第17話 明日

 あれから本当に一時間ほど経ったとき、三弦が帰れと騒いだ。僕は丁寧に画材を仕舞ってキャンバスを抱えた。あの頃と同じ家路を歩いて、家へ帰る。

 かさかさと学ランのポケットで擦れる父の遺書がまるで僕を帰るように催促しているみたいだった。なんだか嬉しくなって早足で家へ向かった。

 家の戸に鍵を差し込んでくるりと回す。室内は暗いけれど家を出たときと比べると部屋が温かい気がした。胸の内もどうも少し軽くなっていて、僕を締め付けていた呪いが解けたようだった。

 夜明けの白みがかった空をリビングのソファに立てかけて絵具箱を自室へ置きに行った。冷蔵庫を開けるとまだ父の作った適当な野菜炒めが残っていたので、戸棚から取った皿に盛り付けて電子レンジで温める。三膳しかない箸のうちの一膳を引き出しから取り出し、野菜炒めと一緒にダイニングテーブルへ運ぶ。父がいたときとは違う独特な静けさに妙な寂しさを覚えながら僕はそれを咀嚼した。途中で野菜炒めが塩気を増して、僕はまた泣いていることに気がついた。

 父が死んでから、やっと解った。僕は今まで好きと嫌いを履き違えていたのだと。

 自分自身のことを放棄してまで僕を守った父を嫌いだと思い込んでいたのは、僕を置いて逝った愛情深い父を大好きだったからだ。

 父が僕を残して逝ったのは、きっと苦しくなったわけではないのだろう。僕が無事に高校二年生になり、どっと安心感に襲われたのだ。そしてそれと同時に自分の子ではない僕をこれから先傷つけるのではないかと不安になったのではないだろうか。優しかった父は、どこまでも優しすぎた。

 僕の人生はまだまだ長い。その中で僕の夜はどれほど続くのか。

 ああ、いつか必ずやってくる夜明けがこんなにも待ち遠しい。

 少し晴れやかな心持ちとぐしゃぐしゃの顔で僕は野菜炒めを平らげて、キッチンで皿を洗う。ちょうどそのとき、家の電話が鳴った。古臭い着信音だ。僕は洗い終わっていない皿をシンクに置いたまま手を布巾で拭くと受話器へ足早に向かった。

「はい、もしもし。伊月です」

 泣いたせいで震えたままの喉をなるべく誤魔化しながら話す。

「…あっ……篝…? 篝なの…?」

 その低くも高くもない音程の声は聞き馴染みがあった。涙も震え声も全てが引っ込んだ。

「母、さん?」

「お母さん、隼さんが死んだって聞いて慌てて、そうだ篝は大丈夫なのかしらって」

「ふざけるな、どの面下げてこんな電話かけてきたんだ!」

 声を張り上げながら母の話を遮った。僕の人生をめちゃくちゃにしておいて、僕を生んでおいて男と家を出て行ったくせに。

「ごめんね、篝。ごめんね……」

 萎れた母の声が僕の頭の中をかき混ぜるみたいに言った。なんで母の方が悲しそうなのだ。僕だって、まだ父の死を呑み込めていないのに。

「そもそも父さんが死んだって誰に聞いたんだよ」

「有紀さんがわざわざ留守電を残してくれて…」

 なんだ、母の電話番号を有紀さんは知っていたのか。最悪だ。

「母さんが僕を生まなければ、こんなことにはならなかったかもしれないのに」

 こんなにも惨めでクソみたいな人生も父が死ぬこともなかったかもしれない。頭ではそれが無意味なたられば話だとは分かっていても考えずにはいられなかった。

「それは違う! そんなこと言わないで、篝…」

 母さんが僕の名前を呼ぶ度に胸の奥がざわめいて、心臓を握られているような感覚になる。

「篝、会って話がしたいの。嫌かもしれないけど、お願いよ」

「もう良いよ、明日会ってやるから」

 ため息を吐きながら答えた。こうなったらさっさと会って当時のことも母の考えも全部聞いてやる。それを聞いてどうするかは僕次第だ。

「ああ、有難う。有難う、篝…」

「午後十二時半に八代河駅前のドーナツ屋さんで」

 有紀さんに電話越しに住所を伝えられたときに使っていたメモ帳に、今母に言ったことと同じことを書き込んだ。絶対に忘れないように。

「ええ、分かったわ…。篝、ちゃんとご飯食べてちゃんと寝るのよ」

「今更うるさい。じゃあまた明日」

 返事も待たずに僕は受話器を下ろした。


 昨日から僕は怒涛の時間を過ごしている。

 間違いなく、僕の人生を変える日々だ。

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