第16話 呪い

「遅かったな、篝」

 三弦は初めて会ったときと同じように僕の方を見向きもせずに挨拶をしてくる。相変わらず汚れた筆とパレットを握りながら、その目線は真っ直ぐにキャンバスに生み出された夕空を見つめていた。

 三弦は変わらないままだ。僕も、変わっていない。

「久しぶり、三弦」

 僕も三弦を見ないようにしてキャンバスをイーゼルに立てかけた。地面に絵の具箱を置いてパレットを出す。近くの溜池で水を汲んでから三弦の元へ戻った。

「俺さ、お前に対してちょっとドロついた感情が浮かんでたんだ。お前のことを守りたかったし、でも同時に傷つけそうだった」

 三弦はやはり僕を見ない。

「俺のせいで篝が嫌なこと言われてるの見てて申し訳なくなったし」

 確かにあの頃、やっぱりズレた者同士でつるむんだな、などと笑われていたが僕はそれを気にしたことはなかった。三弦の存在はそんなことがどうでも良いほどに救いだったからだ。

「それに何より、お前には才能があった」

 初めて三弦が僕の顔を見つめた。三弦の美しい榛色の瞳にはキャンバスで踊る赤色ではなく、僕の濁った青色の瞳が映っていた。

「俺が足掻いて迷って立ち止まって、やっと手の内の景色を完成させてる間に、お前は世界みてえに広くて鮮やかな一瞬を心地よさそうに創り上げていくんだ」

 三弦の強い劣等感を滲ませた視線に囚われて目が離せなくなる。

これは三弦の呪いだ。三弦の呪いを聞きたい。

「なんでなんだと思った。俺がお前を引っ張ってやったのに俺よりも先に進みやがって。お前の景色の方がよっぽど入り込みたくなって、俺が絵を描く意味がなくなった」

 三弦はバツが悪そうに一度僕から目線を外して手元のパレットを見下ろした。彼が今描いている夕空の色以外の色がその下にはあった。

 夕空を彩る宍色、珊瑚色、朱華色、甚三紅色、鴇色、中紅色、真朱色、紅梅色、躑躅色、今様色。

 時折下に垣間見えるのは鉄色、錆浅葱色、常盤色、紫紺色、納戸色、蓬色、鶯色。

 何度も絵の具が重ねられて歪に盛り上がったパレットが三弦の迷いを物語っている。

「篝はすげえよ。俺じゃお前みたいな世界は描けない」

「でも三弦の絵は三弦だけの絵だって、三弦が言ってたんじゃないか」

 僕に絵には間違いなどないと、描きたいものを描けば良いと言ったのは三弦なのに。

「違うんだ、篝。俺は悔しいとか思ってない。ただ自分にがっかりしただけ。勝手に自分に期待してそれが外れただけ」

 やり切れない気持ちを片すようにくるくると右手に握られた筆を三弦が器用に回す。

 その感覚なら僕も知っていた。自分ならまだ大丈夫だと思い込んでいたらそうでなかったとき。自分のことを信じ切っていたばかりに想像もできないほどの絶望感に襲われる。

 ああ、遣る瀬ない。

「三弦が僕から離れていって初めて気づいたよ」

「何が? 俺はお前から離れてまた絵が描けるようになって良かったよ」

 僕は三弦がいなくなって、絵が描けなくなった。

「三弦のことを見てるつもりで実際は三弦を通して僕を見てた」

 三弦のように筆を気の赴くままに動かしては生み出されていく美しい自分の視界に酔っていた。僕は三弦のことなんか見ていなかった。追っていたのは自分の面影だけだ。

「三弦は大事だ。でもそれを大切にする方法を僕は知らなかった。僕はもうずっと三弦を見ていなかったんだ」

「篝はそういう奴だよ、別にそれで良いんだ」

 僕を一切見ない三弦が言う。

「父さんが死んでそれを痛感した。三弦が離れてったのは僕のせいだったんだから、三弦がいなくなって訳もわからず苦しむのはお門違いだって」

