第35話 六大局、街を歩き始める日
朝の桜精院は、少しだけ落ち着かない空気に包まれていた。
まだ日も高くないのに、広場には人の輪ができている。パンを抱えたままのパン職人、仕事前に駆けつけた鍛冶職人、子どもを抱いた母親、夜勤明けで眠そうな顔の市警――いつもと同じ顔ぶれなのに、いつもより少しきちんとした衣服を着ている。
広場の正面には、簡易の壇と、その背後に大きな板地図。
サクラリーヴ全体と、その外の森。
森側には、淡い桜色の帯が引かれている。森の主と交わした約束――六割を保護林に、四割を人の暮らしと仕事のための開拓地にする、その“境界線”だ。
ユーマは、その板の前で最後の確認をしていた。
役職名が並ぶ紙、各局の初期方針、当面の予算案。書き込まれたメモが幾重にも重なっている。
(……今日は、“言葉だけ”じゃ駄目だ)
森編で嫌というほど味わった。
どれだけ正しいことを言っても、具体的な形がなければ、人は安心できない。
今日は、この街が「次にどう動くのか」を、はっきりと見せなければならない。
背後から、控えめな咳払い。
「顔が、難しいわよ」
振り返ると、ミレイが腰に手を当てて立っていた。
いつもの動きやすい服に、今日は薄い上着を一枚羽織っている。それだけで、少しだけ“役人”らしく見えるのが不思議だった。
「難しい日だからね」
「そう? 私は、楽しみだけど」
「……君はそうだろうね」
ユーマが苦笑すると、少し離れたところでガルドが腕を組んでいた。
背中はまっすぐだが、普段よりも落ち着かない。胸元の紐を、何度か結び直している。
「ガルドも、緊張してる?」
「……別に」
「耳が赤いわよ」
「鍛冶場の火に当たってきただけだ」
ミレイがくすりと笑い、ユーマはそのやり取りに少し救われた。
視線を広場の端に移す。
診療院のリナが、年配の患者を連れてゆっくり歩いてくる。祈祷師のエシルは、白い衣の袖を整えながら、小さな子どもたちをなだめていた。
書記官のノエルは、分厚い帳簿を抱えて緊張した顔で立っている。紙に囲まれているときの落ち着きはどこへやら、今日は珍しく視線が泳いでいた。
(……この人たちに、背負わせる。責任と、権限を)
ユーマは、胸の奥で小さく息を整えた。
「そろそろ、始めるぞー!」
広場の端で、アストの低い声が響いた。
桜盾の団員たちが手際よく人の列を整え、市警のネスが子どもたちを前列に誘導する。民兵たちは後方で待機しつつ、静かに見守っている。
ざわめきが少しだけ薄くなり、期待と緊張の空気が混ざり合った。
◆
「本日――」
ユーマは壇に立ち、黒板の前で一度だけ深呼吸した。
「サクラリーヴは、“次のかたち”へと進みます」
声を張ったつもりはない。
だが、広場にいた誰もが、その言葉に耳を向けた。
「今までのサクラリーヴは、“走りながら整える街”でした。
薬草から始まり、通貨を作り、市場を作り、学校を作り、森と向き合って……そのたびに、その場限りの組み合わせで何とかしてきました」
人々の表情が変わる。
森の一件で翻弄された日々を、誰もが思い出していた。
「ですが、これから人口はもっと増え、仕事も増えます。
森の一部は開けて畑や工房を作り、保護林には新しい循環が生まれます。
水路は広がり、魚市場もできるでしょう。
――そのとき、“その場しのぎ”では、必ずどこかで軋みます」
ユーマは板地図の前へ歩み寄り、チョークで街を囲む線を叩いた。
「だから今日から、サクラリーヴは“六つの局”で動きます」
黒板に太い文字が並ぶ。
『治安防衛局』
『都市開発局』
『経済産業局』
『教育文化局』
『福祉医療局』
『財務総務局』
読み上げるたびに、小さなざわめきが起きた。
「順番に、局と局長を任命します」
ユーマは一枚目の紙を手に取った。
◆
「――治安防衛局長、ガルド・ストライヴ」
広場の空気が、少しだけ引き締まる。
ガルドが前へ出た。普段の革鎧ではなく、簡素だがきちんとした紺の上着を着ている。それでも、大斧を背負っている姿はいつものままだ。
「ガルドには、桜盾、市警、民兵を束ねて“街の命を守る”役目を任せます。
森の境界線の監視、水路巡回、夜間警備、そして有事の際の指揮。
