第37話 街は歩き出し、君を待っている
朝の匂いが、少しだけ違っていた。
パンを焼く香ばしい匂いも、鍛冶場から流れてくる鉄と炭の匂いも、いつもと同じはずなのに――どこか、慎重に息をしているような空気だった。
◆
パン職人ベレッタは、窯に薪をくべながら眉をひそめた。
「……火の上がりは悪くない。腕も落ちちゃいない」
そう口に出して、自分に言い聞かせる。
問題は、火でも生地でもない。胸の奥のざわつきだ。
「おかあさーん、粉、こぼれる!」
後ろで小さな声がして振り向くと、娘が粉袋を抱えたまま、よろよろと歩いていた。頬にも、髪にも、粉が白くついている。
「ちょっと貸しなさいっての。……ほら、こっち」
粉袋を受け取り、計量の台にそっと置く。
娘は手だけは一人前に腰に当てて、ベレッタを見上げた。
「ねぇ、おかあさん」
「なに」
「きょうも、先生に甘いパンもっていく?」
“先生”。
娘にとって、その言葉は一人しかいない。
桜精院で字と計算と、森の話と水の話を教えてくれた、あの痩せた青年。
ベレッタは一瞬、口をつぐんだ。
「……今日は、やめておこうか」
「なんで?」
「先生、今はおやすみしてるの。たくさんお仕事しすぎたんだって」
娘の顔に、不満とも心配ともつかない影が落ちた。
「おやすみ、って、ねるだけ?」
「そう、寝て治す。大人も、そういうときがあるんだよ」
言いながら、ベレッタ自身が驚いていた。
“ユーマが倒れた”という知らせを聞いたとき、最初に浮かんだのは不安ではなく、
――あぁ、やっとか。
という妙な納得だったのだ。
森の一件。
六大局の発表。
税と仕事と、街全体のこと。
あのやせ細った肩に、どれだけ乗せていたのか。
あれで倒れないほうがおかしい。
(倒れたからって、街が止まるようじゃ困るけどね)
粉をこねながら、ベレッタは息を吐いた。
窯は待ってくれない。生地も待ってくれない。腹を空かせた子どもたちも、待ってくれない。
ユーマが倒れても、パンは焼かなければならない。
その当たり前さが、この街の強さのひとつだと、彼女は思った。
◆
焼き上がった朝のパンを籠に詰め、娘と一緒に広場へ向かう。
桜精院の前の掲示板には、新しい紙がいくつも貼られていた。
「わぁ、いっぱいかいてある!」
娘が背伸びして紙を指さす。
『六大局と局長のお知らせ』
『ユーマ療養中につき、教育文化局の相談窓口は当面、教員三名と書記が対応します』
『治安防衛局より夜間巡回強化のお知らせ』
ベレッタは読みながら、肩の力を少し抜いた。
(……ちゃんと“穴を埋める段取り”が、最初からあるじゃないの)
ユーマがいなくても、六つの局が動く。
そのための人間たちの名前が、きちんと並んでいる。
娘が、掲示板に書かれた「教育文化局 局長:井上優馬(療養中)」のところを指でなぞった。
「せんせい、ここにいるの?」
「今は、桜精院の奥のお部屋で、お布団の中かな」
「パン、もっていきたいなぁ」
「……もうちょっと元気になったらね。その時は、いちばん甘いの持っていこう」
娘は納得したのかしないのか、むー、と唇を尖らせたあと、急に笑った。
「じゃあ、きょうの分は、おかわりしてもいい?」
「それはどうかな」
パン職人の一日は、いつも通り始まる。
ただ――窯の火の向こうに、倒れている“先生”の姿を思い浮かべながら。
◆
鍛冶場フォージベルには、いつもより早く人が集まっていた。
鉄を叩く音、炭がはねる匂い。
その中で、弟子の一人がそわそわと周りを気にしている。
「なぁ親方、本当にユーマさん倒れたんですか」
「噂じゃ、森の主とやりあった反動で、魂だけ森に行っちまったとか」
「ばっかねぇの」
ブランカは槌を振り下ろしながら一喝した。
「魂なんか飛ばす前に、あんたらの頭ぶっ飛ばすよ。――倒れた理由はひとつだろ、“働きすぎ”」
弟子が口をつぐむ。
火床の熱が顔に当たって汗が流れる。その汗と一緒に、不謹慎な冗談も流れていくようだった。
