第17話 「同じ香りの食卓」――妖精パンと、小さなメロンパン
朝いちばんの風は、粉の匂いを軽く運ぶ。
校舎の廊下を抜け、半庭園の回廊の向こう、共同工房の屋根から薄く白い湯気が上がっていた。今日の授業は教室ではない。石窯の前でやる。座って覚えるより、手で覚えるほうが早いし、なによりあたたかい。
広場には、子どもが十七、夜学から移った若者が四、外から来た新入の三人がいる。合わせて二十四。ちょうどいい。
リト(妖精)が背伸びして、粉の袋を台にずらした。セラ(ドライアド)は水桶の横に腰をおろし、木の柄杓を一つずつ点検している。エルノア(図書院)は板に今日の題目を短く刻んだ。
――今日の学び:同じ匂いを作る。
僕は手を叩いた。鐘は鳴らさない。
「はじめまして、じゃなくて、ようこそ。席は決めない。立つ場所も自由でいい。今日は座って紙を見る授業じゃないからね」
「パン、だよね!」とカイルがもう笑っている。外から来た三人の一人、冒険者の弟。靴紐が少しほどけている。
商人の子ロワンは、粉の匂いを深く吸い込んで目を細めた。
貴族家の娘フィオは、袖をすこしだけまくり、指先を見た。汚れることを怖がってはいない。いい目をしている。
「パンは、同じものを同じ口で分ける魔法だよ。言葉が違っても、体は同じようにおいしいって思う。だから、初めての授業はパンにする。今日は二種類。ひとつは妖精パン。もうひとつは――小さなメロンパン」
「め、メロン?」と誰かが首を傾げる。
「見た目が似ているだけの名前だよ。果物は入れない。外はさくっと、中はふんわり。手のひらにのる、小さなやつをたくさん焼こう」
「ちいさいの?」とリト。
「うん。分けやすいから。大きいと誰かが遠慮する。でも手のひらサイズなら、ひとつを半分にしても、まだひとつになる」
うなずきがいくつも重なった。息が合う音がする。
◇
台の上に、材料を並べる。
袋に白い粉。小麦の匂い。
壺に白葉糖――リーフガーデンで採れた薬草の花の蜜を煮詰めて結晶にした砂糖だ。
瓶にはミルクグラス区のバター。
小さな壺には花蜜。
そして一番奥に、蓋の付いた木鉢。《精霊土壌》で育った酵母のもと。微かに生きもののような気配がある。
「今日は、説明は短く、手は長く。まずは妖精パンの生地から。小麦と水と塩、ちょっとだけ白葉糖。酵母のもとをひと匙。リト、見本をやって」
「合点!」
リトは小さな手を粉に沈め、水を少しずつ投げるように混ぜた。粉は水を飲み、しっとりと重くなる。セラが柄杓で水を一杯足す。
生地を台に落として、押して、たたむ。押して、たたむ。
子どもたちが真似をする。押して、たたむ。リズムがバラバラでもいい。最初はそんなものだ。
「こねるときは、息を伸ばす。押すたびに息を吐く。たたむときに吸う。ほら、胸が楽になる」
僕は胸の高さで手を動かして見せる。
フィオはすぐに理解した。体幹がぶれない。
ロワンは周りを見て、誰かのリズムに合わせにいく。
カイルは勢いがいいが、すぐ力が入ってしまう。
「カイル、肩の力を抜いて。粉は殴ると固くなる」
「殴ってないよ!」と笑う。
エルノアが板に一行だけ刻んだ。
――粉は殴らない。
誰かが小さく笑って、みんなに伝染した。
◇
一次発酵に入る。生地を木鉢に戻して布で覆い、石窯の手前の温い場所に並べる。
待つ時間は、自己紹介の時間でもある。
「名前と、朝、何で起きるか。声の大きさは合わせなくていい」
「カイル。鳥の声で起きる」
「ロワンです。母が焼くパンの匂いで。店は朝が勝負なので」
「フィオ・アルステル。……時計の鐘で。庭師が合図をくれる日もあります」
街の子たちも続く。
妖精も、ドワーフも、ゆっくり言う。
ドライアドのセラは、名前の代わりに葉を鳴らした。
リトは鈴を一度だけ鳴らした。
音が混ざって、同じ静けさになる。これが目当てだ。
「発酵は、待つ勇気だよ」とエルノア。
「待つ間に、もう一種類の準備をしよう。メロンパンのクッキー生地。白葉糖、花蜜、バター、卵。粉を少し。よく混ぜて、まとめたら冷やす。格子の切り目は焼く直前につける」
「かわいいやつだ」とカイルが目を輝かせた。
