋をしたら、罪。それがこの世界のルールであり、秩序を守る法。もつれた先の最悪の結末も何度も見た。だからこそ踏み込んではいけない。炎獄はそれを何より心に刻んでいた。
それでも感情というやつは厄介で、消そうとして消えるものでも無いのがまた苛立たせる。舌打ちを飲み込んで、代わりにペン先を紙に叩きつけた。
「……俺の方が救いようねぇな」
一人で鼻で笑う。天望が好きだなんて、鬼が抱いて良い感情ではない。炎獄が自嘲すると、ふと後ろに気配を感じた。
「聞き捨てなりませんねぇ……」
「うっお!?」
振り返ると、静かな影が立っていた。地獄の空気がわずかに凪いだような、異質な静けさを纏っている。修行僧のような法衣と袈裟から、ほのかに線香のような匂いがする。
錫杖が床に立っている。その先に手を添え、深く影を落とす笠。
「な、な、いつから」
「『ダメに決まってんだろ』あたり……ですな。随分集中しておられたので……」
「なんで黙って背後に立ってんすか」
「苦悩が……見えましたので……」
地蔵が軽く杖先を床に預ける。輪が触れ合い、シャン、と地獄では滅多に聞けない澄んだ音が細く揺れると、地蔵はゆっくりした動きで机を周り、炎獄の前へ立った。
「して、救いようがないと申された」
「え、あ、あぁ」
「そんなことはございません。
地蔵の気配は、焦熱地獄の熱とは質の違う“あたたかさ”を連れてくる。炎獄は仏法に詳しくないし、仏になりたいとも思わないが、地蔵にはなんだか大きく出られなかった。それはきっと、この菩薩が誰よりも“仏らしい”からだ。そして、そういう“らしさ”が、炎獄は苦手だった。
「大した事じゃねえっすよ。俺がちょっと、まあ」
地蔵は杖をわずかに傾け、輪がかすかに触れ合う。微かな響きが、地蔵の微笑みにだけ寄り添った。その笑みは、罪を抱えた魂にも、地獄で働く鬼にも、同じ温度で向けられる。
「私でよろしければ……分かち合ってはいただけませんか」
炎獄は少し考えた。抱えたざらつきを全て言葉にできるほど、素直でも器用でもない。それでも、ほんの少し胸の内側にこびりついたものを剥がそうとしてみる。
「例えば、っすけど」
「はい」
「ろくなもんにならないって分かってて望んじまうのは、あんたらで言うとこの煩悩ってやつなんすかね」
「ろくなもの、ですか」
「末路なんてわかってて、それでも高望みする奴は、地獄に落ちる」
地蔵はなるほど、と小さく言う。
「……たまにはエレベーターを待つのではなく、階段で上がってみる、というのはいかがでしょう」
炎獄の口から「は?」という音が出た。地蔵はお構い無しに続ける。
「踵を上げまして、全力で上がってみるとですね、腿の裏に効きます」
「何の話っすか」
「私、六道全てを徒歩で移動するものですから、足腰は大事だな……と日々痛感しておりまして……」
「いやだから、何の話」
「高望みの話です」
「どこが?」
炎獄が訳の分からないと言いたげに眉を寄せると、地蔵は錫杖を高く掲げた。
「時に高望みと仰るあなたは、果たしてどこから見ていらっしゃるのでしょう」
それは否定ではない。だが、肯定でもない。ただ炎獄が自分で言った言葉の形を、そのまま返していた。穏やかで逃げ道の無い問いに、炎獄は答えられなかった。
「扉が開くまで、自分が何処に居るのかさえわからぬまま、先の見えぬものを掴もうとするから苦なのです」
錫杖が、少しだけ前に出る。それだけで、炎獄の肩がわずかに強張った。
「思うにあなたは……ご自身をずいぶん低く見ていらっしゃる。鬼はけして加害者ではございません。役目を果たすからこそ、救われる魂もおります」
炎獄は小さく舌打ちするように肩をすくめた。そんな話、綺麗ごとにしか聞こえない。
「鬼が誰か救ってるとでも?」
「救われるまでの道を作っておられる」
「そんな都合の良い話……」
地蔵の言葉は穏やかで、決して押しつけがましいわけではない。けれど炎獄は、それを素直に受け止められなかった。亡者を焼き、砕き、泣かせてきたこの手が、救いであるはずがないのだから。
「都合が良くて結構」
地蔵は炎獄の机の上に積み上がった閻魔帳を手に取る。誰かの人生が全て記録されている帳面。
地蔵がページを捲る。その中身に軽く目を通すと、本を閉じて黒い表紙を愛おしそうに撫でた。
「犯してしまった罪は決して消えません。消えないからこそ、私がいて、あなたがいる」
炎獄は返事をしない。理解したわけでも、納得したわけでもない。
「地獄に落ちたなら、責苦を受ける事で禊げばよいのです。そして私が一人ずつ救う事で、希望となれば良いのです」
「そんなん、全員救える訳じゃねえだろ」
「いいえ救います。この手で掴み、極楽へぶん投げます……」
「ぶん投げる」
「ぶん投げます。遠投は得意でして」
救い方がフィジカルすぎるが、その言葉が本気だからこそ、炎獄は何も返せなかった。
地蔵は傘を深く被り直し、地獄へ降りる扉に手を掛ける。
「地獄を空にするには……まだかかりそうですなぁ……」
シャン、という錫杖の音と共に、地蔵は地獄へと降りて行った。地獄の亡者を一人残らず救う。それが地蔵菩薩の誓願。
地蔵が去った後、炎獄は手元の資料を眺めた。どれもこれも、愚かな人の記録。妬み、嫉み、好き勝手に生きた末路。これと同じになりたくはない。しかし、羨ましいと思っているのも事実で。誰かひとりを選んで、誰かひとりのためだけに愚かになれたら、きっと楽だ。
それを地蔵菩薩に全部見透かされたのが何より恥ずかしい。
忘れたふりをするには重すぎて、認めるにはまだ早すぎた。自分がどの位置に立っていいのか、わからなくなるほどの“揺れ”だけが残る。
図星を刺された時の、あの嫌な熱が腹の底からせり上がる。
「ダメに、決まってんだろ……」
それは、自戒だった。たとえ意味が無くても、口に出さずにいられない。そうでもしないと、いつか壊してしまう。
この恋は罪で、踏み間違えれば諸共破滅する。
炎獄には、それが一番恐ろしかった。
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