第10話 三弦
✳︎✳︎✳︎
天城三弦とは中学一年生の夏に空き教室で出会った。父はどうせ夜まで帰ってこないし家に帰りたくないな、と学校内を歩き回っていたら見つけた場所だった。校舎の最上階、一番奥の教室。戸の取っ手に手をかけたら鍵が空いていたのでそっと入ると、そこには誰もいなかった。下校時間を過ぎているのだから当たり前だが、今はもう使われていない部屋とは思えないほど教室内は清潔だった。机や椅子はぼろぼろだったが埃は被っておらず、外の太陽光をカーテンが柔らかく遮断して室内を薄暗く照らしていた。クーラーも扇風機もなくて蒸し暑かったけれど、不思議と居心地が良くて僕は近くの椅子に座り込んだ。十分ほど眠っていただろうか、長身の誰かが教室に入ってきた。脚で引き戸を開けたのか大きな音がして一気に目を覚ました。片腕にイーゼルを抱えて、もう片方で大きなキャンバスを持っていた。かなり整った顔立ちのその人は僕の存在に動じることなく窓際へと向かった。
「お前何してんだ」
僕の方を一瞬も見ずに話しかけてくる。その間にもキャンバスを準備して水を汲んでいた。
「家に、帰りたくないので」
小声で答えた。なぜこの人に僕は事情を話さなければいけないのだろう。
「あっそ。ならお前も描く?」
「何をですか」
「絵だ。時間あるんだろ」
彼は僕の返事も聞かずに手ぶらで教室を出ていった。
彼がさっき運んできたキャンバスには既に何かが描かれている。夕焼け空だった。手前に何か描くために雲の位置が調整されていたが、まだ何も描かれていなかった。乱雑に置かれたパレットと筆の持ち手が多様な色の絵の具に塗れている。そっと歩き回っていると、彼が戻ってきた。数分前にイーゼルを抱えていた腕にまたイーゼルが、キャンバスを運んでいたもう片方の腕では真っ白なキャンバスを持っていた。
「ぼうっとしてないで手伝えよ。お前の分なんだから」
「ご、ごめんなさい」
慌ててその人からイーゼルを受け取る。彼のイーゼルが立っている傍に僕のイーゼルを立てた。
「名前は?」
彼がキャンバスをイーゼルの上に置きながら言う。
「伊月篝です。あなたは?」
「俺は天城三弦。対して年齢も変わらねえんだし敬語はよせ。堅苦しい」
あまぎみつる。何だか完成された名前だ。脳内で反芻してそう思った。天城に合う名前は三弦で、三弦に合う名字は天城だった、というような。
「とりあえず何か描きたいもの描け」
僕に一瞥もくれない三弦さんは自分のパレットに絵の具を出してもう描き始めている。僕にもパレットをくれたが、三弦さんのぐちゃぐちゃなパレットに比べてまだぴかぴかだった。
三弦さんは描きたいものを描けというけれど、描きたいものなんて、
「そんなものない?」
三弦さんが僕の考えを読んだみたいに言った。
「最初はそんなもんだ。篝が見たいもの、信じるもの、許せないもの、直したいもの、何でも良い。絵は自由だから」
ああ、広く澄み渡った青が見たい。真冬の晴れた日に白銀に反射するような青。海よりも空よりも深くどこまでも包み込む青。全てを塗り替えてしまいたい。僕のことも、世界のことも。
「三弦さんは何を描いてるの?」
「三弦で良い。俺は俺が見たい景色を描くんだ」
桃色、橙色、紫色、蘇芳色、山吹色、藍色、空五倍子色、浅葱色、茜色。
三弦のキャンバスをもう一度見たときに僕の目に映ったのは、現実世界よりももっとリアルで鮮やかな夕焼け空だった。真っ直ぐに僕の瞳と心に届く。何色もの色彩が重なっているけれど、どの色も確かにそこに必要な色で全ての色が喧嘩せずに共存していた。
美しかった。見たこともないほどに三弦の世界は綺麗だった。悪意も邪気も全てを受け入れて浄化する世界だった。
「すごい」
言葉に表せない感情が込み上がってくる。いや、言葉にすることそのものが間違っているのだ。
「お前も描けるよ。ほら」
三弦が絵の具の入った箱を僕に手渡す。青だ。青を探せ。僕の穢い色を塗り潰せる、不透明な青。
薄縹色、薄花桜色、花色、薄藍色、空色、青藍色、新橋色。
この箱に存在する青を全部集めろ。まだ足りない。
藤納戸色、藍色、紺青色、深縹色、花浅葱色、藍錆色、秘色色、瑠璃色、群青色、勿忘草色、露草色、孔雀青色、青搗色。
僕を清められる爽やかな色から、僕を真新しくする濃ゆい色まで。
青だ。
「篝は青が好きなんだな」
「違う。青色で僕を直すんだ、僕をこの世界に連れ込むんだ」
僕の穢い身体を青で埋め尽くして海へ還りたい。沈んでいきたい。
「好きなだけこの教室に来いよ。ただしイーゼルとキャンバスは必ず備品室に持って行くこと」
「分かった。有難う、三弦」
僕は無我夢中で青をパレットに出した。混ざっても良い、混ざらなくても良い。色の行きたいところへ行かせる。
少し湿らせた大きな筆を思いっきりパレットの上で滑らせた。数えきれない青が筆の中で混ざって新しい青を作り出す。この青をそのままキャンバスに乗せる。お前らは自由だ。
僕だけの青色よ、この真っ白な表紙を染めていけ。僕の人生という名のクソみたいな本の表紙を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます