第1話 空白

 いつしか僕は「嫌い」を「好き」とすり替えていた。

 昔から僕はこのだだっ広い世界が大好きで、ちっぽけで何もできない可哀想な自分が大嫌いだった。

 もう自分では気が付かぬうちに、嘘しか言えなくなっていた。

 僕の全ては嘘ででき上がっている。僕は僕自身の偽物だ。


 小学生の頃、両親が離婚してからというもの、僕は父に育てられた。子供の僕から見ても、父は男の片親ながらもよく頑張っていたと思う。僕が母親の不在に寂しさを感じないように仕事を早く切り上げてくれたり、休日に遊びに連れ出してくれたり、誕生日にはプレゼントも贈ってくれたり、父は僕よりもずっと大変だったはずなのに頑張ってくれていた。きっと父はあまりの必死さに自分自身の寂しさやしんどさを省みる余裕が足りていなかった。僕のことを大切にしていたのは本当だと思うけれど、恐らく彼は自分の頑張る理由を僕だと勘違いしていたのだと思う。

 だから、こんなにも呆気なく僕を捨てて一人で勝手に死んだのだろう。

 適当な紙に、乱雑な文字で遺書を書き上げて、深夜テンションのような軽率さで死を選択したのだ。

 そうに違いない。

 父の最期の言葉は、

「篝、ごめんな。愛してる。お前の面倒はお父さんの幼馴染の向坂に頼んでおいた。これを読んだら荷造りを済ませてすぐに向坂の家へ行きなさい。警察はそのあとで良いから。お前のお母さんにも知らせなくて良いから」

 だった。最高に詰まらなかった。

 文章の下の方に向坂という奴の電話番号が小さく汚い字で書かれていた。

 もう最悪だ。

 面倒なことだけ僕に残して、勝手に自分は楽になりやがって。自分が死んだあとの僕のことを心配する振りをしながら、実際は他人に丸投げして自分は死ぬだけ。怒りすら湧いてこない。宙に浮かんだ父の死体が目の前にあるというのに、自分のあまりの冷静さに嫌悪感さえ抱いていた。

 僕は無感情でそれを読み終えて、帰宅してからまだ脱いでもいない学ランの内ポケットに入れっぱなしの携帯電話を取り出した。皮肉にも父以外の誰かに電話をかけるのが初めてだったのが笑えてくるほどに僕はこの数瞬で憔悴しきっていた。

 番号を間違えていないか何度も遺書と携帯電話を交互に見て、発信ボタンを押した。発信音は思っていたよりも随分と早くに切れ、すぐにぷつっと電話を取る音がした。

『はい、もしもし』

 気さくそうな低くて穏やかな声が電話越しに聞こえた。

「僕、伊月篝と云います。向坂さんですか」

『ああ、篝くんだね。今から住所を言うからメモ取れる?』

 電話をスピーカー設定に変更してからダイニングテーブルの上に置かれたメモ帳とシャーペンを手に取り、

「用意できました」

 と伝えた。

『それじゃあ言うよ。春井市草野町四の二の三、紀良マンション』

 向坂さんの口から溢れる音を一言一句メモに書き込んだ。

『書けたかな』

「書けました」

『そっか、良かった。何もしなくて良いから、荷造りが済んだらゆっくり向かっておいで』

 微笑んでいるのが声だけも伝わってくるような落ち着きで向坂さんは電話を切った。

「有難うございます」

 もう電話は繋がっていないと分かってはいても、礼を言わなければいけないと思った。情けないけれど、やはり僕は強がっていただけで自分の手はがくがくと震えていたからだ。間違いなく向坂さんの一言がなければ僕は立ち尽くしたままだったろう。

 元から僕には物欲があまりないので、荷造りすると言っても荷物は少なかった。まるでこの悪夢がやってくると知っていたかのようだ。一〇分ほどでボストンバッグに物を詰め終え、簡単に家の中を片づけた。高校の荷物を入れているだけのリュックサックを背負い直して僕は自室を後にした。向坂さんに電話をかけたっきり、ちゃぶ台の上に放っておいたままの父の遺書を一瞥して、学ランのポケットに三等分にして折りたたんで仕舞い込む。

 今年の夏から僕の部屋の隅に置いてあるだけのキャンバスとイーゼルは部屋に放ってきた。使う機会も練習する場もないだろうし、そもそも僕はもう描くのをやめてしまった。もう見るのも辛いくらいだ。

 必要最低限の荷物を持って僕は玄関のドアノブに手をかけて、外へ出た。一応戸締りだけしっかりして、家の鍵をリュックサックの小さなポケットに入れてチャックを閉めた。冬とはいえまだ本格的に寒くなってきていないのが不幸中の幸いだ。今から徒歩で向坂さんの家を探さなければいけないのだから。

 携帯電話の地図アプリを起動して向坂さんの住所を打った。携帯電話は数秒間ロードして、滑らかな動作で画鋲マークが何処かを指した。そのまま経路ボタンをタップして僕は歩き始めた。

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