ちょうどそこに、治安防衛局からの使いがやってきた。
桜盾の団員が、注文書を差し出す。
「ブランカ鍛冶長。新型の盾と訓練用木剣の増産依頼です」
ブランカは手を拭いて紙を受け取る。
数をざっと見てから、ふっと口元を上げた。
「……ガルドの奴、遠慮がねぇな」
「防衛局長ですからね」
続けて、都市開発局の見習いが駆け込んでくる。
「あのっ! 水門の金具と、境界用の杭と、橋の補強用のボルトを――」
「落ち着きな。順番に出しな」
机の上に並んだ注文書の端には、それぞれ局名が書かれていた。
治安防衛局/都市開発局/経済産業局。
昔なら全部「ユーマ行き」だった紙の束が、今はそれぞれ別の名前へと伸びている。
弟子の一人が、紙を見て首をかしげた。
「六大局って、結局なんなんです?」
「簡単さ」
ブランカは槌を肩に担ぎ直し、鉄の棒を火床へ押し込んだ。
「誰に文句言えばいいか、誰に頼めば話が早いか、それが見える仕組みだよ。
うちは“武器と道具”が欲しい奴らの窓口が、前よりはっきりしたってこと」
「……じゃあ、仕事増えるだけじゃ」
「仕事が増えるってことは、生きてるってことだよ」
ブランカは火花の向こうで目を細めた。
「森が静かになった分、街はうるさくなる。
槌の音で、そのうるささをちゃんと支えりゃいいんだ」
弟子たちは顔を見合わせて、同時に頷いた。
「じゃあ、槌、もっと振れますね」
「腕、落とさないようにしねぇとな」
火床の火が、少しだけ高くなった気がした。
◆
森の縁では、別の会話が交わされていた。
緩衝帯に植えられた若い桜の苗木が、風に揺れている。
その少し手前で、年配の猟師と若い猟師が腰を下ろしていた。
「……どうにも、まだ慣れねぇな」
若い猟師が唇を噛む。
目の前には、森の中へ続く馴染みの獣道。
だがその入口には、簡単な標識とロープが渡されている。
《ここから先は立ち入り制限区域 昼間・二人組・申告必須》
「昔は、あの辺まで駆け込んで、魔物に追われて戻ってくるのが当たり前だったのによ」
「それで何人、戻ってこなかった」
年配の猟師が淡々と言う。
皺の深い手が、煙草の代わりに草の根っこを弄んでいる。
「文句があるのはわかる。俺だって最初は反発したさ。
『森に入るな』なんて、猟師の仕事を殺すような話だってな」
「じゃあ、なんで今は静かなんだよ」
「……あいつが倒れたって、聞いただろ」
“あいつ”。
若い猟師でも、誰のことかすぐにわかった。
「ユーマか」
「あぁ。森とやりあって、街をでかくして、税だなんだって全部まとめて――そりゃ倒れる」
年配の猟師は、森をじっと見続けた。
「森が静かになって、獲物が減った。
でもな、俺たちはまだ生きてる」
「……言いたいこたぁわかるけどよ」
「文句は言っていい」
年配の猟師は、若い方の肩を軽く小突いた。
「『稼ぎが減る』『前みたいにやれない』ってな。
それでも腹の底では、知ってるはずだ。
“文句を言える程度には、生きてる”ってことを」
若い猟師は目を伏せた。
森が静かになった日。
同じ獣道の向こうで、二度と戻らなかった仲間たち。
血の匂いと、骨の白さと、あの日の風の冷たさ。
「六大局だの、境界線だの、ややこしい仕組みにはなったがな」
年配の猟師は立ち上がり、ロープのこちら側の地面を蹴った。
「森側で食えない分は、街側で仕事回すって話だ。
水路の工事でも、堤の補強でも、薪の供給でも、やることはいくらでもある。
ここで全部ぶっ壊したら、いちばん先に死ぬのは、俺たちだ」
若い猟師は、ロープの向こうを一度見てから、踵を返した。
「……文句は、酒場で言うわ」
「そうしな。昼間っから騒いだら、福祉医療局に怒られるぞ」
二人は笑いながら、街のほうへ歩き出した。
森は何も言わない。ただ、風だけが少し強くなった。
◆
診療院の前には、新しい掲示板が立っていた。
《福祉医療局からのお知らせ》
大きな字で、いくつかの項目が並んでいる。
