第6話 特別
僕が整えずとも良いくらいに真李の腕は良くて、とてもではないが素人とは思えない仕上がりだった。眉毛の下ラインよりも少し短く切り揃えられた前髪はどこか新鮮で、無防備に感じる。全体が丁寧に短く切られていて、適当に切る、と云う真李の言い分は何だったのか疑問に思う。
「できたよ。後は自分でしなよ」
はっきりとした視界にハサミが映り込む。
「いや、もう充分さっぱりしたし綺麗だから僕は何もしないよ」
僕が触ると何かしでかして変な髪型になりそうだ。できることならこのままが良い。
「そう? じゃあ篝の大変身計画の記念すべき一歩目をみんなに見せびらかす前に、まずはお父さんに見せに行こ」
もう真李には瞳を見られていたから抵抗はなかったけれど、やはり今露わになっているこの眼は気持ちが悪い。誰かに見せるなんて以ての外だ。まだ僕の事情を知っている有紀さんだから我慢できるけれど、明日から学校でどんな顔をすれば良いのだろう。また外国人だと言われていじめられるのか。
暗い僕の顔を見て真李が何かを察したのか、僕の気を紛らわすように僕の頭を撫でた。
「あ、明日は一緒に学校に行こうね。私がちゃんと一緒にいるから大丈夫だよ」
真李は、優しい。僕みたいなクソ野郎とは違う。
ちょうどそのとき有紀さんが洗面台のところへやってきた。
「なんか楽しそうな声が聞こえると思ったら篝くん……君は相当なイケメンさんだったんだね」
「そう、かな」
柄にもなく照れてしまったが、じっと僕の瞳を見つめてくる有紀さんが真李にそっくりで二人の血縁関係を今更実感した。
「篝の眼、めっちゃ綺麗でしょ。地球色なんだよ。それも水彩絵具を溶かしたみたいに滲んでるの」
真李が自分のことのように嬉しそうに自慢して見せた。それがほんの少し可愛く思えて、自分で自分に引いた。クソ野郎に好かれてしまっては、あまりにも真李が可哀そうだ。
「本当に綺麗だね。宝石みたいだ。篝くんのルーツは特別だからね」
有紀さんの云う特別は、なんだか良い意味に聞こえてくるから不思議だ。
僕を呪っていた『特別』という言葉は、僕自身から言われたものだったのだと今気づいた。僕だけが可笑しいという呪いも、僕が穢い子だという呪いも、僕が父を不幸にしたという呪いも、どれも僕が僕を縛り付けていたのだ。
他の誰でもなく、僕が僕を赦せなかったのだ。僕自身よ、いつかこんな僕を赦してくれ。
僕が僕を赦せたら、そのとき僕は死にたい。それまではこの呪いと共生しながら、どうにかこうにか生きていく。もしその過程のどこかでこの呪いが解けたならそれこそ幸せだと思うけれど。
「有難う」
僕は二人に礼を言って頭を垂れた。この一晩で僕はこの二人に数え切れないほどの恩を受けた。僕を掬ってくれた。
「ここは僕が片付けておくから、もう二人は歯磨いて寝ちゃいなさい」
有紀さんが玄関から塵取りを持ってくる。二人の側は温かい。まるで本当の家族のように、陽だまりの愛を僕にくれる。
これこそがきっと愛なのだろう。父からしかもらったことがないきらきらとしたもの。
一つ、父と違うことがあるとすれば、それは彼らには僕を愛する理由がないということ。僕を愛しても彼らには何も齎されないということ。父にとって僕は一応息子で、父には僕に愛情をかけて育てる義務があった。でも有紀さんにも真李にも僕を気に掛ける必要はない。有紀さんは父に託された義務があるのかもしれないが、真李には本当に意味がないのだ。
僕を愛しても何も得しないのに。なぜ僕を助けてくれるのだろう。
「何やってんの。早く歯磨きなよ」
口の中で歯ブラシをもごもごしながら真李が言った。さっき着替えと一緒に持ってきた僕の歯磨きセットが洗面台の上に置きっぱなしになっている。歯ブラシを出して歯磨き粉を少しだけ出した。真李と並んで歯を磨きながら、彼女とはほんの数時間前まで話したことがなかったのかと思い返した。
僕の中では人と人との繋がりは、世界で一番説明がつかないことだ。
それと同時に今朝小声で言った『おはよう』が父との最後の会話なのかと自覚した。
もう二度と父の姿は見れない。目を合わすことも、あの不細工な目玉焼きを食べることも、寝る前にわざわざ僕の寝室まで来て『おやすみ』と微笑む彼に『おやすみ』と言い返すことも、もう絵は描かないのかと心配そうに尋ねられることもない。
あれ、いつもどんな声で『おやすみ』と言ってくれていたっけ。どんな顔で、どんな様子で。確かに見てきたはずなのに僕の中の父が崩れていく。僕が忘れたら、父はいなくなってしまう。
掴んでおかなくちゃ。今思い出せる彼を全て思い出して、これ以上忘れないように何度も思い出して、僕の海馬にこれでもかと焼き付けなくちゃ。
僕が生まれてから一七年間も共に過ごしたのに、今朝まで一緒にいたのに、僕の記憶は砂ででき上がっているみたいに毎秒どこかが欠けていく。
ああ、僕の脳はなんて薄情なんだ。
「篝、泣かないでよ」
真李に言われて初めて自分が泣いていることに気がついた。泣くつもりなんてなかった。僕を遺して死ぬような父如きのために誰が涙を流すものかと。どうして僕は泣いているのだ。
「無理もないよ。今日お父さんがいなくなったんだから」
髪を掃き終えた有紀さんが僕の肩を上下に擦ってくれる。
なんて寂しいのだろう。
そうか、僕は寂しいのか。父が僕を置いていったのが腹立たしくて寂しかった。
この胸にぽっかり穴が空いたような虚しい感覚をいつか乗り越えなければいけないのかと思うと気が遠くなりそうだ。僕自身への呪いがまた一つ増えてしまった。
「私たちがいるよ。眠れないならお父さんも私も喜んで一緒に羊を数えるし、消化しきれない思いがあるならいつまでも話を聞くし、篝は一人じゃない。一人じゃないんだよ」
そんなもの嘘だろう。僕には誰もいない。真李の言葉がまやかしに思えた。
このまま泣き続けてたところで、父は帰ってこない。
やっぱり僕は父が大好きだった。今更、哀しい。どこか夢見心地でいたけれど、彼を失ったことを今更現実に感じた。
死ぬという選択。
「いや、今日は一人で寝るよ。有難う」
歯ブラシを片付けて、二回うがいをして、和室に戻った。静かに襖を閉じた。既に敷かれている布団に入って、静かに涙を流した。一度も拭わずに、ただただ頬を濡らし続けた。
もうさっさと寝てしまおう。これが全部悪い嘘だったなら良いのに。
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