第7話 逡巡
翌朝目を覚ますと、そこはやはり向坂宅だった。悪い嘘などではなくて、昨日父は本当に死んだのだ。
布団から起き上がって襖を少し開けて見渡すと、リビングに有紀さんと真李が見えた。洗面所で顔を洗い、軽く歯磨きをしてリビングへ向かう。ダイニングテーブルにトーストと目玉焼き、レタスのサラダが皿に盛られていた。
「おはよう」
有紀さんが僕の父のように穏やかな笑みを浮かべた。次いで真李もおはよう、と言ってくれた。
「おはよう。昨日は有難う」
昨日も言ったけれど、もう一度しっかり四五度腰を曲げてお辞儀をした。
「色々あって大変だったし、これからもたくさん困ることがあるだろうから、せめて暫くは甘えてくれて良いんだよ。君はまだ高校二年生なんだから」
有紀さんがまた僕の頭を撫でてくれる。
いつだって二人の腕は広げられていて、あとは僕がそこに飛び込むだけ。そんなこと簡単にできないけれど。
例えば僕が今日学校へ行ったらこの容姿のせいでいじめられるようになって、その危害が真李にまで及んだら。もし真李をなくしてしまうようなことに繋がってしまったら、僕は有紀さんも真李も二人とも失うことになる。
だから必要以上に関わったらだめだ。もう僕のせいで誰かがいなくなるのは耐えられない。昨日のままの距離でいたら、どこかで二人を傷つけてしまうから。
「有難う。今日だけ真李と学校に行くよ。道を覚えるのは得意だから、明日からは別々にしよう」
二人で登校なんてしたら目立って仕方がない。真李のためにも僕たちは一切関係ないと周りに思わせなければいけないのだ。
「なんで? 明日からも一緒で良いじゃん、同じ家から同じ学校に行くのに」
きょとんとした顔で真李が僕を見る。思わず目を逸らした。やっぱりまだ前髪というフィルターなしで人と目を合わせるのは慣れない。
「真李は人気者だから僕なんかといたら噂されるよ」
噂は、迷惑だ。今までも迷惑してきた。漸く過去の噂の熱りが冷めたのに、また今日から苦しめられるなんてごめんだ。
「言いたい奴には言わせておけば良い。私は気にしない」
真李が昨夜と同じように強い意思を持って僕に言う。
「僕は嫌だね」
素っ気なくそう返した。暫く沈黙が続いたことで、もう何も言われないかと思われたが、どうやら真李は僕をどう説得しようか考えていたらしい。
「いじめてくる奴はいつでもいじめてくるし、優しい奴はどんなときも優しい。助けてくれる奴はいかなるときも助けてくれる」
僕は何も言わなかった。真李が離れてくれないのなら、僕が離れるまでだ。話さなくて良いことは無視だ。
「だから篝と私が一緒にいて噂するような奴は、ネタがあれば誰でも噂するんだよ。そんな奴ら放っておけば良いじゃん」
そんなもの小説か漫画の中だけだ。僕はこのぼろぼろな身体を以て知っている。
僕は相変わらずクソだな。
自分が変なことを言われるのが怖いから、真李を傷つける。最低だ。
前髪を切って見た目は変わっても僕の中身は変わらない。
「ねえ、聞いてる?」
ダイニングテーブルの椅子を引いたところで真李が僕の目の前に屈んだ。有紀さんはただずっとそこで僕たちを見守っている。
「……聞いてる」
僕に選択権などなく、ただ彼女に返答せざるを得なかった。
「じゃあなんで無視するの」
「別に無視してないよ」
僕の晒された瞳をじっと見つめてくる。
「嘘だ。昨日よりもずっと冷たい」
だから何だ。僕なんかのことを気にしてどうなる。
頼むから放っておいてくれよ。いらない火花を真李にも負わせたくないんだよ。僕一人だけならどうとでもなるから近づかないでくれ。
そう大声で叫びたかった。
「朝型じゃないんだ。遅刻するからやっぱり先に行きなよ」