『・働きすぎ注意 体を壊したら意味がありません』
『・ひとり暮らしのお年寄りを見かけたら、声をかけてください』
『・孤児の子たちの食事と寝る場所は、診療院が保証します』
その下に、子どもの字で何かが書き足されていた。
『・ユーマ先生も、ちゃんと休むこと』
「だれが書いたの、これ」
リナが苦笑すると、近くにいた孤児の少年が手を挙げた。
「おれ。だって先生、いつも“働きすぎはだめだぞ”って言ってたのに、自分でやってたもん」
「そうねぇ……その通りね」
リナは少年の頭を軽く撫でた。
「先生、死んじゃう?」
「死なせないわよ」
即答した自分の声に、リナ自身が驚いた。
けれど、間違いではない。
「先生が倒れたからって、街が止まらないようにって、先生はここまで街を育てたのよ。
だから今度は、私たちが支える番」
診療院の裏手では、孤児たちが小さな食器を洗っていた。
“お手伝いをしたら、パンを一つ増やす”という約束で、福祉と仕事の入り口を兼ねた仕組みができている。
「福祉医療局ってなに?」
小さな女の子が聞く。
「えっとね……怪我した人や病気の人を治すところと、
ご飯を食べられない人や、ひとりぼっちの人を探して、ちゃんと生きていけるようにするところ」
リナの説明に、子どもたちは難しい顔をしながらも、なんとなく納得したようだった。
「じゃあ、ぼくらも、そこ?」
「そう。あなたたちは、福祉医療局の“大事な仕事仲間”よ」
子どもたちが、少し誇らしげに胸を張る。
六大局という言葉が、彼らにとってはまだ難しい。
けれど、“自分たちにも名前のついた場所がある”という感覚は、確かに心に残る。
◆
保護林の縁では、エルフとドライアドがゆっくりと森の様子を見ていた。
エルフの狙撃手セレスは、長い耳をわずかに動かしながら、風の向きを確かめる。
隣で、ドライアド系素質を持つミラが、若木の幹に手のひらを当てていた。
「……まだ、騒いでないわね」
「森の根は、今は深く潜っている。上の枝だけが、様子をうかがっている感じ」
ミラは目を閉じ、幹を通して流れてくる気配に耳を澄ませた。
「人間たちは、“六つの局”とかいう枝を増やしたんだって?」
「あぁ。治安、防衛、商い、教育、医療、数字の係……だったかしら」
セレスは、街のほうを一瞥した。
「森なら、一本の大樹と根で全部繋がっているところを、人間たちは枝を分けて名前をつけないと動けないのね」
「でも、その分だけ“折れにくい”のかもしれない」
ミラは静かに言った。
「一本の枝が折れても、他の枝が支え合える。
森もね、ときどきそうやって自分の形を変えるのよ」
セレスは小さく鼻で笑った。
「……ずいぶん人間寄りの考えになったわね、ミラ」
「ここの森で暮らしてると、自然とね」
二人は同時に街を振り返った。
水路を走る舟。訓練場の掛け声。鍛冶場の槌音。桜精院の鐘の音。
「森は線を引かれ、人間は局を作った。
どちらも、壊れないように形を変えただけ」
ミラは、若い桜の葉をそっと撫でた。
「悪くないわ」
◆
桜精院の一室では、ノエルが大きな紙に線を引いていた。
「えーと、“市政評議会”がいちばん上で……その下に“六大局会議”……」
横で覗き込んでいる若い書記が、首を傾げる。
「そんなに細かく書く必要あるんですか?」
「あります」
ノエルは真顔で言い切った。
「誰が何を考えて、何を決めているのか、一目でわかるようにするのが“総務”です。
曖昧にしておくと、あとで必ず揉めるんですよ」
紙の上には、六つの箱が描かれていく。
「ここが“治安防衛局”。局長はガルドさん。
その下に、“桜盾”“市警”“民兵隊”」
箱から箱へ線を伸ばしながら、ノエルは口で補足する。
「“都市開発局”はミレイさん。水路、道路、住宅、倉庫。
“経済産業局”はエシルさん。商会、工房、市場、冒険者ギルドの窓口。
“教育文化局”は……ユーマさん。今は療養中だけど」
