第3話 僕
シャワーの温度をわざと温くして、自分の頭の中を飽和させるように時間をかけて身体を温めた。たくさんの荷物を持って向坂宅へ移動していたときは不思議と汗はかかなかったのに、今になってどっと汗が吹き出してきた。父の死からの冷や汗なのか、お風呂に浸かっているせいなのか分からないのが唯一の救いだ。目も頭も冴えているし、何をするべきなのかも分かるのに、僕の身体は硬直したまま動けない。
僕は温ま湯に当たりながら、現実をまざまざと思い知らされていた。
父は死んだ。彼は僕ではなく、自殺を選んだ。
それだけが僕に残った事実だった。長い夢を見ていたと信じたかったが、僕を温め続けるシャワーのお湯がそうではないと訴えるようで居心地が悪かった。だから適当に身体を洗って、すぐにお風呂から上がる。
真李がそっと置いといてくれただろうタオルを手に取って、彼女の不器用な優しさを体感した。彼女も僕のように、言葉が足りない。
脱衣所にある洗面台の鏡に映る僕の姿を見て強い拒絶感を覚える。
薄い栗色の髪に、青緑とヘーゼルが混ざった瞳。欧米らしい不健康な白い肌と日本人離れした顔立ち。両親の遺伝子よりも、間男の遺伝子を強く引き継いだ自分自身の外見には反吐が出る。
本来なら親の愛の証だのと言われる子供の見た目がどちらの親にも似ていないなんて気味が悪い。
吐きそうになりながら鏡から目を背け、部屋着に着替えた。リビングへ戻ると真李がダイニングテーブルの上に課題を広げていた。
「温まった?」
真李はこちらを見向きもせずに尋ねてくる。
「うん」
さっき有紀さんが椅子の上に置いてくれたリュックサックから僕も課題を出して広げた。
「分かんないところあったら聞いて。私も聞くし」
やはり真李の目は課題に向けられているが、気を遣ってくれているのを感じる。
「分かった。でも僕そんなに頭良くないから、頼りにならないかも」
「良いよ。課題やるだけマシじゃん」
真李の声は静かだけれど、どこか冷たいけれど、優しい気がした。両親の喧嘩する声よりも、父の呆れて笑う声よりも、クラスメイトの奇異の声よりも真李は丸くて優しい。
カリカリとシャーペンの芯が紙と擦れる音だけが家の中に響き渡る。僕たちは言葉を交わすどころか目線すら合わさなかった。それが良かったのだ。
暫くして、真李が僕の目の前にプリンとスプーンを置いてくれた。驚いて顔を上げると、自分のプリンの蓋を開けながら真李が不思議そうに僕を見つめ返してきた。
「良いの?」
僕が尋ねると、愚問だとでも言うように、
「じゃなきゃあげないでしょ」
と呟いて視線を課題へと戻した。真李と過ごすのは心地良い。彼女は嘘を吐かないし、全てがはっきりしていて気が楽だ。
「……有難う」
プリンの蓋を捲るとツヤツヤしたカスタード色が覗いた。底にキャラメルが沈んでいて、僕はわくわくしながらスプーンで掬った。スプーンの上に山のような形で乗っているプリンが美味しそうに輝いていた。そっと口に運び入れると、僕のよく知るプリンの卵と生クリームの混ざった円やかな味が広がる。仄かにバニラの香りがする、コンビニに並んでいたらお高い方のプリンの味だった。
プリンなんて小学生の頃に母が手作りしてくれた以来だ。母は料理だけはどうにもポンコツで、彼女が唯一作れるのはプリンだった。母のプリンは絶品で、何故他の料理はできないのか可笑しいほどに美味しかった。そのせいで父はプリンを見たくもなくなってしまい、我が家の冷蔵庫にプリンがあることは一度たりともなかったのだ。
「美味しそうに食べるね」
空になったプリンをゴミ箱へ捨てながら真李が言う。
「プリンなんて何年振りか分からないから。久しぶりの美味さに腹が喜んでるんだよ」
「変な奴」
真李は少しだけ口元を綻ばせながら椅子へ腰掛けた。
真李は知らないだろう、僕がどれだけ変な奴かなんて。僕は死んだ鯨になって誰かに喰われる方が良いと思っているようなクソ野郎だ。
僕がどんな奴なのか知ったら彼女はどうするのだろう。彼女も僕を見捨てるのだろうか。
まあ良いや。そんな日は来ない。僕が僕を曝け出す日は来ないのだから、幻滅もされない。それで良い。
今日、父が自殺したとは思えないほど僕が冷静でいられるのはきっと真李や有紀さんが落ち着いているからだと思う。
プリンを味わいながら食べ切り、ふと自分の瞳が髪の隙間から見えていることに気がついて慌てて隠す。気持ち悪いこの瞳が見えないように。
「なんで隠してんの? 学校でも重い前髪で隠してさ」
真李が純粋に聞いてくる。
「なんでも良いだろ」
流石に踏み込み過ぎだと思った僕は冷たく言い放った。
「別に良いけど、せっかく綺麗な色なのに勿体ない」
今まで色々な人に散々なことを言われていたこの眼を真李は綺麗だと迷うことなく言ってみせた。
「勿体ないってなんだよ」
「髪もふわふわで羨ましいのに髪型が隠キャっぽくてダサいし」
それは余計なお世話だ。
「時々窓際で風が吹く度に一瞬だけ見えるガラスみたいにきらきらした瞳も」
真李が僕の顔へ手を伸ばして視界を広げるように前髪を避けた。親の嘘ばかりが詰まった青緑色の瞳がリビングの空気に晒される。
「青と緑とヘーゼル色。篝だけの水彩絵の具を滲ませたような色。世界中の色を集めて探しても見つからないくらい、特別に綺麗な色」
僕は何も言えないまま、ただ真李の思うままにされていた。瞬きするときにちらつく栗色の睫毛が邪魔で仕方がなかった。何故僕の身体は変なのだろう。どこもかしこも、誰にも似ていない。僕だけが、可笑しいのだ。
「本当に勿体ない。誰もが惚れるはずなのに、篝が隠すから」
真李の滑らかな指が僕の輪郭を擦った。僕の存在を確かめるように、するすると僕の頬を彼女の手が滑ってゆく。
「……怖いんだよ。どうして僕だけ違うのか聞かれるのが」
僕は真李から目を逸らして独り言みたいに弱音を吐いた。
「もし嫌なことがあったら私が助けてあげる。だから篝だけのものを堂々と見せつけよう」
ぶっきらぼうに僕を撫でる真李が初めて僕に微笑んだ。彼女が顔を綻ばせるのは学校でも見ない。
「本当に?」
僕は無意識に真李に絆されていた。誰も信じないと心に決めたはずなのに、まるでそう誓ったのが嘘かのように真李は僕の中へ入り込んできたのだ。
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