第36話 倒れたのは英雄ではなく、人だった

 夜の桜精院は、数字の音がする。


 紙の擦れる音、ペン先の引っかかる音、インク壺の蓋がかすかに鳴る音。

 窓の外では水路の舟が底を軽く叩き、遠くの見張り台で笛が四拍を刻んでいる。


 広い講堂ではなく、その横の小さな部屋。

 ユーマは机に肘をつき、二つの台帳を並べていた。


 一冊は《森緩衝帯基金台帳》。

 一冊は《六大局給金・安全手当台帳》。


 数字はすでに埋められている。

 今日は、その「先」の数字――三ヶ月後、半年後、一年後の見通しを、仮ではなく「街としての約束」に変える作業だった。


(森緩衝帯基金、初年度積立予定……)


 ペン先が走る。

 森側の開拓で新しく生まれる税。水産市場の取引税。木材加工と香油の販売。

 そこから福祉医療局の支出、治安防衛局の装備更新費を差し引き、残った分を緩衝帯基金に落とす。


 数字は辛うじて黒だ。

 だが、少しでも雨続きや不漁が重なれば、すぐに赤へ傾く。


(ここで、どこまで“遊び”を許すか、だよな)


 祭り。音楽。小さな劇団。子どもたちの本。

 「スローライフ」なんて穏やかな言葉の裏側には、実際は膨大な調整と、微妙な配分が並んでいる。


 インクがかすれ、手が止まった。

 ペンを置くと、指がかすかに震えていた。力が入りすぎていたのか、ペンだこがひりつく。


「……あと三枚だけ」


 誰もいない部屋で、声に出して自分に言い聞かせる。

 森編の最中、一睡もせずに数字と格闘した夜を思い出し、苦笑した。


(あの頃に比べれば、今日は“希望の数字”を見ているだけ……の、はずなんだけど)