そこだけ、ペン先が一瞬だけ止まった。
だがすぐに、“当面の代理:教員三名”と小さく書き足す。
「“福祉医療局”はリナさん。診療院、孤児支援、お年寄りの見守り、働きすぎ相談。
“財務総務局”は私。税、予算、書類、人の配置」
紙の上の箱が、街の中の役割とゆっくり重なっていく。
「これだけ人がいて、これだけ仕事がある」
ノエルは紙を少し離して見ながらぼそっとこぼした。
「今まで、全部ユーマさんの頭の中でやってたって考えると……ぞっとしますね」
「……マジで倒れてよかった、って言ったら怒られます?」
若い書記が小声で言う。
「怒られるでしょうね。でも、私も少しそう思ってます」
ノエルは苦笑した。
「倒れてくれたおかげで、こうやって“見える”形にできたんですから」
組織図の端には、小さく書き加えられた一文があった。
《※この図は、桜精院広場の掲示板にも貼り出します。文句・相談がある場合は、担当局の窓口へ》
「“文句・相談”って、はっきり書いちゃうんですね」
「書いておいた方がいいですよ。
どこに言えばいいかわからない怒りは、一番危ないんです」
ノエルの声は静かだが、そこには切実さがあった。
◆
そのころ、桜精院の一番奥の静かな部屋。
ユーマは、まだ目を閉じていた。
窓から差し込む光は柔らかく、遠くからは街の音が聞こえる。
水路の舟底を叩く音。訓練場の掛け声。鍛冶場の槌音。子どもたちの笑い声。
それらが薄い布越しに混ざり合い、静かなざわめきとなって部屋に届いていた。
ベッドの傍らで、リナが椅子に腰掛けている。
カルテ代わりの紙には、「強い疲労」「魔力と体力の使い過ぎ」「当面は絶対安静」と、きっぱりした字で書かれていた。
「街の音、聞こえる?」
ユーマの耳に届いているのかどうかはわからない。
それでも、リナは小さく話しかける。
「あなたがいなくても、街は回ってますよ。
ガルドたちが、ちゃんと巡回してる。
ミレイが、水路の線を引いてる。
エシルが、商会と漁師と工房を歩き回ってる。
ノエルが、嫌になるくらい細かく数字を見てる。
子どもたちも、ちゃんと勉強してる」
ユーマのまぶたは、わずかに震えたように見えた。
けれど、それ以上の変化はない。
「だから、安心してもう少し寝ててください」
リナは立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。
外の光が部屋に入り、ユーマの顔を柔らかく照らす。
「起きたらまた忙しくなるんだから。今くらいは、ね」
そう言って、静かに部屋を後にした。
◆
夕方。
桜精院の広場の掲示板には、ノエルが描いたばかりの組織図が貼り出されていた。
「これが、“ろくだいきょく”?」
「うん。ここが“ちあんぼうえいきょく”で、ここが“とし……なんだっけ」
子どもたちが指でなぞりながら読み上げていく。
その横で、大人たちが真剣な顔で図を見ている。
「おれは、防衛局の民兵か。……名前、ちゃんと書いてもらってるな」
「うちは、経済産業局の“香油部”だってさ。なんか偉そうな名前だな」
「教育文化局、局長・井上優馬(療養中)。……しっかり休んでから戻ってこいよ、先生」
掲示板の下のほうには、子どもが真似して描いた雑な組織図があった。
六つの箱の真ん中に、誰かがそっと一文字を書き足す。
『先生』
誰の悪戯かはわからない。
けれど、その一文字は、街の人々の気持ちそのものだった。
森は、生きている。
街も、生きている。
そのあいだで、六つの局がそれぞれ動き出した。
ユーマが倒れても、街は止まらない。
むしろ――ようやく、自分の足で歩き始めたところだった。
水路を行く舟が、底を二度叩く。
見張り台の笛が、それに応えるように短く鳴る。
静かな夜の入口で、サクラリーヴという街は確かに呼吸していた。
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