第18話 台所と道は、同じところでつまずく

 朝、パン釜の煤(すす)は、昨日よりうすかった。

 窯前の地面はまだ温い。リトが小さなほうきを振り、セラが柄杓で灰の縁に水を落とす。水は音を立てず、白い円だけ作って消えた。


「昨日のメロンパン、評判よかったよ」

 マリナが湯気の立つ鍋を台に置く。「おかわりを言う顔って、だいたい同じ顔ね。安心した人の顔」


「安心は、一日に一度でいい」と僕。

 《会計台帳》に“粉・油・布”を三行だけ記す。注釈は緑。無理なし。


 学校は午前が台所、午後は道の見習い。

 **暮らしの要(かなめ)**はこの二つだ。転んだ時に痛むのも、だいたいこの二つだ。


     ◇


 午前。共同台所。


 今日の課題は“同じ台所をつくる”。

 作業台の高さ、柄杓の置き場所、洗い場の石の目。家が違っても、迷わないことを目指したい。フィオは寸法をとり、ロワンは数を数え、カイルは腰に布を挟んで走り回る。


「柄杓は“つぼみ置き”。丸い口が上、柄は左」


「左利きは?」とカイル。


「左利きは自分の布を一枚増やす。置き方は街の側に合わせる。長く残るものを優先」


 エルノアが板に一行刻む。

 ――長く残るものを優先。


 セラは井戸枠を撫で、根の気配で水脈の機嫌を読む。

 リトは洗い場に小さな“泡止めの罠”を作った。泡が溜まり始めると鈴が鳴る仕掛けだ。**


「泡は音が鳴ると、やさしくなるの」**とリト。比喩でなく、事実らしい。


 そんな折、冒険者支部の腕章を外したカインが、慌てず、でも速い歩幅で入ってきた。

 速いのに、焦っていない歩き方だ。


「小川が白く濁ってる。台所の下流から」

 声は短く、必要分だけ。


 僕は湯気の鍋の蓋を閉めた。

 台所と道は、同じところでつまずく。

 詰まるのは、だいたい“考えきらなかったところ”だ。


「見に行こう。授業は続ける。止めないで、分ける」


 フィオが寸法取りをマリナに渡し、ロワンが道具の数を子どもに割り振る。カイルは「外回り!」と元気に言って、僕と並んだ。


     ◇


 スプリングライト区の小川は、朝の光を薄く割っていた。

 が、今日の水は、うっすらと乳白色。

 風は悪くない。匂いは……甘い。悪臭ではない。でも喉の奥で少し刺さる。


 僕は《真理視界(シンリシカイ)》を静かに開いた。

 ――界面活性。脂と砂糖の混じり。白葉糖の微粉。花蜜の薄い漂い。

 洗い落としの甘い泡が、水脈に入り込んでいる。


「毒じゃない」と僕。「だけど、水の呼吸が乱れる」


 セラが木の指で川底をそっと触れ、眉を寄せる。「**水生苔(すいせいこけ)**が泡に絡まっている。流れが怠けてしまうわ」


 岸で、見知らぬ少年が縮こまっていた。

 肩に革袋。目は良く、手は固い。

 ロワンが先に声をかける。「商隊の子だね」


 少年は小さく頷いた。「手伝いの見習いです。洗い物をいっぱい流したら、早く片づくと思って……」


 悪意はない。**善意の“速さ”**だ。


「君のせいじゃない」と僕。「仕組みの穴のせいだよ。止めるのは人じゃなく、流れ方」


 僕は指で地面に簡単な図を描いた。

 “街の台所” → “砂のすだれ” → “草のすだれ” → “小石のたまり” → “川”