剣と盾の使い方だけでなく、“退くべき時に退く判断”も含めて」
ユーマがそう告げると、ガルドは短く頷いた。
「……俺は、口がうまくない」
彼は、集まった市民を一瞥してから、ゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「森で、何度か死にかけた。
人が死ぬところも、何度も見た。
守れた命もあれば、守り切れなかった命もある。
俺にできるのは、それを“次に繋ぐこと”だけだ。
剣は、怖がらせるために振るもんじゃない。
帰る場所を残すために振る。
――そのつもりで、この仕事を受ける」
短い言葉だった。
だが、訓練場で何度も彼の背中を見てきた若者たちには十分だったのだろう。
桜盾の列から、ひとり、ふたりと胸に拳を当てる動きが広がっていった。
◆
「――都市開発局長、ミレイ・カンデラ」
「はーい」
ミレイはいつもの調子で手を挙げ、そのまま前に出てきた。
肩に測量用の紐をかけたままというあたり、いつも通りだ。
「ミレイには、水路の堀化、道路、住宅区の配置、倉庫、堤防……街の“形”を作る役目を任せます。
森の二割を開いて作る新しい住宅地と工房地帯、漁港の整備、それらを“バラバラに増やす”のではなく、“街全体が呼吸しやすいように”繋げる仕事です」
「えーとね」
ミレイは、広場のあちこちを指さした。
「ここからここまでが水路になるでしょ?
で、あっちに魚市場。その後ろに倉庫と、ちょっとした酒場。
こっち側は家を少しずつずらしていって、日当たりと風通しを良くする。
……難しいこと言ってるようで、やることはシンプルよ」
彼女は笑って言う。
「“家が流れないようにすること”と、“足が運びやすいこと”。
その二つをちゃんと考える。
森が暴れた時の逃げ道も、日常の散歩道も、同じ線で作る。
それが私の仕事」
子どもたちが首を傾げ、大人たちは思わず笑った。
だが、鍛冶屋や舟を持つ者たちの目は真剣だった。
自分たちの仕事場が、どこに、どう繋がっていくのか。
その“地図”を作る人間が目の前にいるのだ。
◆
「――経済産業局長、エシル・ルミナ」
名前を呼ばれると、意外そうに目を瞬かせてから、ゆっくり前に出た。
巫女服の上に、今日は淡い灰色の外套を羽織っている。
祈祷師長でありながら、彼女は最近、商会との調整役も担っていた。
「エシルには、サクラ総合商会、各工房、漁師や猟師の組合、商人ギルドをまとめる役目を任せます。
森の恵み、水の恵み、畑の恵み――それらを“ちゃんと食卓と財布に繋ぐ”仕事です」
「……祈りと商売を、一緒に任されるとは思っていませんでした」
エシルは少し苦笑してから、静かに続けた。
「でも、考えてみれば当たり前ですね。
人は、空腹では祈れません。
安心して暮らせない場所で、信仰を持つのも難しい。
私の仕事は、“皆が働いて得るもの”をできるだけ偏りなく、滞らせずに回すこと。
新しい漁港、水産市場、木材の加工場、薬草加工、香油……。
その全部がちゃんと税になり、給金になり、翌日のパンになるように、線を繋いでいきます」
商人たちの列から、「ほう」と小さな声が漏れた。
数字の話ではなく、食卓と祈りの話をする経済局長。
それは、この街らしい姿でもあった。
◆
「――教育文化局長、井上優馬」
自分の名を呼んでおきながら、ユーマは一拍だけ間を置いた。
そして苦笑しながら前へ出る――というか、その場で向き直るだけだ。
「教育と文化については、今まで通り桜精院で責任を持ちます。
読み書き計算、技術訓練、森や水の知識、法と税の仕組み。
それから……祭りや音楽、物語。
人がここに“住みたい”と思えるものの多くは、数字にならないところにありますから」
子どもたちが一斉にこちらを見てくる。
彼らにとって“先生”は、難しい話をしながらも、たまに甘い菓子を配ってくれる大人だ。
「森のことも、森の主との約束も、全部“教科書”にします。
忘れないために。
同じ失敗を繰り返さないために。
――それから、あなたたちが大人になって、別の街や国で働くことになっても、
『サクラリーヴ出身なら任せられる』って言われるくらいには、育てるつもりです」
