第5話 僕の罪

「篝?」

 真李が部屋の襖をノックする。普通のドアとは違う独特な鈍い音がして、僕は我に返った。

「何」

 襖を開けながら唇を舐めて漏れ出た赤い血を拭き取った。

「なんだ。後追い自殺でもしてるのかと思った」

「してないよ」

「でもちょうど『死にたい』とか馬鹿なこと思ってた頃じゃない?」

 真李が僕の左手首を持ち上げて、僕の手の痕を惜しむように撫でた。

「私当たってるじゃん」

 僕は何も言わなかった。

「篝が死んでも篝のお父さんは帰ってこないし、私たちが悲しむだけだよ」

 違う。僕は父が死んだのが辛いから死にたいんじゃない。僕は僕自身を死刑だと思っているだけだ。僕の命こそが一番の罪だから、この罪においての贖罪は死だけだと。

「篝は綺麗だ。篝は穢れてなんかいないよ」

「馬鹿な、僕はクソ野郎だ。真李が悲しむのは勝手だけど、僕の死は償いでしかない」

 真李が僕の左手首を引っ張って抱きしめてくれた。僕よりも二〇センチ以上小さい真李が一生懸命に背伸びをしながら僕の頭と背中を摩ってくれた。

「篝は綺麗なんだよ。周りが篝をちょっと汚しただけ。洗い流せば誰よりも美しいの」

「誰が洗い流してくれるんだ。僕の汚れは何重にもあるんだよ。生まれてくる前からずっと積み重なってきたんだから」

 幼子をあやすように僕を撫でていた真李の手が止まった。

「私が篝を助けてあげる」

 さっきと同じことを言って、ふふ、と笑うのが聞こえた。身長差のせいで真李が笑うと僕の胸のところが息で暖かくなる。

 ただただ真李に抱きしめられたままだった僕はそっと真李を抱きしめ返した。それは抱きしめ返すというよりも、背中に手を当てたようなものだった。

「今は甘えても良いんだよ。いやまあ、いつでも甘えてきて良いんだけどね」

「…有難う」

 僕はそれ以外言わなかった。

「篝はさ、自分のことが嫌いでしょう」

「嫌いじゃないよ。赦せないだけ」

 嫌いではない。それは紛れもない事実だった。どこかで可哀そうな自分を愛していたのかもしれない。何故自分だけがこんなにも苦しまなければならないのだろう。どうして僕だけが変なのだろう。ある意味特異な自分自身が特別で仕方なかったのかもしれない。

「でも篝は悪くないじゃん。篝が生まれてきたのは世間からしてみれば間違いかもしれないけど、篝が生まれてきたのは篝にとっては正解なんだよ」

「そんなわけないだろ。僕は僕が嫌で仕方ない。僕が僕でしか在れないのが嫌で嫌で堪らない」

 僕は何にもなれない。僕はいつまで経っても僕で、僕以外にはなれないのだ。もしも僕ではない誰かになれたのなら、なんて幸せなのだろう。どうにもなれない僕はどうにもできない。

「篝が『何にもなれない』って感じてるのは、きっと篝が自分を殺しているからで、本当は何にだってなれる。嘘じゃないよ」

 いつの間にか俯いていた僕の額を真李のひんやりとした掌が滑って、僕の心の沸騰を優しく抑えるみたいに僕の呼吸を落ち着かせた。不安げに微笑む彼女が僕の滲んだ視界に映り込む。

 何も言えない僕を他所に真李は続ける。僕の姿形を確かめるように真李が僕を撫でる。

「篝に必要な篝火は、篝が燃やすんだよ。私は精々篝火の外の籠にしかなれない。篝を変えられるのは篝以外にいない」

 僕は僕の名前が嫌いだ。篝火の『篝』であることが僕の存在に反しているから。篝火とは夜間の警護や証明のために鉄製の籠の中で焚かれる火のことで、魔除けや厄除けの意味合いから子どもの健やかな成長を願うと云われている。不義の子である僕には不相応な名前だ。僕の命がここにあること自体が、もう既に可笑しいというのに。

 そんな醜い僕の篝火は、照明は、僕自身なのか。

 なんて面白い矛盾だ。僕はいつだって変なのだろう。

「大丈夫。今はまだ火の熾し方すら解らなくても良いの。一人じゃないんだから、私と一緒に迷えば良いの」

 ただでさえ何もできない僕が、真李といるともっとだめになっていくみたいだ。真李が甘やかして赦してくれるから、勝手に僕もこのままで良いと思い込んでしまいそうになる。

 また、僕は僕を庇った。真李が赦してくれるから、仕方なく僕は僕自身を甘やかしていると。真李はこんなにも綺麗なのに、僕が僕を納得させるための理由に汚らしく利用されている。

 僕はやっぱり最低でクソ野郎だ。

 どこまでいっても自分が可愛くてしょうがないのだ。やっぱり僕なんかが生きていても意味などない。

「だめだ」

 このままではいけない。僕が僕を裁かなければいけないのだ。真李ではなく、僕が僕を赦せるようになるまで僕は生きなければいけない。それが僕の罰だ。

 ああ、まだ死ねない。まだ死んではいけない。

「ねえ、僕はどうしたら良い?」

 真李が僕を見上げた。

「とりあえず髪切ろうか」

 僕は美容院で髪を切ったことなどない。今までも自分で切ってきた。瞳がちゃんと隠れる長さを保てるように美容院は避けてきたのだ。

「私で良ければ篝の髪の毛切ろうか?」

「失敗しないなら良いけど」

 天邪鬼な返事をした。

「篝もそうかもしれないけど、今まで美容院に行ったことがないんだよね。だから無駄に技術が磨かれてるの」

 一緒だな、と心の中で答えた。

「もう今切っちゃう?」

 真李はいとも簡単に僕がこれまでの必死に守ってきた鎧を崩していく。でもそれが不思議と心地よくて、いつの間にか僕自身を縛っていた紐がするすると解けていくみたいに僕という人間が曝け出ていた。

「やっちゃおうか」

 僕もすっかり絆されたものだ。

「よっしゃ。それじゃあ洗面台に行こう」

 そう言うが早いか真李は僕の締めた痕の残った左腕を引っ張って鏡の前に連れていった。長い前髪が両目を覆う男がそこには写っていて、その見た目だけでコイツの人生のダイジェストが分かるようだ。苦労せぬように自分を守ってきたという粗筋の似合う男だった。

 それが僕だ。

「私が長さを適当に切るから、後で篝の好きなように整えて」

 洗面台の下の収納から散髪用のハサミを取り出しながら真李が言った。どのくらい切られるのだろう。

 何の合図もなしに真李の綺麗な手に握られたハサミが音を立てながら僕の髪を切り始めた。後ろ側の髪が切られて首筋がすっと涼しくなった。慣れた手つきで僕の前髪も淡々と切っていって、次に目を開けたときには僕の視野を邪魔するものはなくなっていた。

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