 **三段の“やさしい網”**をかますだけで、泡は川まで届かなくなる。


「止めるのは“強い網”じゃなく、“弱い網を三つ”」

「なんで?」とカイル。

「強い網は、詰まる。弱い網は、通して、休ませる。網が疲れない」


 リトが頷く。「泡はかるいもの。軽いものは、軽い手で扱う」


 僕らはその場で“砂のすだれ”を作った。

 袋に入れた砂を井桁に置き、そのあいだに薄い草束を詰める。水は急に澄んだわけじゃない。けれど、にごりの動きが変わった。流れて、崩れる。


 セラが根をほどいて苔の息を整える。

 リトは小さな鈴を二つ、草束に結んだ。泡が過ぎるたび、ほんの少し、鈴がためらう。


「これで応急。戻って、**台所の“流しの順番”**を決めよう」


 少年が頭を下げた。深く、まっすぐ。「戻って、やり直します」


「戻るのは、失敗じゃない」と僕。「街に帰る道だよ」


     ◇


 昼。共同台所に戻ると、もう一つの小さなつまずきが待っていた。


「粉が、少ない」

 マリナが帳面を示した。「朝、予定より二袋多く出てる。台所の授業、増えたから」


「“増える”は、正しい」と僕。「“補充”が先回りしていないだけ」


 ロワンが手を挙げる。「市場の枠、午前中に一つ増やしました。粉問屋に**『学院枠』を新設。“授業分は価格固定”**で」


「交渉、速いね」


「こちらも“息の速度”を学んでますから」


 フィオが寸法取りの紙を折って言う。「粉の置き場の高さを見直すべきです。誰でも取れる高さにあると、よかれと思って取りすぎます」


「親切な過剰は、良い影と悪い影を同時に落とす。じゃあ、高さを一段上げて――**“一枚札”**にしよう」


 僕は《会計台帳》から小さな札を三十枚抜いた。

 “今日の粉 一回ぶん”。

 粉は札と交換にする。札は台所が回収して、夕方にまとめて帳簿へ。

 手は自由に、流れは見えるように。


 エルノアが板に一行。

 ――親切な過剰は、札でやさしく止める。


     ◇


 午後。道の見習い。


 フォージベル区とリーフガーデン区をつなぐ小道の曲がり角に、石を積む。

 人と荷車が“出会って止まらない”角を作るためだ。

 グレンが手本を見せ、若者がまね、子どもが拍手する。

 石の隙間には、セラの根の紐が入っている。石を留めるのではなく、石に“息の仕方”を覚えさせるために。


 と、角の手前で、荷車が止まった。

 車輪に、薄い針金が絡んでいる。

 持ち主の男は困り顔。「朝、市場に“安い縄”が出ててな。ほつれて針金が出るやつとは、思わんかった」


 ロワンが眉をひそめる。「偽縄ですね。昨日は見なかった」


 僕は《真理視界》を一瞬だけ開いた。

 繊維に、細い金属糸。見かけは麻だが、古い網の再生品だ。

 悪意ではない節約。でも、道には向かない。


「買ってしまった人を責めない。買っていない人のために“使い道”を変える」


 僕は偽縄を集め、長さを揃えて、**小さな“籠”に編ませた。

 川の“砂のすだれ”の芯にする。重しとしては優秀だ。

 市場には“偽縄の集め場”**の札を立てる。

 買い取りはしない。ただ、用途の札を付けて置いておく。

 間違いは、街で正しい場所を見つければ、資源になる。


 グレンが短く笑う。「余り物で補修用の釘を作るのと、同じだな」


「同じ。“道具の第二の席”を決めるだけ」


 エルノアが板に一行。

 ――間違った道具の、第二の席を決める。


     ◇


 夕刻。広場。

 台所と道、**二つの“つまずき”**を並べて、短い集いをした。


「今日、川は白くなった。粉は足りなくなりかけた。縄は道に向かなかった。どれも、人の善意の“速さ”が原因だ。

 速いのは良いこと。でも、速さが**“先回り”**に変わると、流れが詰まる」


 僕は地面に、また図を描く。

 人の手と街の手のあいだに小さな網を三つ挟む。

 砂のすだれ/札の一枚/道具の第二の席。

 強制ではなく、合意で止めるための網だ。


「強い網は怒る。弱い網は笑う。

 ぼくらが作りたいのは、笑って止まる仕組みだ」


