第4話 鯨
もしも真李を動物に喩えるならば、彼女は鯨だろう。
鯨は慈愛の象徴とされていて、何も見返りを求めないと云う。彼らは海を雄大に泳ぎ回り、生命の強さを訴えかけている。
真李のように他者を純粋に理解し、相手の最大限を出せるように何も惜しまず手を貸してくれる姿は正に鯨のようだ。
彼女は素で鯨になれるのだから、心底羨ましい。
「本当だよ。私が篝の宝石を磨いてあげる。何かあったら駆けつけるし、何もなくても傍にいてあげる」
僕の頬を温めていた真李の手が僕の目元へ戻って、僕の目の周りを囲むように擦った。不思議と瞳をじっと覗かれるのを不快に感じなかった。僕自身でも見たくない瞳を真李は愛おしそうに見つめる。僕の姿をただ眺められる彼女が妬ましいとまで思った。
暫く無言でいた僕らの沈黙を破ったのは帰宅した有紀さんの足音だった。
「ただいま、二人とも」
有紀さんがコートを丁寧に畳んでリビングの椅子にかけた。
「早かったね」
元の姿勢に戻って何事もなかったかのように真李が言った。
「今日は難しいことは何もしてないからね。ほとんどのことは明日やるから」
「何から何まで有難うございます。僕には何もできない」
有紀さんが僕の頭を優しく撫でて、
「良いんだよ。それが普通さ」
有紀さんにとっても父は友人だったろうに、僕を安心させようと微笑んだ。彼は強い。
それに比べて僕はどうだ。
傷ついた有紀さんの優しさに甘え、真李の純粋な温もりに溺れ、父の死に身勝手な怒りを覚え、自分では何もしない。ただ自分を守るために他人を遠ざけようとするだけ。
なんてクソ野郎なんだ。
初めから解っていたけれど、自分の無価値さに嫌気が差す。
「課題終わったなら早く寝なよ」
真李がこちらも見ずに言った。
「そうだね。今日は疲れただろう」
僕が動けずに立っていると、見兼ねた有紀さんが僕の肩を抱いて、
「ね、布団敷いてあるから」
と促した。有紀さんに支えられながら、今日から自室となった和室へ向かう。
「落ち着いたら歯磨きしてすぐ寝るんだよ」
有紀さんが僕のリュックと課題をリビングから運んできてくれた。そしてコップにミネラルウォーターを注いで、部屋の中のちゃぶ台に置いた。
自分の目に溜まった涙に気がつかない振りをしながら、僕は有紀さんに一礼する。有紀さんは何も言わずにそっと襖を閉めてくれた。薄暗い部屋で再度父の死を実感して、涙が零れ落ちた。
僕は父が嫌いだ。
あの人は僕を置いて逝ったのだから。僕は父が大嫌いだ。
否、大好きだった。
僕とは似ても似つかないあの穏やかな笑顔も、優しい声色も、少しだけ寂しそうな瞳も、大きな腕も、やはり大好きだった。
今だって、昔のように抱きしめて欲しかった。
違うよ、父さん。死ぬべきだったのは僕だ。僕は本当は生まれてきてはいけなかったのだから。僕は穢い子だから。僕が父さんのことを苦しめていたのだから。
僕が生きているから、父は死んだ。僕と引き換えだったのだ。
ごめんなさい。僕は生きていて、父は死んで、僕には何もなくなった。僕はこの重い罪を償わなければいけない。
クソ。死にたい。
クソ、クソ、クソ。僕なんか死ねば良い。
己の左手首を右手で力いっぱいにぎしぎしと掴みながら、下唇を鉄分の味がするまで噛み締める。手首で血流が止められた左手が青白く力なくぶら下がっている。このまま全身の血流が止められれば、心臓さえ止まってしまえば死ねるのに。
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