 視界の端がじんわりと滲んだ。

 インクの黒と紙の白が、薄い灰色に混ざる。


 瞬きを一度、二度。

 目薬代わりに、ぐっと顔をこする。


 扉の向こうで、衣擦れの音がしたかと思うと、控えめなノックがあった。


「入っていい?」


「どうぞ」


 扉の隙間から顔を覗かせたのは、リナだった。

 白衣の袖をまくり、髪をひとつに結っている。診療院から直接上がってきたらしい。


「……まだ起きてると思った」


「まだ、もう、どっちの時間だろう」


 窓の外を見やる。

 水路の灯は落ち、見張り台だけが静かに灯っている。

 夜と朝の境目。街全体が息を潜めている時間だ。


「顔色、悪いわよ」


「リナにそれ言われると、ちょっと傷つくな」


 冗談めかして返すと、リナはため息を吐いた。


「冗談言えるうちはまだマシね。……でも、限度はあるわよ」


 彼女は机の上の台帳にちらりと目をやる。


「今日は、どれくらい寝たの?」


「……えっと」


 言葉に詰まる。

 数えようとして、やめた。

 数えられないくらい分散している時点で、すでにおかしいとわかっているからだ。


「三日前から診てるけどね」


 リナはじっとユーマを見た。

 診療院で患者の状態を見極めるときの、あの目だ。


「食事は抜く。水は後回し。眠りは机の上で“ちょっとだけ”。

 魔力の使い過ぎもある。授業で板いっぱいに魔術式を書いて、そのまま次の会議で防災結界の計画立てて……」


「仕事、だから」


「街が死ぬ前に、あなたが死ぬわよ」


 静かな声だった。

 怒鳴られるより、そのほうが堪える。


 ユーマは視線を落とした。

 台帳の端に、小さく書き込まれた文字が目に入る。


『六大局制――負担を分けるための仕組み』


 自分で書いた言葉だ。


「……大丈夫だよ」


 口をついて出た言葉に、自分でうんざりする。

 それでも、習慣のように続けてしまう。


「今日、ここまで片付けたら、ちゃんと寝る。森編のときに比べれば、まだ余裕は――」


「森編のときに死んでないからって、今回も大丈夫だと思わないで」


 リナは歩み寄り、ユーマの額に手を当てた。


「熱は……微妙ね。高くはないけど、低くもない。

 体、ずっと“防衛モード”のままよ。いつ崩れてもおかしくない」


「崩れたら、リナが直して」


「直せないこともあるのよ」


 一瞬、言葉が止まった。

 診療院で失った命のことを、リナもまた抱えている。


「……明日、午前中の授業は?」


「下級生に読み書き計算。午後は六大局の調整会議と、森緩衝帯の委員会と……ええと」


 指折り数えようとして、途中でやめた。

 自分でも馬鹿げているとわかる量だ。


「午前の授業、代わりに若い先生を入れて。

 午後の会議はノエルに段取りを任せる。

 あなたは“休む”っていう仕事をしなさい」


「……休むのは、仕事じゃないだろ」


「仕事よ。街の頭が壊れたら、全局まとめてパンクするんだから」


 リナはきっぱりと言い切った。


「約束して。

 明日、午前中は――」


「……考えておく」


「約束になってないじゃない!」


 声を荒げかけ、リナは深呼吸して言い直した。


「……いいわ。じゃあ“選択肢”を増やしてあげる。

 明日の午前中、あんたがちゃんと休んでなかったら――」


「なかったら?」


「診療院前にベッドを出して、街中に“過労で倒れた馬鹿局長はこちらです”って札を立てる」


「やめて」


 本気でやりそうな顔をしている。

 ユーマは慌てて手を振り、苦笑した。


「……考えておく、じゃなくて、ちゃんと調整する」


「最初からそう言いなさい」


 リナはふっと微笑んだ。


「倒れたら、怒るからね」


 そう言い残し、部屋を出て行った。

 扉が閉まり、静けさが戻る。


 ユーマは机に額をつけ、短く息を吐いた。


(……明日の朝、子どもたちの顔を見てから決めよう)


 それは「決める」とは言わない。

 わかっていながら、彼は紙をもう一枚、手元に引き寄せた。



 翌朝の桜精院は、いつも通り賑やかだった。


「先生、おはよう!」


「おはようございます!」


 教室の扉を開けた途端、子どもたちの声が飛んでくる。

 黒板の前に立つと、ユーマは自然と笑みを浮かべた。


「おはよう。――今日は、まず“森の約束”から確認しようか」


 子どもたちの瞳が、一斉に輝く。

 森編の話は、彼らにとってほとんど伝説だ。

 森の主と話をし、街を守り、桜の帯を作る――それは英雄譚のように聞こえるのだろう。


 黒板に簡単な地図を描く。

 サクラリーヴ、森、桜の帯。


「ここからここまでが保護林。ここからここまでが開拓地。

 じゃあ、森に入るときの約束を言ってみて」


「二人以上で行く!」


「昼のあいだだけ!」


「桜盾か冒険者ギルドに行き先を言う!」


「戻ったら必ず報告!」


 声が重なる。

 ユーマは頷き、一人一人の顔を確認した。


「いいね。――これは、“大人になっても忘れないでほしい約束”だ」


 チョークを置こうとして、一瞬、指先が滑った。

 白い粉が床に散る。

 「あれ?」と自分でも思うくらい、握力が抜けていた。


 教室の窓から、朝の光が差しこんでいる。

 いつもより少し眩しい。


(……寝不足、かな)


 額の奥は重い。

 喉は少し渇いている。

 それでも、言葉は途切れずに出てくる。


「じゃあ次は、計算のおさらい。昨日出した“魚市場の問題”覚えてる?」


「覚えてるー!」


「三十匹の魚が――」


 声が重なり、ユーマはそれを手で制した。


「はいはい、全員一斉に言ったらわからない。

 一人ずつ順番にね」


 黒板の端に簡単な式を書いていく。

 数字は、普段ならするすると頭に入ってくる。


 今日は、少しだけ引っかかった。


(……三十匹に二枚銀。十匹売れ残る場合……あれ、何だっけ)