 子どもが笑い、若者が笑い、遠巻きに聞いていた老人が頷く。

 風が止まり、泉に輪が広がり、薬草が音もなく揺れて戻る。

 街が“うん”と言った。


     ◇


 ひと息ついたところで、リシアがやって来た。

 手には寄付簿。見える方と見えない方、二冊。


「“学院枠”の価格固定、領都の商家にも連絡しておくわ。

 それと、今日の件――“泡”と“偽縄”の話、**掲示板に“やわらかい注意書き”**を載せたい」


「“やわらかい注意書き”?」


「怒らない文で、**“こうしたら街がうれしい”**って書くの。

 怒ると、良い人から先に黙るから」


 いい言葉だ。街は、黙る人にやさしいべきだ。


 エルノアが板に一行。

 ――良い人から先に黙らせない。


     ◇


 その時、フォージベル区から短い笛が二度。

 鍛冶場の合図だ。

 火は無事、指が少しだけ危ない――という知らせ。


 僕とカイル、グレンはすぐに鍛冶場へ。

 学生の一人が、火箸で熱の向きを読み違えて、指先を軽く焼いたらしい。

 大丈夫。やけどは浅い。

 僕は《錬精構式(レンセイコウシキ)》で冷却と軟膏の最適を走らせ、軟膏の温度を静かに合わせた。

 塗って包む。言葉を短く。


「火に近いほど、言葉を短く」

 グレンがいつもの台詞を短く置き、少年は深く頷いた。


 **今日の三つ目の“つまずき”**も、やさしく終わった。


     ◇


 日が沈む。

 共同台所では、“川の泡のための砂のすだれ”の作り方が、すでに“今日の一行”になって掲示板に貼られていた。

 偽縄の籠は、子どもたちが面白がって小さな魚影入れに使い道を増やしている。

 粉の札は、台所の角で一枚ずつ数えられ、夕方の帳簿に収まった。


 やっぱり、街は、うまく回る。

 急がなければ、だいたい回る。


 僕は《会計台帳》を開き、三つの欄を追補する。

 — 水路整備(砂袋・草束):物納

— 学院枠・粉:固定枠×一

— 道具の第二の席:掲示板告知


 注釈は緑。無理なし。


     ◇


 夜。寮の小さな食堂。

 今日の残りの妖精パンを薄く切って、スープに浸す。

 同じ匂いの食卓は、昨日より少しだけ大きい。


「先生」

 フィオが、ためらいのない声で呼んだ。「今日みたいな**“やさしい止め方”**は、本に書けますか」


「書ける。本にして、**“順番”**を付ければ、遠くの街でも使える」


「順番?」とロワン。

「怒らないで止めることから、少しだけ固い網へ。最後まで行っても怒らない。怒りは短く効いて、長く傷を残す」


 カイルがパンを半分にして、誰かの皿に置く。癖になってきた。

 セラは根の音を聞き、リトは鈴を回している。

 エルノアは板を撫でて、今日の一行の下にもう一行を刻んだ。


 ――台所と道は、同じところでつまずく。

 ――強い網より、弱い網を三つ。


 僕は笑ってしまった。もう、物語は街の手にある。


     ◇


 戸を閉める前に、明日の板を一枚用意した。

 ――明日の学び:“返す”の順番。

 泡を返す。粉を返す。道具を返す。“席”を返す。


 風が止まり、泉に輪が広がり、薬草が音もなく揺れて戻る。

 街が“うん”と言った。

 息を吐く。胸は痛くない。

 灯は、人の顔をやさしく照らし、影は眠る場所の形になっていく。


 スローライフは、遅いから強い。

 止めないで、分けるから強い。

 それを、街が今日も教えてくれた。


 夜気が落ちると、街は一度、音をなくす。

 だけど、眠りは沈黙ではない。

 人が息をして、木が息をして、火の残り香が屋根にひそんで。

 その上を、妖精たちの “ひそやかな輪” が通り過ぎた。


 スプリングライト区の泉の手前。

 小さな光が、三つ、四つ、ふわりと漂っている。

 手のひらより軽く、灯火よりあたたかい。


「……見てたよ、今日のこと」


 声をかけたのは、昼間も川を撫でていた水の精霊セラだった。

 けれど今は、ひとに似た姿ではなく、薄い水膜のような影。


 小さな光のひとつが、僕の肩のそばへ寄る。

