第15話 ただいま

 鍵を鍵穴に差し込み左に回す。がちゃ、という音がして取っ手を引いた。

 臣は引かなかったし、同情もしなかった。彼は本当にただ話を聞いただけだった。

「じゃあ今日が終わったら少し楽になってるといいな」

 別れるとき、臣はそう言った。僕を縛り付ける青色が今日何か変わりますように、とまた僕にフルーツ味のグミを差し出した。

「ただいま」

 靴を脱ぎながら僕は玄関を抜けた。当たり前だけれど、返事はなかった。昨日と同じ空間を同じ歩幅で同じ僕が歩いている。細い廊下を少し抜けると狭いけれど生活感のあるリビングが広がる。父の死体がまだそこにあるみたいに彼が浮いていた場所を僕ははっきりと覚えていた。

 リビングに入ってすぐ左側には簡素なキッチンで、ちょっとしたカウンターの向こう側にダイニングテーブルが置いてある。椅子は三脚で予備のスツールが部屋の隅で二つほど重なっている。キッチンの反対側である右側には三人掛けの小さな灰色のソファがあるが、二人並んで座ったのは小学校以降思い当たらない。ソファと向かい合うようにテレビがあるけれど、これも電源をつけたことは小学生以来ないだろう。ときどき父がニュースを見ていたが僕はそれを一度も気にかけたことがなかった。質素なベランダが一応あることにはあり、今僕が立っている位置から見て左奥にソファと同じ色のカーテンのついたガラスの引き戸がある。洗濯物は部屋干しか乾燥機だったし、ベランダには特に用もなかったので出たことすらない。

 今思えば僕は本当に自室にしかいなかった。ご飯を食べている間と風呂に入っている間以外で部屋から出るという選択肢がまずなかったのだ。リビングからたまに父がテレビを見ている音が聞こえたり、キッチンでご飯を作ってくれている音がしたり、洗濯機を回してくれる音が聞こえてきたりしていたのに僕はまともに父と会話すらしていない。ただ一方的にお互いの存在を確認するだけの生活。

 父との会話をやめたのは、いつからだろう?

 いつから、僕は父という一番身近な人を真正面から見れなくなったのだろう?

 ああ違うな。父が僕を捨てたのではない。父が僕を置いて逝ったのではない。いつの間にか僕の方が父を捨てていたのだ。いつの間にか僕の方が彼を見放していたのだ。

 やっぱり、僕が悪い。僕が彼を殺した。そうに違いない。


 もう絵は描かないの? 篝は大人になったら何になりたい? 今日は学校どうだった? どこか行きたいところはない? 何かしたいことはある?


 今まで何度も父は僕へ寄り添おうとしてくれていたのに、僕はそれを全部切り捨てて勝手に我慢していたのだ。最低だ。クソ野郎だ。

「ねえ父さん、ごめんね。ごめん」

 今更気づいたって遅い。もう父さんはいない。もう何もかもが遅い。

 ぴりりりり、と古臭い受信音が部屋に響いて我に返る。目元に浮かんでいた光の粒をぐしゃぐしゃに擦った。

「もしもし」

 少しだけ声が震えたまま僕は受話器を取った。相手は分かっている。

「よう、篝」

 初めて電話が来たときと同じ挨拶の仕方で三弦が言う。一年半ぶりとは思えないトーンだった。

「何、三弦」

 いつだって僕を振り回す、僕の大切な人。

「今から三〇分後に画材持って鹿島公園な」

「は」

 承諾する前に電話を切られた。昔と変わらず三弦は僕のことを気にもせず呼び出すのだ。

 鹿島公園は僕らがよく通っていた公園で、ちょっとした丘の上にあったおかげで空がよく見えた。学校と家以外では一番通っていた場所だと思う。

 僕はため息をつきながら自室へ戻って画材を取りに行った。開けっぱなしの絵の具箱にはボロボロになった青色の絵の具が放り込まれていて、一緒に仕舞われていたペインティングナイフと筆の持ち手にも同じ青色が移っていた。部屋の隅に立てかけてあるキャンバスには、夜明けの白みがかった空が未完成のまま置いてある。そこはかとない後めたさを感じながら画材とキャンバスより埃を掃って腕に抱えた。

「お前も、ごめんね」

 絵や絵の具箱は何も悪くないのに、こんなに雑に保管していたことを謝った。僕は僕だけじゃなく僕の大切なものも何一つとして大事にしていなかったということをまざまざと思い知らされる。ごめん、ごめんだけじゃ済まされない。

 僕は携帯電話を学ランのポケットに入れて玄関を飛び出した。学ランの内ポケットで父の遺書と携帯電話が擦れ合う音が聞こえる。それでも僕は止まれなかった。

 三弦に会いたい。三弦に会って、今度こそ僕は三弦を大切にするのだ。

 僕の両腕に錘のように抱えられている画材もキャンバスも僕の足の速度を落とすことはなかった。

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