2話 地獄でも鍋は旨い

 焦熱地獄の空気は、いつも遠くで鉄が焼ける匂いがした。亡者の悲鳴と、地鳴りのような息。炎獄は今日も赤い岩を踏みながら、地獄の釜の蓋を閉めた。


「……帰るか」


 鬼は自然発生の“現象”である。焦熱地獄の温度が一定の閾値に達すると、火の気配が凝り、形になり、一体の鬼として立ち上がる。その意義はただ一つ、地獄で亡者を拷問するための存在。

 炎獄鬼は焦熱地獄で発生した鬼である。故にその名は誰かにつけられたものでなく、現象そのものの名だった。その生が燃え尽きれば、また違う新たな“炎獄鬼”が生まれる。

 この炎獄鬼はよく考える鬼であった。地獄か極楽かの裁判中も、責苦を回す時も、時々立ち止まる。なので当然、今この瞬間に疑問を持つ事もあった。

 ――ただ人を苦しめるための存在に、意味なんかあるのか。

 手についた鉄の匂いが取れない。考えなどひとつもまとまらないまま、炎獄は自室の扉を開けた。

 瞬間香る、ごま油と香辛料。

 

 「あっ炎獄、おかえりなさい」


 炎獄の自宅で、何故か天望が鍋を持っている。部屋の中に充満した食欲を刺激する香りと、温かい空気。


「お前な、一応地獄だぞここ」

「地獄の方がご飯が美味しいんですもん。極楽、味薄くて……」

「で、勝手に俺の部屋上がり込んで鍋食おうとしてたと」

「そうなっちゃいますかねー」

「そうなっちゃいますかねー。じゃねえ」

「炎獄の分もありますよ。ほら、鍋焼き担々麺です」


 土鍋の蓋を開けると、白い湯気がぶわっと広がる。ぐつぐつと音を立ててオレンジ色のスープが煮立ち、ほうれん草と白胡椒が彩りを加えていた。


「……うまそうだけどさ」

「でしょ。で、ここにこれですよ」


 机の角でカンッと音を立てて、中に卵を落とす。柔らかな白身に包まれた温泉卵、そして瓶の山椒をひとさじ。


「天才か?」

「今更気付きました?」

「……滞在を許す」

「わーい」


 ぱきん、と割り箸を割る。一つの鍋を二人でつついて、それぞれの取り皿に麺を移した。追い山椒をかけながら、炎獄が問う。


「で、いくら負けてきた」

「麻雀で三万ほど」

「賭け麻雀すんな地獄落とすぞ」

「現世とは別ですから、極楽は」


 ずぞぞぞ、と天女から出ていいのかギリギリの音を立てながら卵と麺を啜っている。清廉潔白そうな顔をしてはいるが、法衣と頭上の光輪がなければ、ギャンブル中毒のどうしようもない女である。


「お前なんでその煩悩で極楽行けたんだよ」

「ん? ま、いいじゃないでふかそんな辛気臭い話は」

「極楽七不思議だろどっちかというと」

「ていうかもう死んで極楽来たんで、今更清く正しくある意味、あります?」

「あるだろ。正しく導けよ人を」

「仕事中はそうしてまふ」

「釈迦が聞いたらキレるぞ」


 本当にどうしようもねえなこいつ。と麺を啜りながら炎獄は思う。そして同時に沸々と心の奥底から上がってくるのは、まるで正反対の感情だった。

 

 ――すっっっっっげえ可愛いな

 

 炎獄の腹の底から、一気に迫り上がるシンプルな恋慕。まさか口に出すわけにいかない感情が、喉の奥を叩き続けていた。

 

 ――お帰りなさいってなんだ嫁かなんかか?ただいま。帰ったら飯があるって幸せに決まってんだろ。クソッはふはふ言うなかわいいから。役満みてえな名前しやがって。お前を俺の和了アガリ牌にしてやろうか。どういうことだ何言ってんだ俺は。

 

 そう、この鬼、ベタ惚れである。髪に、睫毛に、指に、香りに。それは理屈ではなく、ただどうしようもなく。たとえそれが今目の前で盛大に担々麺を汁ハネさせていたとしても。炎獄にとっては世界一可愛かった。


「……お前さあ、シミになるだろそれ」

「極楽って結構都合良く出来てるんで大丈夫ですよ」

「いいから着替えて来い。洗っとくから」

「炎獄って鬼の割に優しいですよねえ」

 

 ――俺が優しいわけあるか。鬼だぞ。今日も血の池に亡者ぐるぐる回してめちゃくちゃ沈めてから帰ってきたわ。お前にだけだわ、俺が優しいのは。わかれ、いやわかるな。

 

 鍋の底のスープを一気に流し込んで何もかもを押し込める。

 その間に、天望が炎獄の家に置きっぱなしにしている部屋着に着替えて戻ってきた。脱ぎ捨てた法衣と袈裟は洗濯機の前に無造作に投げられていた。

 

 ――なんかさあ。…………なんかさあ!!!