 **妖精(フェアリー)**の一種。名はまだない。


「川はすぐ怒らないけど、すぐ疲れるよ」

 やわらかい声。人の年齢とは違う時間を持った声。


「だから、弱い網で休ませるんだ」


「うん。やさしい手は、長い手になるから」


 妖精はよく理解している。

 水脈も、畑も、森も、強く握るほど壊れると知っている。


「ねぇ、ゆーま」


「ん?」


「この街、わたしたちの居場所にしてもいい?」


 問われた言葉は、軽い。

 だけど、**意味は重い“誓い”**だ。


 妖精は、適当に住まない。

 長く居ると決めた場所だけに根を下ろす。


 僕は笑う。大声じゃなく、手を広げるでもなく。

 ただ息を整えて、一息だけ、そっと返す。


「もちろん。道と台所があれば、居場所は育つ」


 妖精は楽しげに輪を一つ描いた。

 水面に映る光は、花びらのように散って――

 泉の底に、ひと粒の“種石”が沈んだ。


 それは、妖精郷(フェアリーホーム)の始まりだった。


     ◇


 翌朝。まだ陽が白い時間。


 **鍛冶場(フォージベル区)に、ドワーフの男が立っていた。

 背は低いが、背中がひどく大きい。

 腕には火傷の跡が幾筋もある。“生きた鍛冶”**の印だ。


「見せてもらったぞ、昨日の“石の角”」


 声は低いが、咎めてはいない。

 むしろ、興味と、少しの敬意が混じっている。


「角は街の心臓だ。止まらず、すれ違える。よく見てる」


「教えてもらったんだ。グレンに」


「グレンか。あいつは“火の譜(ふ)”を読める。なら話が早い」


 ドワーフは腰の槌を外し、台に置いた。

 古いが、よく使われてきた槌だ。


「借りに来た。いや、預けに来たと言うべきか」


「預ける?」


「あんたの街は、鍛冶場の音が正しい。

 火と風の間に“怒り”がない。

 だから、槌が腐らない」


 ドワーフは目を細めた。

 火を見てきた者の目だ。


「ここで少し、鍛えなおしたい。

 力も、腕も、生き方も」


 僕は頷いた。


「では、契約しよう」


「雇用契約か?」


「違う。“街の手”との契約。

 仕事の力は、街に残り、あなたは街に居場所を持つ」


 ドワーフはしばらく黙ったあと――

 短く、深く、笑った。


「……そんな契約、初めてだ。

 気に入った。俺は“ブルート”だ。火の子だ」


「ゆーまだよ」


「知ってる。噂は、風より早い」


     ◇


 昼前。広場。


 昨日の“泡騒ぎ”と“偽縄の件”について、ほんの短い告知が貼られた。


やわらかいお知らせ


・泡は三つの小網で止まります

・粉は一枚札で足並みそろいます

・縄は“第二の席”を一緒に決めましょう


街は、あなたと一緒に呼吸します

うまくできない日は、また明日。


 怒る言葉は一つもない。

 だけど、読んだ人の背中が、ほんの少しあたたかくなる文だった。


 リシアが言った通り、

 良い人から先に黙らせないためのやり方だ。


     ◇


 午後。台所裏。


「先生、メロンパンの“ひび”はどうやって作るの?」


 ロワンが聞く。目が真剣だ。


「焦げる手前で、火を弱める」


「どうして?」


「人間も同じだよ。

 熱い心は、美しい模様をつけるけど、焦がすと苦い」


 ロワンは少し笑って、少し頷いた。


「街、今日も、うまく回った?」

「つまずきはあった。でも、止まらなかった」


「じゃあ、成功ですね」


「そう。街は止まらなかった。

 それだけで、今日はよかった日だ」


     ◇


 日が沈む。


 泉の底の種石は、ほのあかく光り始めていた。

 まだ花にはならない。

 けれど、街が“根を張る準備”をはじめた証。


 明日は――

 “返す”の順番を学ぶ日だ。


 返すことは、奪うことじゃない。

 居場所を分かち合う手の形だ。


 街は今日も、静かに“うん”と言った。

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