第2話 居候
夕方五時に学ラン姿で大荷物を抱えながら歩く僕は、周りから見たら家出した反抗期の息子にでも見えているのだろうか。
———————すみませんが違います。実は僕のたった一人の家族である父が自殺しまして、遺言通り警察にすら通報せずに知らない人のお宅へ向かっているところです。
なんてことを言えば誰か助けてくれるのか? 父は帰ってくるのか?
馬鹿々々しい。死んだ人間が、ましてや自殺した人間など帰ってくるわけもないし、帰ってきたところでまた自害を選んで終わりだ。
時折携帯電話に表示されている地図と睨めっこしながら雑踏に一五分ほど揉まれていると、紀良マンションと書かれた古そうな看板が見えてきた。無事辿り着けたことに安堵するのも束の間、マンションの何号室か聞きそびれた僕は再び向坂さんに電話をかける。やはり向坂さんは電話をすぐに取ってくれた。
「もしもし、伊月篝です。紀良マンションに着きました」
『早いね。今エントランスへ行くから少し待ってね』
「有難うございます」
今度こそお礼を言ってから早坂さんとの電話を切り、マンションの窓で少しだけ身だしなみを整える。数分もしないうちに向坂さんと思しき男性が小さなエレベーターから降りてきた。
「お待たせ。重いだろう、荷物持つよ」
大きくて少し傷のある手が僕の目の前へ差し出された。
「すみません、助かります」
本当に重いボストンバッグを持たせるのはさすがに気が引けてしまって、僕は教科書しか入っていない高校で使っているリュックサックを肩から降ろして向坂さんに渡した。
彼は一瞬戸惑う素振りを見せてから、にこっと微笑んで受け取った。
「それじゃあ行こうか」
僕たちはエレベーターに乗り込んだ。
「この度は父がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
僕がお辞儀をすると、またもや困った表情をして彼は口を開いた。
「君は君の心配だけしなさい。篝くんは何も悪いことはしていないから、謝るのも今ので最後にしようか。これから一緒に暮らすのに気を遣ってばかりいたら疲れてしまうからね」
これからお世話になるからこそ気を遣うものだと思ったけれど、どうやら彼はそう考えないらしい。
「……はい。有難うございます」
僕がもう一度頭を下げたのとほぼ同時にエレベーターの扉が音を立てて開いた。
「僕たちの部屋は三〇六号室だよ。高校からは娘と一緒に帰ってきてくれたら良いからね」
「……娘さん、とは……?」
向坂さんはとても若そうだったので、彼の口から娘と言われることは想定していなかった。さらに同じ高校と言うではないか。
「同じクラスだと娘に聞いたが、知らないか? 向坂真李というんだが」
僕は自分の耳を疑った。その名前を知らないわけがなかった。向坂真李といえば、高校全体の中でもダントツに可愛いと有名な高嶺の花だ。そんな人と登下校したら周りからどう思われるか、阿呆でも分かる。
「知ってます。高校では可愛らしいと有名ですね」
「そうなのか。篝くんはどう思う?」
僕はほとんど人と関わりを持ってこなかった。それは高校でもそうで、本当に誰とも話したことがなければ恐らく僕の存在の認知すらされていないと思う。逆に向坂真李に僕という人間が知られていたことの方が驚きだ。恥ずかしながら、僕は彼女の独り歩きした噂以外、何も知らない。
「僕は娘さんの容姿も性格も知らないんです。なので今は何とも言えません」
嘘を伝えるわけにもいかない僕は、正直にそう言った。すると、向坂さんは小さく声を上げながら笑った。
「君は優しいね」
僕には似合わないお世辞を言われて僕は申し訳なくなった。向坂さんが三〇六号室で立ち止まって鍵穴に鍵を挿しながら、いらっしゃい、と落ち着いた笑みを浮かべる。
「お邪魔します」
玄関に上がる前に軽く一礼してから、靴を脱いだ。
「お父さんおかえり」
部屋着姿の向坂真李がひょっこりとリビングから顔を出して、無表情のまま手を振ってくれた。
「伊月くんもおかえり」
彼女も僕が来ることは事前に知っていたようだ。また少し居たたまれないような、何処か気が休まないような、罪悪感が押し寄せる。
「ただいま、真李」
向坂さんは向坂真李の方を向いてそう言ってから僕の方へ向き直して、
「あ、そうだ。我が家も母親がいない家だから、気を楽にしてね。敬語もなしだ」
と何かとても簡単なことを告げるかのようにさらっと言った。向坂真李はもうリビングにはいなかった。水の音がしたからきっと彼女は洗面所にいるのだろう。
「それから家では名字じゃなくて下の名前で呼んでくれると助かるな。二人とも『向坂』だから」
向坂さんは僕のリュックサックを椅子の上にそっと置いて、冷蔵庫からお茶を出してくれた。
「有難うございます。向坂さんのお名前、教えていただいても良いですか」
「そっか、まだ言ってなかったね。初めまして、向坂有紀です」
「初めまして、有紀さん」
そう言いながら僕たちは会釈し合った。
「私は真李。同じクラスだよ、よろしく」
洗面所で手を洗う真李の声がした。
「知ってる。僕は篝、よろしく」
「これから篝くんの部屋になる場所に案内するね」
有紀さんが優しそうな顔をして僕の前に立ち、僕と目が合うと廊下をすたすたと歩いた。木製の引き戸の前で立ち止まると、引き戸をがらりと開けた。引き戸の向こうは落ち着いた和室で敷布団が既に準備されており、その横にあるちゃぶ台の上にはティッシュの箱と電気が置いてあった。
「この部屋を使って。それから、篝くんのお父さんのことは僕がやっておくからね、お風呂でも入って温まっておいで」
そう言うが早いか、有紀さんは玄関でコートを直してから靴を履いた。きっと僕の家へ行って父の面倒を見に行くのだろう。
有紀さんには本当に迷惑ばかり掛けていて、申し訳ないとは思いつつも僕の疲弊感が僕の足を引き留めた。
「気にしなくて良いよ。篝くんは悪くないから」
引き摺る僕の足に気づいたのか、有紀さんは微笑んだ。僕が何も言えないまま頭を下げると、玄関の扉が開く音が聞こえてきて、彼が家を出たことを察する。
「お風呂沸いてるから早く入ってくれば」
リビングから真李の声がした。どうにも取っ付き難い彼女と同じ家に住むなんて大丈夫なのだろうか。
「有難う」
彼女にお礼だけ言うと、僕は部屋着を抱えて脱衣所へ向かった。真李は僕が風呂場へ行くのを見ただけで、何も言わなかった。
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