「小さく作る。手のひらで分けられるように。誰でも一つもらえて、一つ分けられる。形はみんな違っていい」
ロワンが手を挙げる。「砂糖は、これが“白葉糖”。市場で見ましたが、甘さがやわらかい」
「うん。舌の上で尖らない。喉も刺さない。学びの場では“やさしい甘さ”を使う」
フィオが指でバターをほんの少しだけ取って、溶け具合を見た。
彼女は手が綺麗だ。綺麗な手で粉を触ることを、ためらわない。
◇
布をめくる。
生地はよく膨らみ、指で押すと、そっと戻る。
二次発酵は短く。今日は小型のパンが主役だから、過発酵させない。
「成形。手の中で軽く丸めて、綴じ目を下に。ほら、赤ん坊の背中みたいに。強く押しつけない」
子どもたちの手がまるく動く。
妖精の手は小さく、動きが速い。
ドワーフの手は重く、しかし一定だ。
フィオは整っている。
ロワンは隣の子の手つきを真似ている。
カイルは、楽しくて笑いがこぼれる。
「ここまでが妖精パン。ここにクッキー生地をかぶせると、メロンパンになる。薄く伸ばして、ちょっとだけ甘い香りをつける。格子の切れ目は深くしない。焼いている間に自分で広がるから」
格子の線を刻む時、リトが首を傾ける。
「線の数は?」
「好きでいい。四本でも、十本でも。同じじゃなくていい。ただし、一つのパンの中では線を途中で止めない。止めると、そこから焦げやすい」
「途中で止めない、ね」とロワンが繰り返した。
エルノアが板にもう一行。
――線は途中で止めない。
◇
石窯の口が開く。中は橙のゆらぎ。
グレン(フォージベルの棟梁)が温度を見て、短く顎を動かす。「今だ」
木のヘラでパンを並べる。小さな丸がたくさん並ぶ。
扉を閉める。
音が消える。
見えないところで、バターが溶け、花蜜が泡立ち、白葉糖が薄くガラスになる。
「焼いている間に、街の呼吸の練習をしよう」
僕は子どもたちを石窯前のベンチに座らせ、深呼吸を一度だけ見本でやった。
「この街は、急がない。急がなくても済むように、暮らしの形を整えている。
パンは焦らせない。水も並ばせすぎない。道は人と物がぶつからない太さにする。
急がない街は、失敗が少ない。失敗が少ないと、税の袋が痩せない。痩せない税は、道と灯を支える。
だから、ここでは、速い人が偉いわけじゃない。息が合う人が、みんなの真ん中になる。」
フィオが小さく頷いた。
ロワンは「市場の速度」と口の中で言って、笑った。
カイルは、うん、と素直にうなずいた。
リトが鈴を一度だけ鳴らす。
セラが窯の横の根に指を添え、耳を澄ます。
樹の中を上る水音が、石窯の呼吸と合う。
◇
扉が開く。
同じ匂いが溢れた。
花蜜の甘さ、白葉糖の軽い焦げの香り、バターの深み。
妖精パンは薄金色。メロンパンは格子がほんのり色づき、手のひらにぴたりとおさまる小ささ。
「触っていい?」とカイル。
「熱いから、端からね。指の腹で転がして、熱の向きを変える」
子どもたちの指の腹が忙しく動く。熱が逃げ、表面が落ち着く。
僕は一つを割って見せた。中は柔らかく、空気は甘い。
「同じ匂いになったね」
誰かが息を飲む音がした。
さっきまで別々の息だったのに、今は、同じところで吸って、同じところで吐く。
「配るよ。ひとり二つ。一つは自分の、もう一つは渡すための」
リトが配る。
セラが手を添えて、落とさないようにする。
エルノアは板を持ったまま、静かに見ている。
フィオの手に、メロンパンが二つのった。
彼女は少し迷い、振り返って、後ろの席の子に一つ渡した。
受け取った子は驚いて、笑った。
「ありがとう」
その言葉が、フィオの肩の力をやわらかく抜いた。
ロワンは、隣にいた小さな妖精に渡した。
妖精は両手で抱えて、顔を半分隠して頷いた。
カイルは、窯の前で汗を拭っていたグレンに元気よく手を伸ばした。「いつもありがとう!」
グレンは「おう」と短く言って受け取り、半分に割ってカイルに返した。
分けられた半分が、ちゃんと“ひとつ”に戻る。これがしたかった。
みんなが一口噛む。
外はさっとほどけ、中はやわらかい甘さで、舌の上が静かになる。
フィオの目が、ふっとほどけた。
ロワンは目を閉じ、鼻から小さく息を出す。