 思考に、薄い霧がかかったような感覚。

 それでも、口は勝手に動く。


「じゃあまず、この式を――」


 チョークを走らせようとした瞬間、視界の端で何かが揺れた。


 教室の隅。

 窓枠。

 子どもたちの顔。


 すべてが、ぐにゃり、と歪んで見えた。


 足元の感覚が薄れる。

 床が遠くなる。

 耳の奥で、水の中に潜ったときのような、ぼうっとした音がした。


「せん、せい?」


 誰かの声。

 ユーマは笑おうとした。


「大丈――」


 言い終える前に、膝が抜けた。


 派手な音はしなかった。

 椅子が倒れるよりも静かに、ユーマの体は前へ、ゆっくりと崩れ落ちた。


 チョークが、黒板から離れて床を転がる。

 白い線が中途半端に途切れた。



「先生!」


「先生が!」


 教室がざわめきに包まれる。

 最前列の生徒が慌てて駆け寄ろうとしたそのとき、廊下を駆ける足音がした。


「どいて!」


 ドアが勢いよく開き、リナが飛び込んできた。

 誰かがすでに診療院に走っていたのだろう。


 リナは倒れたユーマの体勢を整え、脈を取り、瞳孔を確認する。

 顔にはいつもの穏やかさはなく、短く鋭い動きだけがあった。


「意識、反応薄い。――でも、まだ大丈夫」


 子どもたちの顔が青ざめていく。


「先生、死んじゃうの……?」


「死なない」


 リナはきっぱりと言った。


「死なせない。でも、このままだと“壊れる”。

 だから今から運ぶわ。皆は廊下に出て先生の邪魔をしないこと。いい?」


 子どもたちは押し黙り、ぎゅっと唇を噛んだ。

 泣き出す子もいたが、誰も騒がなかった。


 廊下の向こうから、重い足音。

 ガルドとネスが担架を抱えて走ってくる。


「ユーマが――?」


「授業中に倒れた。過労と魔力消耗が重なってるわ。

 診療院まで、揺らさないで運んで」


 ガルドは呻くように短く頷き、ユーマを担架へ移す。

 ネスは子どもたちを廊下の端に下がらせた。


「先生、がんばれ……!」


 誰かが呟き、他の子どもたちも小さく両手を合わせる。

 四拍の祈りを、中途半端な拍で真似する子もいた。


 担架が廊下を進む。

 桜精院の外へ出ると、見張り台の笛が遠くで短く鳴った。



 診療院の一室。

 ユーマは白い天井を見ていた。


 しばらく前から、ぼんやりと意識は浮かんだり沈んだりしていた。

 耳元で水の音がして、誰かが脈を図り、誰かが包帯と瓶の蓋をいじる音がする。


「――起きた?」


 声のほうへ顔を向けると、リナがいた。

 腕を組み、いつもよりずっと鋭い目でこちらを見ている。


「……おはよう?」


「おはよう、じゃない」


 リナは冷たい声で言った。


「倒れたわよ。教室で。

 子どもたちの前で、静かにかっこつけて崩れ落ちた」


「かっこつけてたつもりは……」


 言いかけて、喉がからからなことに気づく。

 リナが水差しを持ってきて、少しずつ飲ませてくれる。


 水が喉を通るたび、胃のあたりが重く波打った。


「診断、聞く?」


「優しい言い方希望で」


「無理」


 リナは淡々と言った。


「睡眠不足、栄養不足、魔力消耗過多。

 それから、森編の時から続いている慢性的な緊張状態。

 要するに――」


 一拍置いて。


「あなた、死ぬつもり?」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


「そ、そんなつもりは」


「結果としてそういう走り方してたの。自覚は?」


「仕事が、あったから……」


「だから? 街が燃えるのと、あなたが燃え尽きるの、どっちが先なら満足?」


 言葉が出ない。

 胸の奥のどこかが痛いのに、それをうまく言葉にできない。


 リナは少し息をつき、声を落とした。


「森編の時、みんな死ぬほど怖かった。

 今度こそ、この街が全部飲み込まれるんじゃないかって。

 あなたはあのとき、前に立って、全部受け止めようとした。

 ……その後遺症がいま、ここに来てる」


 彼女の手が、ユーマの手をぎゅっと握った。

 医者の手ではなく、友人のそれとして。


「六大局を作ったのは、あなたが全部抱え込まないためでしょう?

