時代が変わる数日前—―その静かな夜に。
難波霞月
夜半。宿直の者も遠くに置き、男は一人、月を見ていた。
男の視線の先には、満月があった。
今年は梅雨の様子がおかしく、降ったりやんだり、にわかに予想がつかない。
男は、農民たちが丹精を込めて育てている田のことを思い――こんなときにまでそのようなことを、と一人自嘲した。
夏の暑さも迫るころ。涼を求めて障子をあけ放ち、じっと外を眺め、それから小半刻が経つ。
今日は折よく晴れ、遠くに黄色い満月が見える。
――天正十年
「おう、殿。まだおやすみになられておりませんでしたか」
どすどすと騒々しい足音が遠くから聞こえてきたかと思うと、庭に面した廊下を通って、一人の男がやってきた。
「やはり
自分よりも六歳年下の宿老は、燭台を持ち、もう片方の手には酒器を下げていた。
「今宵は、月が綺麗ですな」
内蔵助と呼ばれた男は「御免」といいつつも、いささかも遠慮せずに男の寝所に上がる。
「同じ月を肴にするとしても、今は茶よりも酒でしょう」
男が咎めもしないので、内蔵助はさっさと黒塗りの盃を男に押し付け、銚子から澄み酒を注ぐ。
「いつぞやの折りの、
内蔵助がはっはと笑うと、男は静かに苦笑した。
そして、盃に口をつける。
「旨いなあ……あの時の酒は、まずくて苦くて飲めたものではなかったが」
「それは結構。同じ酒でも、心持ひとつで味が変わりますな」
男は、半月ほど前の苦い記憶を思い出した。
主君の刎頸の友が訪れるにあたり、その饗応役を命じられた。
男は、自らが修めた美と教養、それに持てる伝手の全てを動員して接待役をこなしきった。
しかし、最終日の夜の宴席。今となっては、何が理由かわからないが、主君の勘気に触れて、大勢の前で罵倒されたのだった。
「
「それはもうよいのだ。あれがご気性ゆえ、臣下はみな慣れておる。まあ、
男はそういうと、銚子をとって、内蔵助の盃に酒を注いでやる。
「はっは。世の者どもは、殿を清廉で妻思いなどといっておりますが、実態はそんなものですか。男子たるもの、腰の太刀は手入れが肝心ですぞ」
「なんどか遊び
そう言ってから、男はしばし考えこみ、
「……
まるで笑い話かのように呟き、にやりと笑った。内蔵助も、それに不敵な笑みで応じる。
「このままでは、みな、上様に精も根も吸い尽くされますな」
「そのことよ」
男はそういうと、内蔵助に顔を寄せた。宿直の者にすら、聞かせたくない話だ。
「――
すると、内蔵助のそれまでの笑みが、す、と消えた。
「やりますか」
「やる。それが、儂の役目だ。熙子がいないからこそ、後顧の憂いなく、やれる」
「……しかし」
「
豪放で鳴らした内蔵助の額に、汗がひとすじ流れたのを男は見た。
けして、夏の暑さではあるまい。
「今宵のような満月を見て、かつて藤原道長は『欠けることのない我が世』だとおごり高ぶった。今の吉法師は、まさに、それよ」
「しかし、その後は」
「上杉、毛利、北条と組む。柴田殿は上杉に、滝川殿は北条に、羽柴殿は毛利に釘付けだ。下手に戻ってこようなら、後ろから斬られる」
「安土の信雄様、大坂の丹羽様や信孝様は」
「信雄様はじっと守りに入るだろうから捨て置いてよい。丹羽殿と信孝様を畿内の筒井殿をはじめとした諸将で押さえる。
「そして後は」
「柴田、羽柴、徳川、滝川の順だ。柴田殿以外は、懐柔できるかもしれん」
男はそこまで言うと、自らの盃を飲み干した。
内蔵助が、さっと酒を注ぐ。
「すでにそこまでお考えでしたか」
内蔵助の言葉に、男は、ふふ、と笑い、
「いや。さっき考えた。――月を見ながらさっきまで思案していたのだが、にわかにすべての絵図が見えたのだ」
そういうと、盃に目を落とした。
盃の中の澄み酒に、月が姿を落としている。
「おう、
「お前の盃も、水月が映っているな」
男がそういうと、二人は申し合わせたかのように、同時に盃をあおった。
「望月を飲み込みましたな。やりましょう!」
どうせどこかで命を捨てることになる。だったら、派手にやってやろうじゃないか。
男は、こっちをじっと見る内蔵助の瞳から、そんな心意気を感じ取った。
やがて内蔵助は去っていった。
男はまた一人、月を見る。
その心中には、数年前に亡くした妻の熙子の姿が映っていた。
晩年、病を得た妻と、ちょうどこんな月を見ていた。
(「――あなた。月が綺麗ですね」)
妻の何気ない言葉も、今となっては、どんな貴人の言葉よりも尊く思えた。
――信長は討つ。だが、その後のことはわからぬ。
内蔵助にはああいったが、いずれどこかで、儂は誰かに討たれるだろう。
幾方向から攻め立ててくる剛の者たちを相手に、どこまで粘れるか。
しかし、それでいい。
そこまでやって、儂の役目は終わりだ。
――はやく、熙子と月が見たい。
了
時代が変わる数日前—―その静かな夜に。 難波霞月 @nanba_kagetsu
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