時代が変わる数日前—―その静かな夜に。

難波霞月

夜半。宿直の者も遠くに置き、男は一人、月を見ていた。

 男の視線の先には、満月があった。

 今年は梅雨の様子がおかしく、降ったりやんだり、にわかに予想がつかない。

 男は、農民たちが丹精を込めて育てている田のことを思い――こんなときにまでそのようなことを、と一人自嘲した。

 

 夏の暑さも迫るころ。涼を求めて障子をあけ放ち、じっと外を眺め、それから小半刻が経つ。

 今日は折よく晴れ、遠くに黄色い満月が見える。

 

 ――天正十年皐月5がつ二十六日の丹波亀山。



「おう、殿。まだおやすみになられておりませんでしたか」


 どすどすと騒々しい足音が遠くから聞こえてきたかと思うと、庭に面した廊下を通って、一人の男がやってきた。


「やはり内蔵助くらのすけか。その足音は」


 自分よりも六歳年下の宿老は、燭台を持ち、もう片方の手には酒器を下げていた。


「今宵は、月が綺麗ですな」


 内蔵助と呼ばれた男は「御免」といいつつも、いささかも遠慮せずに男の寝所に上がる。


「同じ月を肴にするとしても、今は茶よりも酒でしょう」


 男が咎めもしないので、内蔵助はさっさと黒塗りの盃を男に押し付け、銚子から澄み酒を注ぐ。


「いつぞやの折りの、菩提泉ぼだいせんでござる。腹立ちまぎれに、幾樽かくすねていたのです」


 内蔵助がはっはと笑うと、男は静かに苦笑した。

 そして、盃に口をつける。


「旨いなあ……あの時の酒は、まずくて苦くて飲めたものではなかったが」


「それは結構。同じ酒でも、心持ひとつで味が変わりますな」


 男は、半月ほど前の苦い記憶を思い出した。

 主君の刎頸の友が訪れるにあたり、その饗応役を命じられた。

 男は、自らが修めた美と教養、それに持てる伝手の全てを動員して接待役をこなしきった。

 しかし、最終日の夜の宴席。今となっては、何が理由かわからないが、主君の勘気に触れて、大勢の前で罵倒されたのだった。


御内儀おくさまを亡くされて以降、殿は後添えも娶らず、身を粉にして上様のために働いておられるのに、あの仕打ちとは」


「それはもうよいのだ。あれがご気性ゆえ、臣下はみな慣れておる。まあ、熙子ひろこがのうなった後は、がむしゃらに働き過ぎてアレがダメになったがな」


 男はそういうと、銚子をとって、内蔵助の盃に酒を注いでやる。


 「はっは。世の者どもは、殿を清廉で妻思いなどといっておりますが、実態はそんなものですか。男子たるもの、腰の太刀は手入れが肝心ですぞ」


「なんどか遊びも呼んでみたがな、すっかりいかん。おそらく、柴田修理かついえ殿も、丹羽越前ながひで殿も滝川伊予かずます殿も、そうであろう」


 そう言ってから、男はしばし考えこみ、


「……羽柴筑前サル殿は、お盛んであるようだがな」


 まるで笑い話かのように呟き、にやりと笑った。内蔵助も、それに不敵な笑みで応じる。

 

「このままでは、みな、上様に精も根も吸い尽くされますな」


「そのことよ」


 男はそういうと、内蔵助に顔を寄せた。宿直の者にすら、聞かせたくない話だ。


「――わしは決めたぞ」


 すると、内蔵助のそれまでの笑みが、す、と消えた。


「やりますか」


「やる。それが、儂の役目だ。熙子がいないからこそ、後顧の憂いなく、やれる」


「……しかし」


玉子むすめのことは、幽斎とつぎさき殿がうまくとり計らってくれよう」


 豪放で鳴らした内蔵助の額に、汗がひとすじ流れたのを男は見た。

 けして、夏の暑さではあるまい。


「今宵のような満月を見て、かつて藤原道長は『欠けることのない我が世』だとおごり高ぶった。今の吉法師は、まさに、それよ」


「しかし、その後は」


「上杉、毛利、北条と組む。柴田殿は上杉に、滝川殿は北条に、羽柴殿は毛利に釘付けだ。下手に戻ってこようなら、後ろから斬られる」


「安土の信雄様、大坂の丹羽様や信孝様は」


「信雄様はじっと守りに入るだろうから捨て置いてよい。丹羽殿と信孝様を畿内の筒井殿をはじめとした諸将で押さえる。内裏だいりを確保し、帝を後ろ盾とする」


「そして後は」


「柴田、羽柴、徳川、滝川の順だ。柴田殿以外は、懐柔できるかもしれん」


 男はそこまで言うと、自らの盃を飲み干した。

 内蔵助が、さっと酒を注ぐ。


「すでにそこまでお考えでしたか」


 内蔵助の言葉に、男は、ふふ、と笑い、


「いや。さっき考えた。――月を見ながらさっきまで思案していたのだが、にわかにすべての絵図が見えたのだ」


 そういうと、盃に目を落とした。


 盃の中の澄み酒に、月が姿を落としている。


「おう、水月すいげつですな」


「お前の盃も、水月が映っているな」


 男がそういうと、二人は申し合わせたかのように、同時に盃をあおった。


「望月を飲み込みましたな。やりましょう!」


 どうせどこかで命を捨てることになる。だったら、派手にやってやろうじゃないか。

 男は、こっちをじっと見る内蔵助の瞳から、そんな心意気を感じ取った。



 

 やがて内蔵助は去っていった。

 男はまた一人、月を見る。


 その心中には、数年前に亡くした妻の熙子の姿が映っていた。


 晩年、病を得た妻と、ちょうどこんな月を見ていた。


(「――あなた。月が綺麗ですね」)


 妻の何気ない言葉も、今となっては、どんな貴人の言葉よりも尊く思えた。


 

 ――信長は討つ。だが、その後のことはわからぬ。

 内蔵助にはああいったが、いずれどこかで、儂は誰かに討たれるだろう。

 幾方向から攻め立ててくる剛の者たちを相手に、どこまで粘れるか。

 

 しかし、それでいい。

 そこまでやって、儂の役目は終わりだ。


 ――はやく、熙子と月が見たい。

 


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時代が変わる数日前—―その静かな夜に。 難波霞月 @nanba_kagetsu

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