 だったら、倒れるまで抱え込むのやめて」


 そのとき、扉がノックもなく開いた。


「おい、起きてるか」


 ガルドが立っていた。

 いつもの無表情だが、目の奥に焦りが残っている。


「騒がないで。患者なんだから」


 リナが睨むと、ガルドは小さく肩をすくめた。


「騒がねえよ。……ただ、顔は見せときたくてな」


 彼は病床のそばまで近づき、ユーマを見下ろした。


「気づけなくて、悪かった」


「え?」


「朝、歩き方がおかしかった。

 足が“前に”じゃなくて、“下に”落ちてた。

 あれは疲れてる時の歩き方だ。森で散々見た。

 ……なのに、『大丈夫だ』って言葉を信じた」


 ガルドは拳を握った。


「次は信じない。

 無理してると思ったら、腕を折ってでも寝かせる。

 団長にもそう伝えた」


「物騒な宣言しないで」


 リナが呆れ声を上げる。

 ユーマは苦笑しながら、申し訳なさと有り難さが入り混じった気持ちでガルドを見た。


「……ありがとう」


「礼を言われるようなことはしてねえよ。

 してねえから、今度はするだけだ」


 その後ろから、ミレイがひょっこり顔を出した。


「入っていい?」


「もう入ってるようなものだけど」


 リナがため息をつく。

 ミレイはベッドの反対側に回り込み、じっとユーマの顔を覗き込んだ。


「ねえ」


「なに」


「ばか」


 それから、軽く拳で額をこつんと叩いた。


「森の主と交渉して、街を守って、六大局制度まで作って――

 で、そのど真ん中にいる本人が過労で倒れるって、どういうギャグなの?」


「ギャグのつもりは」


「あるでしょ。……なかったらもっと悪いわよ」


 ミレイはふうっと息を吐き、表情を少し柔らかくした。


「六大局ってね、エラそうな仕組みに見えるかもしれないけど、

 私からしたら、“ユーマの寿命を伸ばすための仕組み”なのよ。

 なのに当の本人が一番使い方間違えてどうするの」


「そうだな」


 ガルドも頷く。


「治安防衛局は治安を守る。

 都市開発局は道と家を守る。

 経済産業局は飯と稼ぎを回す。

 福祉医療局は倒れた奴を立たせる。

 財務総務局は数字を整える。

 ――教育文化局は、“全部が回ってる街の空気”を作るのが仕事だ」


「空気を作る人間が倒れたら、むしろ迷惑なのよ」


 ミレイが肩をすくめた。


「だからさ。

 次から、“倒れる前に倒れる宣言”して」


「それ、どういう……」


「『限界来そうだから、今日は寝ます』って。

 それを許す街にしたかったんじゃないの? あなたは」


 言葉が喉に引っかかった。

 それは、確かにユーマが望んだものだ。


 前の世界で、誰も「寝ていい」と言ってくれなかった日々。

 倒れるまで働き、倒れても、誰かに迷惑をかけたと自分を責め続けた日々。


(……同じことを、ここでもやりかけてたのか)


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


「……怖かったんだ」


 気づいたら、口が勝手に動いていた。


「森編のとき、何度も頭の中で最悪の未来を見た。

 街が丸ごと消えて、誰も残らない未来を。

 あの時は、“やれること全部やらないと”って、必死で……

 終わってからも、どこかでずっと、それを続けてた」


 言葉が途切れる。

 リナが静かに聞いていた。

 ガルドも、ミレイも、口を挟まない。


「六大局を作って、皆に仕事を振って……

 頭ではわかってたんだ。

 “もう一人で抱える必要はない”って。

 でも、手が勝手に紙を掴んでた。

 誰かに任せた方がいい仕事まで、“自分が持っていたほうが安心だ”って……」


 情けない。

 そう思いながらも、止められない。


「もし誰かがミスして、街が傷ついたら、その人を責めるかもしれない自分が怖かった。

 だったら最初から自分が全部抱えて、失敗しても自分だけを責めたほうが――」


「――それこそ、前の世界のやり方じゃない」


 リナが静かに遮った。


「ここはサクラリーヴよ。

 あなたが『そんな働き方を変えたい』と思って作った街。

 そこであなたが一番古いやり方を続けてたら、笑えないわ」


 ミレイも頷く。


「ミスをするのは、誰でも同じ。

 私だって水路の長さの見積もり間違えるし、ガルドだって斥候の配置を読み違えることもある。

 そのために“局”があるんでしょう?

