第12話 整理

 三弦とのことを思い返していると担任が口を開いた。

「それから伊月くんは一時間目の前に職員室まで」

 名指しで言われてしまえば否定できまい。一斉に僕の元へ視線が集まる。

「……分かりました」

 恐らく父のことだろう。僕にとって彼が唯一の肉親であったように、彼にとっても僕が唯一の家族なのだ。父が自殺すれば当然僕の高校にも連絡がいくだろう。もしかすると母さんにも何かしらの通告が入ったかもしれない。

「篝、なんかやらかしたのかー?」

 冗談めかして臣がそう言った。

「いや多分僕のことじゃないよ」

 答えてはみたけれど、臣には分からないだろう。親の自殺体を目の当たりにしたことがある子供がそうそういて堪るか。

 臣がどういうことだ、と言い切れぬままにチャイムが鳴った。

「じゃあ僕は行ってくるね」

 微笑みもせずに席を立って、教室から出ていく担任を追った。追いつきはしないペースで、でも見失わない程度に速く歩いた。

「伊月くんは授業に出なくていいから、応接室に行きなさい。保護者の方と警察の方がお越しだ」

 保護者、ということは有紀さんがわざわざ学校にまで来てくれたのだろう。今朝はそんな様子なんて少しもなかったけれど。

「失礼します」

 丁寧に二回ほど右手の第二関節で突いてノックした。木製らしく重い扉を目一杯押しながら入室する。

「伊月篝くん、ですね」

 若くて見るからに新人らしい警察官の制服を着た男が僕に尋ねる。

「はい、そうです」

 軽く会釈をして応接室らしく置いてある茶色の革製のソファに腰掛ける。僕の左隣で有紀さんが微笑んでいて、僕の真向かいに警察官が二人座っていた。

「学校にまで押しかけてすみませんでした。向坂さんから篝くんが普通に過ごしたいと仰っていたと伺ったもので…。昨夜は向坂さんとだけお話しさせていただいて、本日学校まで足を運ばせていただいた次第です」

 先ほど名前を確認してきた警察官の隣に座っていたもう一人の若い警察官が言った。こちらの方は髪を染めたこともないような綺麗な黒色の短髪で、黒縁の眼鏡をかけた如何にも堅実そうな男だった。

「本来は署にお呼びするところだったのですが、昨日お伺いしたところ事件性はありませんでしたので」

 ああ、もうあの家には父はいないのか。

「念の為検視させていただきましたが、やはり事件性はなかったので昨日の状況を確認するために少しお時間よろしいでしょうか」

「構いません」

 どこからどこまで有紀さんは話したのだろう。僕が昨日帰宅するなり父の死体を見つけたところから? それとも僕が有紀さんに連絡を取ってから?

 面倒なことを遺しやがって。父さんの馬鹿野郎。

「昨日もお話ししましたが、篝は隼を目の前で見たんです。ゆっくりしてやってください」

 有紀さんが深く礼をする。二人には分からないように僕に状況を伝えてくれた有紀さんが、警察官に見えないように低い位置でぐっと親指を上げている。

「もちろんです。大丈夫そうですか?」

 堅物そうな方が僕に尋ねる。

「はい。あの…」

「ああ、失礼いたしました。長谷と申します」

 長谷さんが被っていた制帽を取って僕から見て真正面の位置で礼をした。

「私は汐屋と申します」

 続いて僕の名前を確認してからずっと黙っていた方が言う。

「では早速なのですが、昨日の朝の様子からお伺いさせていただいてもよろしいですか」

 汐屋さんが手元で手帳を広げてメモを取る姿勢になる。長谷さんはメモを取れるように一応ペンと手帳を持ってはいるものの、僕の目をじっと見据えたまま動かない。

「昨日の朝はすごく普通でした。いつものように父が作ってくれた朝ごはんを食べて、七時半過ぎに家を出ました。特に不自然な様子はなかったと思います。父はいつも僕よりも後に家を出ますから、その後のことは分かりません」

