YES&NO

志に異議アリ

第1話 始まり



「ごめん、また頼んでいい? あの資料、今日中に仕上げといて」


会議室のドアが閉まる音と同時に、浅倉は笑顔を貼りつけたまま軽く頭を下げた。

心の奥で、何かが少しずつ欠け落ちていく音がした。


「……はい。大丈夫です」


本当は[無理です]と答えたかった。

でも、口の中でその言葉は溶けて、形にならなかった。


浅倉を利用しているのは、課長の新谷だった。

彼は人の[NO]を嗅ぎ分ける嗅覚を持っていた。

断れない人間を見抜くと、笑いながら仕事を押し付け、手柄は自分のものにする。


浅倉は毎晩、会社に残って電灯の白い光の中で書類を打ち続けた。

そしてある夜、ようやく限界がきた。


──ふと気づくと、パソコンのモニターの隅に小さなポップアップが浮かんでいた。


【あなたは[NO]を言えないことに悩んでいますか?】




不審な広告だと思ったが、なぜか[はい]をクリックしていた。


【解決します。明日の朝、言葉に力が宿ります】




半信半疑のまま眠りについた。



―――


翌朝。


出社すると、新谷がいつもの調子で声をかけた。

「浅倉くん、昨日の分に加えて今日の資料もやっといて。君、こういうの得意だから」


浅倉は立ち止まり、ゆっくりと口を開いた。


「嫌です」


一瞬、時間が止まった。

空気が、まるで水のように重く凍る。


新谷が笑ってごまかそうとしたその瞬間、奇妙なことが起きた。

彼の顔がぴくりと引きつり、口から言葉が出なくなった。


「……か、課長?」


彼は喉を押さえ、真っ青な顔で倒れ込んだ。

声を[奪われた]ようだった。


浅倉の胸に、冷たい何かが流れた。



―――


その後、会社中が騒然となった。

新谷は声を失ったまま入院。

医者も原因がわからず、「心理的ショックかもしれない」と首を傾げた。


浅倉は自分が何をしたのか理解できなかったが、誰も彼を責めなかった。

なぜか、新谷に代わって浅倉がチームを任されることになった。


その晩。

自宅のノートパソコンに、再び同じポップアップが現れた。


【[NO]は言葉の刃。次は、誰に向けますか?】




浅倉はしばらく見つめたあと、そっとウィンドウを閉じた。


──静寂の中で、彼は初めて思った。

「言えないこと」も罪なら、

「言えること」もまた、刃になりうるのだと。



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