 一人のミスを、全体で吸収する仕組み」


「街が傷つくのが怖いのは、みんな同じだ」


 ガルドが言う。


「だから“六つに分けて”責任を持つ。

 お前はそのうちの一つをやればいい。

 全部をやろうとするのは、傲慢だ」


 傲慢――その言葉が胸に刺さった。

 自分がそんなつもりはなくても、結果としてそうなっていたのだ。


 ユーマは目を閉じ、深く息を吸った。

 肺が少しだけ痛い。それでも、呼吸はさっきよりも深くできた。


「……ごめん」


 静かに漏れた言葉に、リナが首を横に振る。


「謝る相手、まずは自分じゃない?」


「自分に謝っても、あんまり……」


「そのうちわかるわよ」


 リナはふっと微笑み、立ち上がった。


「とにかく、三日は絶対安静。

 起き上がっていいのは、ご飯とトイレと、どうしてもって時の“話し合い”だけ。

 紙とペンは没収」


「えっ」


「えっ、じゃない」


 布団の横に置かれていた台帳を、リナが器用に抱え上げた。

 ノエルがいつの間にか扉の前に立っていて、それを受け取る。


「局長」


 ノエルは目をうるませながら、ぺこりと頭を下げた。


「書類、こちらで全部整理します。

 予算案も、各局で下書きを作ってから持ってくるようにします。

 だから……少し、休んでください」


「ノエルまでそんな顔しないで」


「するに決まってるじゃないですか!

 街の数字が好きでこの仕事してますけど、

 “数字のために人が倒れる”のは、絶対に嫌ですから」


 言葉が胸に染みる。

 こんなにも多くの人が、自分の心配をしてくれている。

 それを「重荷」ではなく「有り難さ」として、やっと少し、受け取れた気がした。


「……わかった。しばらく、ちゃんと休む」


 ようやくそう言えたとき、リナは満足げに頷いた。


「それでいいのよ、最初から」



 翌朝、ユーマは目を覚ました。


 身体はまだ重い。

だが、頭の中の霧は少し晴れていた。


 窓の外から聞こえてくる音が、いつもよりはっきりと耳に届く。


 鍛冶場の槌音。

 水路の舟の底を叩く音。

 見張り台の笛。

 子どもたちの笑い声。


(……動いてる)


 自分がここで寝ているあいだにも、街は動いている。

 それは不安ではなく、妙な安心感を伴って胸に広がった。


 扉がノックされ、ミレイが顔を出す。


「生きてる?」


「なんとか」


「じゃあ、今日の報告」


 ミレイは指折り挙げていく。


「水路の堀化、予定通り。

 魚市場の場所も決まった。漁師のおっちゃんたち、意外とノリノリ。

 森緩衝帯の桜の苗木、第二区画まで植え終わり。

 治安防衛局は夜間巡回のルートを少し変えて、“森を刺激しない線”に調整。

 経済産業局は魚市場と木材加工場の税率案を出した。

 福祉医療局は“働き過ぎ相談窓口”をつくった。名称は募集中。

 財務総務局は――」


「あ、もういい、もういい」


 ユーマは笑った。


「全部、ちゃんと動いてるってことはわかったから」


「そうよ。

 あんたが寝てる間にも、街は呼吸する。

 それが“街になった”ってことでしょ」


「……そう、だね」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


(ああ、やっと――)


 やっと、自分の手から少しだけ、街を手放せた気がする。


 ベッドの上で天井を見つめながら、ユーマは小さく呟いた。


「スローライフって、こういうのも含まれるんだな」


 朝起きて、飯を食べて、働いて、誰とも殺し合わずに眠る。

 その「当たり前」の一日が、自分一人ではなく、「六つの局」と「街全体」の手で回っていく。


 窓の外で、桜の若木が揺れた。

 森から吹いてくる風は、以前より少しだけ柔らかい。


 森は生きている。

 街も、生きている。


 その真ん中で、ユーマはようやく――ほんの少しだけ、自分のことも生かそうと思えた。

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