 

 煩悩に支配されている炎獄を尻目に、天望は食べ終わった皿を重ねている。

 鬼の恋愛は特段珍しい話ではない。が、相手が天女となると話は変わる。鬼と天人がどうこうなるわけがない。という固定観念により、天望が炎獄の部屋に出入りしても誰も何も思わない。それによって助かっているんだか、生殺されているんだか、炎獄はいつも複雑だった。


「今日、泊まってくだろ?」

「んー、もう帰るのだるいので、そうします」

「あいよ」


 炎獄は心の中でデカめのガッツポーズをした。泊まるからといって、哀しきかな甘い夜など訪れる事はないのだが、このベタ惚れ鬼はもうなんでも良かった。

 天望は気付いていないが、炎獄の部屋はだいぶ天望仕様に仕上がっている。当然のように置かれた天望用のパジャマはもちろん、化粧水やらなんやらは天望が持ち込んでそのまま置きっぱなしにしたので、棚の一角が天望ゾーンだ。地獄麻雀リーグ戦が見られるように映像配信サービスにも登録した。ちなみにベッドは元々ダブルサイズだったが、いくらなんでもという理性が働き、天望が泊まる時は炎獄がソファで眠る。


「お風呂借りまーす」

「おう」


 この風呂という時間も厄介だ。どう足掻いてもちょっと想像してしまう。

 

 ――いや、そりゃ、お前、するだろ。好きな女がうちで風呂入ってんだぞ。

 

 とは言ったものの、さすがの炎獄も鬼以外の構造など知らない。もしかしたら鬼とは身体構造が全く違う可能性は全然ある。亡者の胴を割る角度は嫌というほど知っているのに、好きな女の髪を撫でる力加減ひとつ知らない。

 

 ――仮に、仮に、だ、もし天望とそうなれた未来があったとして、いざという時に全然思ってたの違ったらどうする。いや、どう知れって言うんだ。適当な仏でも抱けってか。無理に決まってんだろ。じゃあ聞くか? 本人に? お前って脱がしたらどうなってんの――って?いや、キモすぎるだろ。

 

「お風呂いただきましたー」

「あ、おう」


 百八どころではない煩悩を隠す事においては、炎獄はプロだった。タオルで髪を絞りながら、風呂場から天望が仄かに上気させてやってくる。炎獄の葛藤など露知らず、冷蔵庫の茶を我が物顔で飲み、ソファに座って端末をいじる。


「家すぎるだろお前」

「半分くらい家だと思ってます」

「家賃取るぞ」

「高そうここ。かえろっかな」

「冗談」

「炎獄お風呂入らないんですか?」

「……後で」

 

 ――直後はダメだ、直後は。

 

「炎獄」


 天望がソファの隣をぽんぽんと叩く。炎獄は動揺を煙草で押し殺し、息をひとつ吐いて隣に座った。


「おい、髪濡れてんじゃねえか」

「もうちょっとしたら乾かしに行きます」

「傷むぞ」

「大丈夫ですこのくらい」

「ほらタオル貸せ。櫛も」

「はい」


 吸っていた煙草をテーブルの灰皿に引っ掛けた。

 引っ張らないように髪の毛をタオルで包んで拭く。じわりとタオルに水気が滲み、炎獄の手のひらに冷たく乗る。


「あったかーい……」

「俺をドライヤー代わりにすんのお前くらいだぞ。普通は鬼と目も合わせたくねえだろ天女は」

「ふふふ、でも私炎獄好きですよ」

「そうかよ」


 櫛で髪を解く。包む。冷たい髪がだんだんと乾いていく。髪一本でさえ鬼とは違って細い。今この時間が続くなら、この先が無くても、十分――

 

「……」

 

 ――今、好きって言ったな?

 

「炎獄?」

「…………いや、すまん。ん? なんて?」

「あったかい?」

「いやその後」

「炎獄好きですよって」

「ん?」

「ん?」


 天望があっけらかんとした顔でこちらを見ていた。炎獄は手の中の櫛を持ったまま固まる。沈黙が二秒。三秒。


「……」

「……え?」

「な、なんだ今の」

「今の、ですか?」

「いや、“好き”って……」

「ああ、はい。炎獄、便利で好きですよ」

 あまりにも真顔。あまりにも無邪気。

「便利……?」

 視界の端で、煙草の灰が灰皿に落ちる。

「だって火つけてくれるし、髪乾かしてくれるし、ご飯奢ってくれるし」

「……」

「あなたいつも顔怖いからみんな怯えてますけど、私は好きですよ」

「…………」

 

 ――あ、職務的評価だこれ。 

 炎獄の頭の中で鐘が鳴った。期待していた自分の愚かさがこみあげる。こめかみの血管が、笑うように跳ねた。


「……まあな」

「?」

「そりゃあな、便利だよな俺な。うん。火でるし。な」

「なんか怒ってます?」

「怒ってねぇ。怒ってねぇよ」


 天望は笑って、乾いた髪を指でまとめた。その笑顔が、怒りも照れも全部吹っ飛ばす。


「ほんといつも助かってます」

「……そうかよ」

「ライター忘れても大丈夫だし」

「ライター代わりかよ」

「でもほんとに。極楽じゃ誰もダービーなんか一緒に見てくれないですもん。私は全然怖いとか思わないですよー」


 目尻が細くなる。その一瞬が、心臓に来る。

 本当に何も悪気なく言っていたのがわかる。でも、そういう“好き”の言い方が、いちばん効く。

 炎獄は咳払いして、タオルをたたんだ。


「ほら乾いたな。俺は風呂入ってくるから先寝てろ」

「はい」

「ベッド使え」

「いつもすみません」

「気にすんな」


 タオルを手に、炎獄が立ち上がって洗面所へ向かい、行きがけに部屋の電気をひとつ落とす。

 

 洗面台の鏡がふと目につき、炎獄はなんとなく映る自分を見つめた。

 黒い角、赤い目、牙に舌。何もかもが天望と真逆。

 極楽の光と、地獄の炎。


「……んな資格、ねえな」

 それでも、触れられる未来があるなら。その資格ごと、欲しいと思ってしまう。望む事すら罪だと知っているのに。

 ため息混じりの声は、どこか嘲るような色を含んでいた。

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