第11話 僕の青
三弦は何も言わず、ただ自分自身の絵に意識を向け続けていた。
交わらない僕らの世界が一筆描くごとにでき上がっていく。三弦の赤は三弦の空白を埋め、僕の青は僕の空白を埋めた。
最高に赦された気分だった。僕は生まれ変われるのだと信じることができた。
見渡す限りの青が僕を洗い流す。
「何だ、ちゃんと描けるじゃねえか」
三弦が僕に微笑みかけてやっと僕は自分の青いキャンバスをよく見た。漸く僕は無意識に快晴の青い空を描いていたことに気がつく。誰一人として息苦しくならないような澄んだ青色に目を瞠った。
僕は僕に居場所を与えたかったのだろう。
「篝の絵は空気清浄機みたいだな。一切の濁りがない。お前のその瞳の色と同じだ」
僕は僕の目を隠すことをすっかり忘れていた。普段なら見えないように前髪で隠しているのに、今は僕の視界を邪魔するものでしかなくて途中で掻き上げたのだ。
質問攻めに合うと思って、だらだら冷や汗を掻きながら前髪を解していつもの髪型に戻ると、
「もっと見せろよ。篝の色なんだろ?」
と僕の前髪を手で避けてじっと僕と目を合わせた。そして三弦の顔を初めてはっきりと見たのだった。
三弦の髪色も日本人には珍しい榛色で、瞳の色も薄めの茶色だった。鼻や唇、眉毛、輪郭の造形も端正で格好良かった。
僕と、似ていた。
「やっぱり俺たち似てるよな」
寂しそうに微笑った三弦は本当に僕によく似ていた。
「篝のこと、俺知ってたんだよね」
「どうして?」
「新入生で一人だけ外国人みたいな子いるって噂になってたから」
漸く小学校での呪縛から逃れたかと思ったら、やはりそんなことが起きていたなんて、想定内なのか想定外なのか。
「俺結構楽しみにしてた。俺と同じかもしれねえなってさ」
三弦は表情があまり顔に出ないけれど、微笑みだけはよくしてくれる。
「三弦も虐められたりしたの?」
その時点で僕はかなり三弦に自分を曝け出していたのだ。三弦は大丈夫なのだと。
「ああ、虐められてたよ。虐めではないが、今も割と遠巻きにされててね。別に一人は好きだし良いんだけど」
ちっとも悲しくなさそうな三弦が羨ましい。僕はこんなにも崩れ切っているのに。
「僕は認められたかった」
「俺が認めてやるよ」
三弦に迷う素振りはなかった。
「有難う、でももう諦めたんだ。僕が悪いんだからどんな扱いでも仕方ないなって」
僕が生まれてきたことが悪いのだから、皆は僕をこの場所から排除しようとして当然なのだ。それに気づくのが遅かったというだけ。
僕がそう自分に言い聞かせて全てを諦めたのはいつからだろう。両親に申し訳なくなったのはいつだろう。僕が僕を虐め始めたのはいつだったろう。
もう思い出せない。小学校の中学年の頃には声を出して笑わなくなった気がする。その頃に離婚した両親のことも何とも思わなかった。
「何でだよ。悪いのは篝だけじゃねえだろ」
三弦は僕が僕を悪いと言ったことを否定せずに話してくれる。僕が僕を苦しめていても受け入れてくれる。真っ白のキャンバスみたいだ。何色を乗せても良い、真っ白のキャンバス。
「僕がそもそもいなければ良い話だったんだから、これで良いんだよ。全然寂しいとも悲しいとも思ってないし」
「ふうん、まあ良いけど。流石に自殺とかは一回相談してくれよ。急にされると色々と大変だから」
変な理由だ。一般的な人なら自殺の相談を持ち掛けたら止めるだろうに。
「まだ死なないよ」
「どうだかなあ」
「少なくとも今はそんな予定はない」
すぐに意固地になってしまう自分自身が情けない。確かに死にたいと思っていた時期もあったけれど、母がいなくなった今、父がどうなるか分からない。父は僕のために生きてくれているようなものだから、僕が死んでしまったら父まで死んでしまいそうだ。
「なら良い。今日はここまでにしよう。明日もここに来いよ、また話そう」
辺りはすっかり暗くなり始めていて、室内の端っこにある時計を見ると時刻は六時前だった。あと一時間もすれば父が帰ってくるだろう。
「分かった。僕もそろそろ帰らないといけないから片付ける」
僕はまだ乾いていない青いキャンバスをそっとイーゼルから降ろして机の上に動かした。先にイーゼルを備品室へ持っていってからキャンバスを運ぼう。
「お前小せえなあ」
立ち上がると三弦との身長差に驚く。歳は一年しか変わらないのに、僕よりも頭一つ分背が高い。
「うるさいな、僕の成長期はまだなんだよ」
春にあった身体検査では身長はまだ一五〇センチだった。逆算すると三弦は一七五センチくらいだろうか。
「そのうち追い越されそうだ」
「楽しみだね」
僕は筆を洗いながら答えた。ははは、と小さな声で笑う三弦の声が遠のいていく。振り返ると三弦が僕の分のイーゼルまで運んでくれていた。机の上には眩しい夕暮れと瑞々しい青空が置いてある。
僕は三弦が好きだった。
三弦が中学を卒業してしまってからも、彼は僕と絵を描く時間を設けてくれた。気まぐれに家に電話を掛けてきては、画材を持ってこの場所に来い、と強引に切られる。いつしかその電話が掛かってくるのが楽しみになって、明日掛かってくるかもしれないからと生きる理由になりつつあった。
同じ高校に通うことになって、また三弦とあの時間を過ごせるようになるのかと思うと、憂鬱な胸も少しばかり軽くなった。が、それも最初の数か月間だけで僕が高校に入った途端、ぱたりと連絡が来なくなった。理由も知らされずに突然捨てられたみたいだった。
僕と三弦の関係は些か不思議なものだ。僕は携帯電話を持っていたにも関わらず、彼の電話番号も知らないのだ。家の電話番号だって三弦が一方的に僕のを知っているだけで、僕は知らない。なぜ僕が一年生になったときに三弦が僕から離れていったのかも分からない。
毎日描きたい世界が僕の中から溢れてくるのに、僕は筆を手にすることさえ怖くなっていた。徐々に何も思い浮かばなくなってきて、自分自身を赦せる時間がなくなっていく。何もない。絵を描く意味も描きたいものもない。
そうして今まで三弦という気ままな猫に懐かれていると思い込んでいたのが覆って、僕自身が餌をずっと与えられていた井の中の蛙だということに気がついた。三弦のくれた世界以外知らない自分が恥ずかしくなった。
もういらない。やはり最初から大切な存在なんて作らなければ良かったのだ。失うのが、こんなにも苦しい。
今更僕に何の用なのだろう。
暇つぶしに久しぶりに会おうとでも言われたらどうしよう。三弦の誘いを断れる自信がない。これから先大切なものは作らないと思わせられたのは三弦のせいなのに。
ああ、考えることが多すぎる。
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