カイルは「うまい」を三回言った。
「メロンパンって、こういう味なんだ」とフィオ。
「ここでは、ね」と僕。
「ここでは?」
「街の味は、街ごとに違う。同じ名前でも、呼吸が違えば味が変わる。ぼくらはサクラリーヴのメロンパンを作った。今日からこれは君たちの味だよ」
ロワンが笑った。「市場で売れそうだ」
「売るなら、授業がない日にね。学びのパンは、学びのために焼く。売るパンは別に焼く。混ぜると、どちらかが急ぎだす」
ロワンは素直に頷いた。
エルノアが板に一行。
――学びのパンは、急がない。
◇
昼の鐘を鳴らさず、広場の片側に長机を置く。
同じ匂いの食卓にするための小さな工夫。椅子は向かい合わせだけじゃなく、斜めにも置く。先生と生徒、妖精と人、貴族の娘と鍛冶屋の子、みんなが横顔で繋がるように。
マリナがスープを配る。塩がやさしい。
リシアは匿名寄付箱を静かに置いて、蓋を開けたり閉めたりしない。
カインは冒険者支部の腕章を外して、子どもと同じ高さに座る。
「ここは、誰でも来ていい。ただ――一緒に息をしていこう」
僕が言うと、誰かがうなずいた。
風が止まり、泉に輪が広がり、薬草が音もなく揺れて戻る。
街が“うん”と言った。四度目でも五度目でもいい。何度でも言ってくれていい。
「午後は、配達の練習をするよ」と僕。「渡すのも学びだから。メロンパンを二人組で持って、リーフガーデンの入口まで。途中で誰かに会ったら『一つ、どうぞ』って渡してみる。言葉は短くていい。顔を見てから言う」
「もう一つは?」とカイル。
「自分で食べる。遠慮は学びの邪魔になる」
ロワンが笑う。「商会では聞かない言葉だ」
「ここでは、ね」
フィオは、膝の上の小さなパンを見た。「手が、甘い匂いになってる」
「いい手だよ。それは街に残る匂いだ」
◇
午後、二人組で配達がはじまる。
フィオとリト。ロワンとマリナの妹。カイルと小さな妖精。
道は広く、陽は柔らかい。
「どうぞ」の声が、少しずつ街に散っていく。
セラが僕の隣に座る。根の音が、石窯の残り火と合っている。
エルノアは板に今日の一行を刻みはじめた。
――同じ匂いの食卓。
その下に、もう一行。
――線は途中で止めない。
「いい一日だ」と僕。
「ええ」とセラ。「食べものは、街の言葉です」
「学院にとっても、いい初日だ。外から来た三人、どう見えた?」
「フィオは、整える力がある。ロワンは速さを遅くする勇気を持てる。カイルは、笑う場所をつくる」
「十分だ。あとは一緒に息をしていけばいい」
◇
夕刻、二人組が戻ってくる。
「渡せた」「途中で半分こした」「おばあさんが泣いた」
それぞれの報告を短く聞く。言葉を多くしない。短いほど、明日につながる。
フィオが最後に手を挙げた。「……渡した相手が『こんなに小さくてかわいいのに、ちゃんとおなかに届く』って言いました」
「届いたんだね」
「はい」
フィオの声は、朝より一歩、ゆっくりだった。
ロワンは、使わなかった貨幣袋をそのまましまった。
カイルは、まだ少し粉がついた指で頭をかいた。
「授業はここまで。今日の記録は一行だよ。『同じ匂いを作った』。それで十分」
板を片づけ、窯の火を落とす。
風がまた止まり、泉に輪が広がる。
薬草が音もなく揺れて、戻った。
街が“うん”と言った。
◇
夜。寮の灯が点く。
小さな食堂で、残りのメロンパンを半分に割って、また半分にして、誰かの皿に乗せる。
ドワーフの子が味の話をし、妖精が香りの話をし、人間が明日の水汲みの列の話をする。
言葉は混ざるけれど、匂いは一つだ。
僕は《会計台帳》に三行だけ記す。
— 小麦粉(桜銀貨×一袋)/白葉糖(物納)/花蜜(物納)
注釈は緑。無理なし。
扉を閉める前に、明日の板を一枚用意した。
――明日の学び:同じ台所をつくる。
息を吐く。胸は痛くない。
昔の蛍光灯は遠く、木の灯りが近い。
目を閉じる。同じ匂いの食卓が、街の奥まで続いていくのが見える。
これでいい。
そして、ここからが本当のはじまりだ。
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