広場のあちこちから笑いが起きた。
誇らしげな笑いだった。
◆
「――福祉医療局長、リナ・ハーベル」
診療院の白衣を着たまま、リナが前に出る。
小柄な体だが、その声はよく通った。
「私たちの仕事は、怪我を治すことだけじゃありません。
すり減った体と心を、次の日も動くようにすること。
孤児の子たちや、ひとり暮らしのお年寄りが、食べ損ねないようにすること。
働き過ぎる人に、『一日休んでください』と言えること」
ユーマは思わず目を伏せた。
自分の前世を思い出さないように。
「森が静かでも、水路が整っていても、
中にいる人が倒れてしまったら、街としての意味がありません。
労働環境の見回り、魔力の使い過ぎの相談窓口、産婆の養成。
……地味だけれど、一つ一つ増やしていきます」
リナの言葉に、診療院の前で行列を作ったことのある人々は、真剣に頷いた。
◆
「――財務総務局長、ノエル・カーン」
最後の名を呼ぶと、ノエルは思わず帳簿を落としそうになった。
慌てて抱え直し、赤くなった顔で前へ出る。
「ノエルには、税と予算、書類仕事、人の出入りの管理――街の“裏側全部”を任せます」
「う、裏側全部という言い方は、少し……」
ノエルは苦笑しながらも、深く頭を下げた。
「私は剣も槍も持てませんし、森で迷ったら真っ先に帰れなくなるタイプです。
でも、数字を整えることと、書類を見落とさないことには自信があります。
平均労働賃金の導入、三層警備体制の給金、安全手当、森緩衝帯基金。
全部、“ちゃんと払われるように”します。
そのために、税の内訳を毎月桜精院の掲示板に貼り出します。
――ごまかすとすぐばれる仕組みにしたほうが、私も安心ですから」
広場に笑いが広がった。
同時に、数字を扱う者の誠実さに、誰もが少しだけ胸を撫で下ろした。
◆
「以上が、六大局と局長です」
ユーマは再び全体を見渡した。
「これからは、この六人を中心に街が動きます。
もちろん、私ひとりで全部決めることはしません。
――それぞれが“自分の局のこと”に責任を持ち、
皆さんは“自分の仕事”で支えてください」
少しだけ間を置いて、声を落とす。
「森編で、私たちは嫌というほど思い知りました。
ひとりの力では、どうにもならない事がある。
逆に、皆で決めたことは、多少間違っていても、少しずつ直していけると」
森の主との対話、緊張した夜、沈黙の帯――それらを知らない者はいない。
あのとき、街は壊れなかった。
決して余裕があったわけではないのに、「次の日」を迎えることができた。
「六大局制は、最初から完璧ではありません。
足りないところも出るでしょうし、予算が苦しくなることもあると思います。
ですが――」
ユーマは、黒板の脇に置かれた一本の小さな桜の枝を手に取った。
森緩衝帯の植林で切り落とした枝のひとつだ。
「少なくとも、“誰が何を考えて、何を決めているのか”が、今までよりずっとわかりやすくなります。
文句があるなら、六人のうちの誰かのところまで来てください。
耳を塞ぐつもりはありません」
広場に、かすかな笑いが広がる。
だがその笑いの奥に、安心があった。
行き先のわからない船ではなく、舵を握る人間の顔が見える船に乗っている、という感覚。
「サクラリーヴは、もう“小さな丘の村”ではありません。
森に餌をもらっていた集落から、森と話をして、道を作って、自分たちで税と仕事を回す“街”に変わりました。
次は、この六大局で――」
ユーマは少しだけ笑った。
「――“どのくらいまでやれるのか”、一緒に確かめていきましょう」
拍手が起きた。
最初は戸惑いが混じっていたが、すぐに一つの大きなうねりになる。
子どもたちが手のひらをぱちぱち叩き、大人たちの手もそれに重なった。
◆
式が終わると、すぐに実務の匂いが広がった。
「治安防衛局、こっち! 桜盾と市警と民兵で机分けるぞ」
「都市開発局は地図こっちよ! 尺と縄と杭持ってる人、あとで集まってー」
「経済産業局の窓口、桜精院北の講義室を一つ空けてもらえますか?」
「診療院の裏、福祉相談所を増築します。大工さん、後で話を」