 どこまでいっても僕はクソ野郎で心底嫌になる。

「いや、それだけは間違ってる。俺がお前に連絡できなくなったのは篝に対する劣等感のせいだからお前のせいじゃない」

 三弦は気を紛らわせるみたいに筆に臙脂色と朱色を取ってキャンバスの上を滑らせた。綺麗に色と色が交わって合わさっていく。

「俺にとっても篝は特別だった。お前がいたから学校が楽しくなったし、お前と描いた絵は一番輝いてた」

 二人で過ごした無言の時間。三弦に電話をもらって駆けていった公園。澄み渡った絵の具たち。父が帰る前に帰宅しようと走り抜ける道。

 三弦に置いて行かれて鍵をかけられていた記憶が一気に呼び起こされた。三弦にもらった呪いの向こう側を思い出してちょっとばかりか靄が晴れた。少しだけ呪いが緩まる。

「僕は三弦が大好きだ。こんな僕に絵を教えてくれて有難う」

 父に言えなかったことをこれからは全員に言おう。恐れていては呪いをなくすどころか増えていく一方だ。赦せなかった自分をさらに呪っていくのだから。

 驚いたように三弦は目を瞠って、

「俺もさ、篝が好きだよ」

 と言った。またしても三弦の榛色の瞳は僕の青色を見つめていた。だけど今度の青色は濁っていなかった。

「ほら、さっさとその中途半端な空完成させろよ」

 三弦の口は緊張感が抜けてすっかり綻んでいた。

「言われなくてもそのつもり」

 僕はその微笑みを見てまた憎まれ口を叩く。

 ああ、いつも通りだ。

 汚れたままのパレットに絵具を絞り出して、筆の思うように手を動かした。何も考えず、ただ只管に。どうせ家に帰っても父は帰ってこない。ならば思い切って夜が僕らを包むまで絵を描いてみよう。嫌な思いをせぬように気を逸らして、脳裏に浮かび上がる夜明けの空をキャンバスに落とし込むことだけに集中する。

 数えきれないほどの青のキャンバスの下側にうっすらと桜色と桃色を混ぜたような色を乗せた。ほら、朝が来る。淡いピンク色と澄んだ青色の隙間に淡黄色を滑らせた。忘れたいけれど忘れられないような懐かしい景色を今この瞬間に創り上げるのだ。思い出せ、胸がきつく締め上げられた感覚を。どうしてそんな気持ちになるのか、それはどんな色なのか、思い出せ。そしてそれをこの手でこのキャンバスに落とし込め。

 それからどれほど時間が経ったのか、僕には皆目見当もつかない。覚えているのは、何もかもを自分の背後に置いていき、ただ前を向いて空を描いていたことだけだ。その瞬間だけは父さんのことも母さんのことも虐めのことも三弦のことも過去になった。

「篝、そろそろ帰った方が良いんじゃねえの。いつもならもう帰ってるだろ」

「ああ、もう父さんは帰ってこないからね。大丈夫だよ」

 言葉にしたその一瞬で過去になっていたことがまた現実へ戻ってくる。もしかしたら呪いを解くには、過去にするには絵を描き続けた方が良いのかもしれない。

「そうか。でもあと一時間もしたら帰れよ」

 そういえばいつも僕が先に帰っていたから三弦が何時に帰宅していたのか知らない。僕は知らないことだらけだ。

「三弦はまだ帰らないの?」

「俺は良いんだよ。家も近いし先輩だから」

「一年しか変わらないでしょ」

 僕は小さく声を上げて笑った。知らないのならこれから知れば良いのだ。今まで逃し続けた分だけ今から取り戻せば良いのだ。

 やっぱり、僕はまだ死ねない。

 ごめんね、父さん。いつかそっちへ逝ったとき、僕の懺悔を聞いて。

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