適当な理由をつけた。なるべく傷つけずに穏便に距離を置きたい。僕は真李から目線を外して椅子に腰掛けた。小さくいただきます、と言ってから朝ごはんを食べた。
目玉焼きの形は、綺麗だった。
父が作った目玉焼きは黄身が割れて、でも必死に成形しようとしたのか最早スクランブルエッグのようなものができ上がっていた。父はいつも恥ずかしそうにそれを僕に差し出した。一度も美味しいと言えなかったのを今では酷く後悔している。
真李は諦めてリュックを取りに自室へ戻って行った。が、諦めてはいなかったようで鞄を持って僕の向かい側に座った。
「まだ八時前だし間に合うもん」
黙々と食べる僕を真李は眺め続けた。意外にも彼女は中々強情だ。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
僕は有紀さんと真李に礼を言って食器を洗い始めた。できるだけぴかぴかにしてタオルで拭いた。
「これどこに仕舞えば良い?」
あえて真李の方は見ずに有紀さんに尋ねた。有紀さんは僕の考えを見透かして、
「真李はもう学校に行きなさい。遅れるよ」
と言った。有紀さんの顔は至って真面目だったおかげか、真李は文句一つ言わずに家を出た。
「食器はこっちの棚に仕舞ってくれたら助かるよ」
有紀さんが冷蔵庫の隣にある棚の扉を開けた。
「篝くんが何を考えてるか、当ててみても良いかな」
食器を仕舞いながら有紀さんが僕に言う。表情は見えないけれど、声は穏やかだった。
「君は自分の見た目のせいで真李が嫌な目に遭うんじゃないかと思ってるだろう。だから距離を図ろうとしてるんじゃないか?」
そう言い終えて有紀さんは僕を見上げる。
「僕は人を幸せにできたことがない。僕自身のことも苦しめ続けてきた。真李にはそうなってほしくない」
「篝くんは不器用で優しいね。お父さんにそっくりだ」
そっくりなんて言葉は死んでも言ってはいけない。父は純真だけど僕は穢い。
「優しくないんだよ。僕は僕のためになることしかしない。もう誰かが苦しむのを見るのはうんざりなんだ。僕が真李の落ち込む姿を見たくないから離れる。僕は慣れてるし、諦めてるから」
強がりだ。傷つくことも苦しむことも数えきれないほど経験してきたのに、いつまでも慣れない。いつまでもしんどいし辛い。けれど、こんな馬鹿げていることでも信じていないとまともに立っていられない。
ふと時計を見上げると時刻は既に八時一五分だった。ここから高校までは少なくとも歩いて一五分。朝礼は八時四五分だから、あと一〇分くらいは平気か。最悪の場合は走れば間に合う。
「真李も色々あったんだよ。篝くんとは分かり合えると思うけどね」
「でもこれから先僕のせいでまた悩むことになったら嫌でしょ」
僕は有紀さんから目を逸らした。
「まだ分からないだろう。やってみないと分からない。真李ともう一度話してみてよ、あの子をそんなに弱い子に育てた覚えはないからさ」
有紀さんが立ち上がって僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。僕の外国人のような髪を躊躇うことなく触ってくるのは父と有紀さんと真李だけだろう。少しパーマがかかったような僕の細い髪の毛が日本人とは異なる遺伝子を持っていることを再確認させてくる。
「大丈夫だよ。ほら、学校行っておいで。嫌なことがあったらすぐに電話してきて良いからね、駆けつけるから」
僕に優しく微笑む有紀さんの方がよっぽど父に似ていた。
「じゃあ…行ってきます」
彼に一礼してリュックを背負った。いつもと同じ重さのリュックなのに、どこか昨日よりも重たい。進まない步を無理矢理進めて僕は家を出た。
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