広場のあちこちで声が飛び交い、六人の局長はそれぞれの“群れ”に引き寄せられていった。
ガルドの元には、桜盾と民兵志願者たち。
ミレイの周りには、測量屋と大工と舟の男たち。
エシルの前には、商人と工房主たちが列を作る。
リナの周りには、子どもを抱えた母親と年寄りが集まり、ノエルは既に帳簿の前で新しい帳を作り始めていた。
ユーマは、少しだけその光景を眺めてから、そっと裏へ回った。
講堂横の小さな部屋には、六つの新しい帳簿が置いてある。
それぞれの表紙には、局の名前と、空のページ。
「……ここから、か」
ユーマは、自分の担当――教育文化局の帳簿を開いた。
桜精院第二校舎建設案、技術訓練課程、森と水の授業の組み直し。
森と交わした約束も、きちんと“授業の題目”として書き込んだ。
(森の話は、森だけの話じゃない。
水の流し方、家の建て方、税の使い方、人の配置――全部つながっていた)
森編は長くなった。
それでも、あの九話分の試行錯誤があったからこそ、この六大局制にたどり着けたのだと思えば、無駄ではないと胸を張れる。
扉が軽く開いた。
「ユーマ」
アストが立っていた。
訓練場から戻ってきたのか、少し汗の匂いがする。
「六大局……立ち上がったな」
「立ち上がっただけだよ。歩き出すのは、これから」
「歩かせるのが、お前の仕事だろう」
アストは珍しく、口の端を上げた。
「俺は守る。ガルドも守る。ネスも、斥候も。
ミレイは道を作るし、エシルは飯と仕事を回す。
リナは倒れた奴を立たせる。ノエルは尻尾まで数える。
――その全部が、“スローライフ”ってやつに繋がるなら、悪くない」
「……スローライフって、そんなに格好いいものじゃないよ」
ユーマは苦笑した。
「朝起きて、飯を食べて、働いて、誰とも殺し合わずに眠れる。
その繰り返しが“当たり前”であることが、いちばん贅沢なんだと思う」
「贅沢、か」
アストは窓の外を見た。
広場で、子どもたちが六つの局の名前を言い合いながら走り回っている。
「……しっかり守らないとな」
「頼りにしてるよ、団長」
ふっと笑い合い、アストは踵を返した。
◆
夕方、広場の騒ぎは一段落していた。
だが、街のあちこちで“新しい動き”が始まっていた。
水路沿いでは、都市開発局の見習いたちが杭を打ち、紐を張っている。
そこに、森側から運ばれてきた若木が並ぶ。森緩衝帯と住宅地の境界を兼ねた“桜の帯”だ。
市場の裏では、経済産業局の書記が、魚市場予定地の図面を広げていた。
漁師たちがそれを覗き込み、ここに氷室、ここに小舟用の桟橋、と指差している。
診療院の前には、新しい掲示板。
「休める日」「相談の日」「働き過ぎ注意」と、大きな字で書かれた紙が貼られていた。
桜精院の掲示板には、今日決まった六大局と局長、それぞれの窓口の場所がわかりやすく描かれている。
ノエルの字で、「文句・相談はここへ」と丸印まで付いていた。
ユーマは、その掲示板の前で立ち止まった。
横に、森の主と交わした約束が描かれた地図も並んでいる。
森の六割は保護林として残り、四割が慎重に開拓される予定だ。エルフやドライアドたちの住まいも、その保護林の縁に点々と描かれている。
(森は、ただ“怖い場所”じゃなくなった。
でも、“何でもしていい場所”にも、決してさせない)
風が吹いた。
掲示板の紙が、かすかに揺れる。
森の方から吹いてきた風は、以前ほど重くない。
だが、完全に軽くもない。
“見ている”風だ。
「――見てろよ」
ユーマは、森に向かって小さく呟いた。
「こっちはこっちで、ちゃんと“暮らし”を回すから」
遠くで、鍛冶場の槌音が鳴る。
水路では舟の底を叩く音がし、広場では子どもの笑い声が響いた。
六つの局。
六つの柱。
サクラリーヴという街は、ようやく“村を卒業した”のだと、ユーマは実感した。
森は生きている。
街も、生きている。
そのあいだで、今日決めた六つの局が、これからどれだけ上手くやれるのか。
不安がないわけではない。
けれど、それ以上に――少しだけ、楽しみでもあった。
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