 心を無にして、ただただ噛まないことに意識を向けながら話した。

 昨日父親が目の前で死んだってのにあまりに冷静すぎませんか、という汐屋さんの声が聞こえる。それに対して、黙っておけ、と長谷さんが答える。

「なるほど、ありがとうございます。ではご帰宅されてからのこともお聞かせ願えますか」

 汐屋さんは僕の方を見もせずに淡々とメモを取っていた。

「はい。僕は帰宅部なので昨日も真っ直ぐ家へ帰りました。いつもと同じだったので時刻は恐らく四時半ぐらいです。鍵を開けて家に帰るなり、目の前に父の死体が、浮いて、いました」

 今思い返すと吐き気がしそうだ。いつだって優しそうな顔をしていた父の表情は青くどこか苦しそうで、だらりと力なくぶら下がった腕や脚が粘土で作られた人形のようだった。

 あれは確かに死体だった。でも僕の知っている父とは似ても似つかなくてただ他人事のように感じるだけだったのだ。

「辛いことを思い出させてしまってすみません」

「いえ、大丈夫です」

 割り切ってしまえ。

「なぜ一番に警察に連絡をしなかったんですか」

 汐屋さんが身を乗り出して聞いてくる。

「遺書が、あったんです」

「遺書、というと? どんな内容で? 篝さん宛で? 今お持ちですか?」

 汐屋さんがぐいぐいと距離を詰めてくる。ぐるぐると目が回るような感覚になって妙に焦り始めた。

 僕が答えられずにいると不意に視界から汐屋さんがいなくなった。汐屋さんの首元の襟を後ろから長谷さんが引っ張ったようだった。

「おい、急かすな。そんなんだからいつまで経っても記録係なんだよ」

 僕にも聞こえる声量で長谷さんが咎める。ぐえ、と変な声を上げながら汐屋さんが謝ってきた。

「すみません、取り乱しました。遺書ですよね、今も持ってますよ」

 学ランの内ポケットに手を突っ込んで紙らしき感触を探す。ものの数秒で取り出せた。僕が昨日三つ折りにたたんだままにしてあった。破れないように丁寧に広げて二人が座るソファと僕たちの座るソファの間にある低めのテーブルに置いた。当たり前だが、昨日無心で読んだ内容と同じ内容が書かれている。

「拝見します」

 長谷さんが手袋をはめながら言った。父は自殺したのだから指紋なんて気にしなくても良さそうなのに。

 汐屋さんが遺書の内容をメモ帳に移した後、携帯電話で遺書の写真を撮った。

「では篝さんはこの遺書に従って向坂さんの元へ行ったということですね」

「はい、そうです」

 長谷さんがちらっと有紀さんの方を見た。

「僕は隼から連絡をもらっていたんです。俺に何かあったら篝を頼む、とだけ」

 有紀さんもまさか父が死ぬなんて思ってもいなかったのか。

「昨日この遺書について仰らなかったのはなぜですか」

 長谷さんが有紀さんの返答の後、間髪入れずに訊く。

「遺書のことは本当に知りませんでした。僕の家の電話番号は篝くんに隼から事前に伝わっていたものだと思っていたので」

「では篝さんを頼まれていたことを黙っていたのはなぜでしょうか」

「訊かれませんでしたから。それに頼まれていたと言えばあなた方は僕を自殺幇助の疑いで任意同行させたでしょう」

 すらすらと有紀さんの口から言葉が滑り落ちる。彼は掴みどころがなくてどこかいつもの有紀さんではない何かのように感じた。

「なるほど、それも一理ありますね。今更お二人がどのような会話をしたのかなんて証明できませんし」

 長谷さんが少しだけ笑いながら答えた。

「そこは目を瞑ることにします。お二方、ご協力誠に感謝いたします。数日後に死体検案書のお渡しとご遺体のお引き渡しのため警察署までお願いします」

 長谷さんと汐屋さんが同時に立ち上がり、慣れた手つきでまた制帽を取って綺麗な礼をした。きっと彼らにとっては身体に染み付いて無意識にでもできる動きなのだろう。

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