第9話 蛇
全員、鯨みたいだ。
それならば僕は蛇だ。
鯨のように広大な海中を泳ぐのではなく、小さな池の周りでただ動き回っているだけ。蛇は昔から縁起が悪い動物で、その奇怪な見た目と有毒性から蛇を見かけると死が訪れると云う。そう、僕に関わったものは不幸になる。
ああ、僕自身が僕にとって最大の厄災だ。
アダムとイヴが蛇の誘いによって楽園から追放されて苦しんだように、僕を負へと導いて虐めるのは僕なのだ。
「臣の綺麗な黒髪も、似合ってて良いじゃん」
僕は少しだけ心のネジを緩めた。
「いや、こんなん有り触れてて特別性に欠けるよ」
臣は自身の前髪を指で摘みながら言った。摘んだ自分の前髪を深い黒色の瞳が眺める。センター分けの前髪は少し長めだが、目にかからないように外側に向かって巻かれている。
その美しい黒をどれだけ求めたことか。
「僕は臣みたいな黒髪と黒い瞳に憧れ続けたよ」
僕がそう言ったとき、担任が教室へ入ってきた。教室の時計を一瞥すると、八時四三分だった。チャイムが鳴ってから三分が経っている。臣が僕に返答する間もなく担任が話し始めた。僕も既に教壇へ目線を向けていた。
「全員席につけー、朝礼始めるぞー」
起立、礼、着席。クラスメイトがロボットのように揃って同じ動きをした。毎朝同じことをしていると一流ダンスチーム並みに足並みが揃うものだ。
特にいつもと変わらない担任の長話に少しだけ安堵しながら周りを見渡してみた。すると、想像以上の人数と目が合ったのだ。顔すら見たことのないような奴から、クラスの人気者まで。
やはり僕の容姿は特異なのだろう。面白がって見てくる奴は今までもたくさんいた。女子のヒソヒソ話もよく冴えた僕の耳は聞き取れる。
「伊月くん、髪切ったんだね」
「本当だ。何よ、すごいイケメンじゃない」
「今まで隠してたのね…。私狙っちゃおうかな」
「やめなよ、どうせ暗い性格は変わらないよ」
「でも何で急にイメチェンなんかしたんだろう」
ちらちらと見られる僕の独特な瞳を隠したくなって俯いた。
見るな、見るな、見るな。
僕の見た目ですぐに不倫のことがバレると解っていながら僕を生んだ母は馬鹿だ。僕なんかを生まなければ父は死ななかっただろうし、僕もこんなに苛まれずに済んだ。
色欲に負けた母は大嫌いだ。
彼女は父が死んだことすら知らされていないはずだから、僕のように罪の意識に駆られることもないだろう。なんて能天気な。
母とは血の繋がりがあるけれど父の方が幾分親としての責任感があった。
僕が今好奇の目に晒されているのも母のせいだ。
「…り……がり…篝!」
考え込んでいたら臣の呼びかけに気づくのに時間がかかった。
「ああ、何」
「お前は綺麗なんだからもっと自信持てよ」
どいつもこいつも僕を綺麗だと嗜めてくるのは一体何なのだ。僕は自信がないわけではないと脳内で何度も繰り返す。でも、と臣が続ける。
「おれより先に恋人作ったら怒るぞ」
「いや、作る気ないから」
理解不能といった顔であっけらかんとする臣の顔が面白くて思わず笑ってしまった。
「はあ? その歳でもう枯れてんのかよ。普通はもっと恋人とか欲しがるだろ」
僕は元から普通ではないのだから、当てはまらない。
「篝の美貌があればよりどりみどりだろうに……変な奴だな、お前」
僕の微笑みにクラスメイトの視線が集まるのが分かる。そうだ、僕は昔からこの視線からも逃れたかったのだ。奇異の目からも、好奇の目からも。
僕の見た目に引っ張られる奴がずっと嫌いだった。ああ、でも真李と有紀さんと臣は特別だ。彼らは僕のことを真っ直ぐに見てくれるから大丈夫だ。
いや、いつからそんなに絆されてしまったのだ。絵を教えてくれたあの人でさえも僕を置いて行ったのに。
「変で構わない」
だめだ。このままでは後で失うものが増えていくだけだ。
「何だよ、急に。そういえば今朝は向坂さんと来てたよな」
「そうだね」
やっぱり聞かれる。
「もしかしておれが言うまでもなく彼女持ちだった?」
だから恋人いらないのか、と一人でに頷きながら納得する臣に僕ははっきりとした口調で言った。
「違うから。たまたまだよ、たまたま二人とも遅刻しかけてただけ」
素っ気なく返答しても笑顔のままの臣が少し羨ましかった。彼は愛されてきたんだろうと自分勝手に思い込む。
「へえ。このクラスだけじゃなくて学校中の人が篝と付き合いたいんじゃない?」
「何でそう思うんだ」
この手の話題は早く切り上げたい。
「まず見た目が良いのは前提として、篝と話すの面白えし!」
「面白いなんて初めて言われた」
そもそもあまり会話が続いたことがないのだから、言われたことがなくて当然だ。
「おれと話すのは嫌?」
臣が訝しげに心配そうに尋ねる。するりと僕の心の中に入り込んでくるところが真李に似ている。
「嫌じゃない。話すこと自体が得意じゃないんだよ」
「そっか、なら慣れないとな! リハビリがてら、おれといっぱい話そうぜ」
大きくて日に焼けた手がグーの形に丸められて僕の目の前に差し出された。グータッチを催促してくる臣の手に僕の穢い手をくっつけるのは嫌だったが、臣の期待に満ちた瞳に根負けした。ゆっくりと自分の白い粘土のような手を近づけていく。
「渡良瀬と伊月、ちゃんと話聞けよー」
教卓の角でクラス名簿をとんとんとテンポ良く当てながら担任に注意されたせいで、僕と臣のグータッチは叶わなかった。
「すみませーん」
おちゃらけながら臣が笑うから、どこか安心した。行き場のなくなった己の手を見ていると、臣が素早く僕の拳に臣の拳をぶつけてきた。一瞬の、グータッチ。
にかっと歯を見せて笑いかけてくれる臣を見て、僕はまた自分のことを蛇だと思った。自分の守備範囲に入ってきた奴を警戒しながらも流されるだけで、自分から動くことはしない。僕はただじっとしている。誰かが寄ってくるまで待ってばかりいる。そして相手が離れていくと卑屈になって、どうして僕を置いていくのだろうかと落ち込む。勝手なクソ野郎だ。
「せんせー、クラスにイケメンいるって聞いて教室飛び出してきた」
がらがらと音を立てながら引き戸が勢いよく開いて、クラス中の視線が扉に向けられた。ネクタイの色で彼が三年生であることが分かる。その人は無表情だったが、声色はどこかわくわくしていた。ざわつくクラスメイトを横目に僕はその人物から目を逸らす。
三弦だ。
「何だ。篝かよ」
あからさまに目線を避けたせいでより分かりやすくなってしまった。
「篝、天城先輩と知り合いなの?」
「まあ、ちょっとね」
臣が意外そうに僕を見る。
「篝、後で連絡すんね」
三弦はそれだけ言って戸を閉めて帰っていった。嵐のような人の登場に混乱している僕たちを先生が先生らしく宥めた。
昨日父が死んだとは思えないほど日常的な風景。いや、頭が追いつかないくらい色々なことが昨日から起きているのだが。
「静かに! 来週の月曜に期末テストがあるので、今日からテスト期間です。明日の水曜から金曜までの三日間は自由登校になります」
いつもの説明を聞き流して僕はまたぐるぐると思考を巡らせていた。
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