第2話 代弁者
会社の給湯室。
浅倉が紙コップにコーヒーを注いでいると、隣で同僚の女性がぼそっとつぶやいた。
「また係長、私にだけ残業押しつけて……言いたいけど、言えないのよね」
その瞬間——
給湯室のスピーカーから、澄んだ声が響いた。
「嫌です」
女性も浅倉も、凍りついた。
声は確かに、誰の口からも出ていなかった。
係長が慌てて駆け込んできて、顔を真っ赤にして怒鳴りかけたが、言葉が途中で詰まり、喉を押さえた。
まるで見えない手に[声]を握り潰されたように。
浅倉は悟った。
──これは、もう自分の力ではない。
[NO]が独り歩きを始めた。
―――
翌週、社内は奇妙な静けさに包まれた。
「無理です」「できません」「嫌です」が、あちこちから自動で響き、
上司たちはみな、半ばノイローゼになっていった。
ある朝、社長が記者会見で「働くとは!」と語りかけた瞬間、
全国ネットにその声が乗った。
「――嫌です」
テレビの前で浅倉は笑ってしまった。
笑いながら涙が出た。
どこかで、世界中の[NOと言えなかった人たち]が救われている気がしたのだ。
―――
だが、救いは長くは続かなかった。
スーパーではレジ係が「袋いりますか?」と尋ねるたびに、無機質なスピーカーが答えた。
「嫌です」
誰も、YESを言わなくなった。
結婚式の「誓いますか?」にさえ、教会中に[嫌です]が響いた。
街は沈黙し、人は関わらなくなった。
断ることは自由だったが、誰も[繋がる]ことができなくなった。
浅倉は、自分が望んだ世界を歩いた。
静かで、平和で、息苦しい世界を。
―――
ある晩、街頭スクリーンがひとりでに点灯した。
画面の中で、浅倉自身の顔が映っていた。
そして、スピーカーからあの声が囁いた。
「浅倉さん。あなたも、NOと言いたい相手がいるでしょう?」
彼はゆっくりと首を振った。
「もういい。もう、誰にもNOは言いたくない」
その瞬間、画面が割れ、街中のスピーカーが沈黙した。
翌朝から、誰も[NO]を言わなくなった。
ただし、それは人々が[言えなくなった]のではなく——
[言わずに済むようになった]からだ。
―――
ビルの屋上で、浅倉は風を浴びながら微笑んだ。
「これが……本当の代弁、か」
彼の声は、風に溶けていった。
もう誰の耳にも届かない、静かな[NO]だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます