鏖殺上限
固定標識
慟哭はホールに響かない
これはそう遠くない未来のお話であるが、そう身構えなくてもよろしい。何故ってこれは、テクノロジーの齎した一つの革命のお話ではあるのだが、しかし些細で安心安全で、誰の命も、平和も自由も脅かさない、誰かの耳元を通り抜けてゆく涼しい風のように日常的なお話だからだ。
そして時として過保護という概念は、新たな形状の殺意を生み出すかもしれないという、たかが仮定のお話でもある。
──────────・・・
『日本は世界で一番の安心と安全を手に入れました。それは我が社の技術が齎した人類史の光明と言っても良いでしょう。
2062年に実用段階に踏み入ったアクアプラネットセキュリティ社のセキュリティシステムは、車両や刃物や、重たい鈍器、その他鋭利な物など、あらゆる健康や安全に害なす可能性のある品々に対して、半重力プロテクションを掛けることが出来るようになりました。
これにより世界の不慮の事故に依る死亡者数を、導入十周年を迎えた昨年には、事故の最も多かった2032年の0.01%まで減少させることに成功しました。
近年では我が社のシステム普及率は98%にまで拡大しました。この喜ばしいニュースを受けまして、今、社の目標として【2070年の事故死亡者数ゼロ】を掲げてさせていただきます。
これからも、あらゆる人々の安心・安全の為に、そして未来のために。
アクラプラネットセキュリティは不幸の無い世界を目指して邁進して参ります』
以上が社長のスピーチで、世界平和記念ホールは満席御礼のスタンディングオベーションと盛大な感じだ。耳ぶっ壊けんほどに鳴り響く拍手はまるで、爆弾が一斉に起爆したみたいで心臓に悪い。
笑顔と笑顔と笑顔と、そして偶に泣き顔が、人波の最中から顔を出した。こんなにも正しい表現を私は知らない。
対してステージの脇で待機する私と瑞野くんは白けた顔だ。
何故って碌に給料も上げてくれない社長様が、壇上で何か誇らしげに語っていたら、誰だって面白くは無いだろう。
拍手は永劫のように続いた。たかが四分とか五分を永劫に引き延ばすのだから、退屈とは全く魔物だ。爆音に揉まれながら、欠伸を噛み殺して壁にもたれ掛かる。
微睡みがやって来た辺りで、生憎と拍手の勢いは落ちて来た。
しかし空気も読めずに懸命に拍手し続けている奴が三階席の最前席にいて、私は辟易しながらくだくだと、『こういう輩は自分が目立ちたいばっかりで内容なんて気にしてねえのだ』などと厭世的に視線をそいつの方角へと投げ掛ける。しかし想像に反して大の大人が顔面をくちゃくちゃに煮崩しながら本気の号泣をしていたのだから、私の魂という奴は穢れちまったぜ。
平和と安全と安心、死にたくない人が、不慮の事故で死ななくても良い世界。
実現する訳無いと思っていた理想の未来は、直ぐそこまで来ていた。
「耳いてえっす」
「私も」
瑞野くんは直属の後輩で、入社二年目のそれなりに若き男だ。しかしその腐れ切った目玉と言ったら、どうやってこのスッコスコに崇高な会社の崇高にすっ転んだ面接試験を潜り抜けたんだか、さっぱり予測も付かないレベルである。
無気力と無関心が服を着てほっつき歩いている感じだが、仕事には真面目と言うか忠実と言うか、我が無いので実は結構理想の部下なのかもしれない。
私と瑞野くんは、先ほど社長が登壇していたステージにて、視界を覆い尽くす大量のクラシックソファを見下ろしたり見上げたりしていた。五階席まで観客に解放するのは流石にやりすぎなのではあるまいか(主に仕事が増えるという意味で)、と事前の点検の際には愚痴を零したが、どうも満員だったので、あの社長の先見の明だけはやっぱり本物だ。
事後処理には二人一組の班が三十班配置された。そして私たちの持ち場はまさにこのステージだ。小さな学校のグラウンドくらいのだだっ広さに気が滅入る。今からステージ上のセキュリティが異常を起こしていないか、危険物や拾得物が落ちていないか、目で見て手で触れて確認せねばならない。全く厄介だ。仕事というものは何時だって楽な方が良い。この点で私と瑞野くんは気が合った。
しかし我がアクアプラネットセキュリティ社に入社する連中というのは、目玉をキラキラ発光させながら、きびきび軍隊みたいに動いては、世界の治安の為に身を粉にする人ばっかりで、正直私たちは社内では浮いていた。
多分彼らは、安全と安心に包まれて育ってきた世代だからこそ、命を懸けるくらいの【やり甲斐】という概念を欲しがるのだと思う。事実、我が社は就活生にはちょっと人気だし、知り合った人に会社の名前を伝えると皆尊敬のまなざしで見てくれるので悪い気はしない。
「先輩」
「なにー」
私は振り向く。彼は背中を向けたままだった。
「先輩なんでこの会社入ったんスか」
「お、気になっちゃうかい」
「いや言いたくないなら良いんですけど」
「そこまで言うなら教えてあげよう」
「あはい」
質問主がぽっくり折れたので、私は満足げに鼻息を吹いた。だるい先輩ムーブをしても瑞野くんは意に介さないので、私もつい調子に乗ってしまう。
瑞野くんが他人に興味を示すのは珍しい。
別に人嫌いという訳ではないはずだが、彼が私以外の社員と話しているところは、二年経った今でも見たことが無い。幾ら不愛想でも、別にかわいい後輩であることには変わりないし、頼ってくれるのは嬉しいことだ。
誰も見ていないのに胸を張った。ステージ上にいるからか、何処か演者みたいな気分で私は謳う。
「かつて古道具屋で働いていた時のことなんだがね──」
──────────・・・
店の名前は一木堂と言った。私はそこで、大学二年から四年という、おおよそ青年期の若者が華美な経験を果たし、挫折や成長を遂げてゆく期間に、カビの臭いに包まれながらえっさほいさと働いていた。
その頃には、アクアプラネットセキュリティは有名企業の仲間入りを果たしていた。車両、刃物、鈍器には既に半重力プロテクションが施され、システムエラー以外の事故は相当数減っていた。
というニュースを、私は一木堂の奥深くのレジにて、のんびりとお茶を啜りながら、音声機能の劣化したブラウン管テレビの放つ一種の雑音として聞き流していた。溢れるガラクタで店内は常に片付いていなかったが、半年も働けば慣れてしまった。
その頃は、まさかテレビに映るその会社で働くことになるなんて、夢にも思っていなかった。それよりも目の前の
働くと言っても、私がしていたのは大抵が商品の整理だった。客は殆ど来ないし、注文もだいたい通販だった。私が一木堂を志願した際、店長の妖怪爺(近所の小学生の恐怖の象徴)には『骨董品に興味があってぇ~』などと猫撫で声で伝えたもんだが、どうも実際の所は『ほえ~ボロっちい店。店番楽そ~』という、【仕事は楽な方が良い】を人生の標語とする現在と、そう変わらないモチベーションで働いていた。私はあの頃からさっぱり変わっていない。小じわは増えたが。
斯くして幸か不幸か、一木堂の店番のアルバイトを任された私は、しかし驚いた。確かに客は滅多に来ないのだが、ネット通販では中々ガラクタの売れ行きが良いのだ。おかげで商品整理とピック作業は、毎日の暇つぶしには事欠かない程度に途切れなかった。
埃の積もった中古の包丁だとかトンカチだとか、かんざしだとかフライパンだとか、汚れと錆びの沁みついたこんなもんを良いお値段で買ってしまう大富豪は、果たしてどんな奇人なのだろう。と私は呆れていた。けれども現世の理として、捨てる金あれど拾う金は犯罪である。私は己の比較的安めな時給を思い浮かべた後、ケッと息を吐き、それから新鮮な空気を吸い込むと、呼吸を止めて骨董品の救出作業へと果敢に挑むのである。
私は不思議だった。安全と安心が保証されたハイテクノロジーな時代に於いて、どうしてこんな煤けた骨董品なんぞが売れるのか甚だ疑問だった。
確かにこの世にはマニアと呼ばれる方々がいて、そういう人たちが得てして経済を偏った方向に回したりするものなのだけれども、それでも不思議なのは、素人目で見ても価値など無い、がらくたが結構売れてしまうことだ。
私は首を捻り続けた。何故だ何故だと思案し、夏が過ぎ冬が過ぎた。
そして肺の中までカビと埃の臭いが沁みついた辺りで、とある事実に気付き、妖怪爺を問い詰めた。
「店長」
「なんだ」
いつも店の奥に引き籠っている不愛想な妖怪爺が、殊更怪訝そうに私を見た。猛禽のような目玉がぎろんぎろんと、無駄に派手に動く。彼は目が悪かった。だから、気付いていないと思ったのだ。
「店の骨董品が殺人に使われています」
レジの脇にてブゥンと喧しい音をたて続けるブラウン管テレビは、私に沢山のニュースを教えてくれた。
近年、殺人と自殺が増えていること。そして不慮の事故死も増えている。事故は減ったと言うのに、事故死は増え続けていた。当時のアクアプラネットセキュリティ社はどんどん株価が落ちた。ブラウン管テレビは、混沌とした世界の黒々とした渦を私に見せつけた。
私は商品整理とピック作業と、もう一つ、発送作業も行っていた。だから何となく、変わった人の名前だとか、覚えやすい地名なんかは頭に残ってしまっていた。だから気付いたのだ。
【一木堂の商品が殺意の触媒になっている】と。
今思えば、私を含めて世界は平和に酔っていた。
セキュリティと罰則を越えてまで、死という概念に取り憑かれる人々のことを、全く想定していなかった。安心と安全がこの世に充満すれば、新たな悲しみも、憎しみも生まれることは無く、誰もが微笑んで優しくなれるんじゃあ無いかって、希望論を抱いていたのだ。
妖怪爺は笑った。黄ばんだ歯を、奥歯まで剥き出しにしながら笑った。顔中に刻まれた深く長い皺が、ぐしゃりと一気に歪んで、顔面の中央を指した。満面の笑みだった。そして満面の笑みというものは、絶望の泣き顔に等しいこと、そして絶望の泣き顔とは、やはり全く、笑顔と相似であることを、私は知った。
「セキュリティの進歩により、世界の殺意は一極化した」
彼の喉からは黒い霧が噴き出ていた。少なくとも私にはそう見えていた。
「システムが蔓延する以前には、殺意が漫然と散らばっていたのだ。目に付くあらゆる物体が殺意の触媒になった。包丁、鉄槌、小石、薬毒、鉄柱──あらゆる物が人殺しの道具だった。そして、それに伴うリスクが可視化されていた。血痕や指紋といった痕跡の想定が容易だった。だから殺意は適度な指向性のバラつきに依って分散されていた」
セキュリティに守られた時代と環境が、当時の私たちの周りには立ち込めていた。何をしても死なない、何をしても危なくない。花火も川遊びも、本気のチャンバラも、誰も殺さない。
それは幸せだと思っていた。実際幸せだった。安全と安心が、悪いもののはずが無い。
「だが今は違う。今はもう違うのだ。あらゆる物体に、人間は殺意を込められない。そして想定も出来なくなってしまった。前提、仮定、結果。殺意が辿る道を、誰もが忘れ去った。愚かしくも最早誰も意識しないことだが、殺意の発生は偶発的では無い。偶発的な事故が原因になる殺意など、極めて稀だ。殺意というものは何時だって、意図して育てられてゆく。環境に。他人に。自分自身に。人が存在する限り憎しみも悲しみも無くならない」
偶然に大切な何かを喪うことは、誰にだって在りえることで、それは耐えがたい苦痛だ。
けれども必然の不幸はもっと恐ろしく、ずっと悲しい。
悪意は消えない。
悪意の根源が──死なない限り。
「だがセキュリティシステム構築以前に製造された骨董品には殺意を込められる。当然ながら、殺意を込めることは殺意の発散に繋がる」
妖怪爺は息巻いていた。己のこめかみを何度も何度も手の平で叩きつけていた。脂ぎった音が汚らしく鳴る。けれども死んだガラクタたちに吸い込まれて、その音は響かない。
彼がどれだけ本気で、己の頭を殴ろうと、彼が怪我をすることは無い。
それがこの世界のルールなのだ。
「漫然と広がる殺意の世界は、セキュリティシステムの檻に閉じ込められ、行き場を失って一つの混沌の塊となった。解放できない欲望、想いは檻の中で飼い殺しだ。だから人々は、解法の手立てを──檻を壊す古代の遺産を欲しがった。混沌を一つの方向に纏め上げるのは偏った思想と方法だというのは、誰だって無意識に知っている」
私は一瞬で恐ろしくなった。店長から目を背けて、商品棚の方へと振り返ることが出来なかった。だってその全ての死んでしまったガラクタたちは、人を殺し得る無音の兵器なのだ。
殺意を持つ人間が、彼らを手に取れば。いとも容易く人命は脅かされる。
「たった一つの手段さ。世界に、たった一つだけ残された冴えた手段こそが、骨董品に依る殺意の具現だ。己を苦痛から解放する手段が一つしか無いならば、人はいくらでも残酷な決断を遂げられる。方法はこれしか無いのだと思い込める」
妖怪爺は人生最大の笑顔を天下に晒した。
「商売とはバカ向けに行うのが、最も儲かるのだ」
少しして私は一木堂を退職し、就職活動を始めた。
アクアプラネットセキュリティに志願したのは、何となくだ。
漠然とした混沌の想いの中に、私は、【人を助けたい】という高尚な宝物を見つけたのだ。
漠然とした混沌に指向性を与えるのは、偏った想いだ。
私は店長の殺意に触れて、私の中にある茫漠とした本棚を整理することが出来た。
その点に関しては、彼には感謝しているし、思い出したら墓参りくらいは行ってやっている。
私が退職した四日後に、店長は刺されて死んだ。
錆びた包丁でも、人を裁くには十分過ぎたらしい。
──────────・・・
瑞野くんは何も言わなかった。私も喋り過ぎたという実感はあったから、反省の意を込めて落ち着くまで黙っていることにした。
黙々と行う作業は嫌いではない。今も昔も、地味な仕事が私は好きだ。
「憶測に過ぎない話なんですけど」
けれども、ブラウン管テレビと会話していたあの頃と変わらずに、私は静寂も嫌いだったから、瑞野くんが話しかけてくれた時には、分不相応に舞い上がったりしたのである。
彼は伝う。己の中に渦巻いた混沌の感情の、その端を掴んで引っ張って見せる。
すると世界の混沌という絨毯は、容易く一本の意図となり、彼の口から吐き出された。
「俺たちが知らないだけで、事故に見せかけた殺人なんてのは、日本にありふれていたんじゃないですかね」
何を返答しても意味が無いことを私は知っていた。瑞野くんの事情を知る私には何も言えなかった。
「だったら、そういう偽物の事故が無くなったら、偽物が無くなったら、本物だけ残っちゃうのかなって、俺」
「……本物って?」
「本物の殺意」
我の無い声が響かずに落ちた。
「人の殺意は、もう何処へも行けない。檻の中で停滞して、その濃度はどんどん増してる。漠然とした流体だったそれは、何時か形ある存在に進化するんじゃないですか。妄想ですけど」
言い残すと彼は作業に戻った。我に返ったような感じだった。まるで取り憑かれていたかのように、その弁舌は流暢で。私は気付く。これは、瑞野くんがずっと考えていたことなのだと。
「殺意は何処へ向かうのかな」
無意識の質問だった。
しまったと口を塞いでも、しかし、吐いた唾は飲めない。
「心じゃないですか」
彼のレスポンスは速かった。光より速い闇が、彼の心を足元から染め上げてゆく。
「命が絶てないんだったら、心を折るしかないんじゃないですか。殺したいくらい憎い奴がいる。でも、事故に見せかけることすら出来ない。不慮の事故死を願うことも出来ない。そんな想像すら意味が無い。夢を見ることも叶わない。祈りは届かない」
脳裏で眩むのはかつて身に受けた言葉だった。妖怪爺が私に告げた一つの真理。殺意は必然的に生まれるもので、そんな殺意を背負った人間は、それを解消したがって、唯一の抜け道を探してしまう。
けれども、どうだ。妖怪爺の宣う【極めて稀な場合】の殺意が、目の前に在ったならば。
完全に偶発的な事故によって起きてしまった不幸な死によって芽生えた殺意は、何処から何処へ。誰から誰へと伝播するのか?
「絶望しながら生きて、墓守を続けるのは最悪な気持ちですよ」
刹那私の脳内空間に、荒涼とした殺風景が現れた。安穏とした現実を噛み砕いて凶悪な妄想が思考を支配した。荒れ果てた土地と黒く吹き荒ぶ低い空が彼を挟んでいた。それらの持つ重力に潰されそうになりながら、瑞野くんは地面を見つめている。端の欠けた墓石を見下ろしている。
「だからこれからの殺意の形は、きっと殺人よりも残酷な形状に尖ってしまう。殺したい奴の心に、死にたいくらいの傷を負わせるんだ……でも今の世界じゃ自殺は出来ない。じゃあ生き地獄だ」
見間違いだと思い込もうとした。
しかし私の視線は、確かに彼の、瑞野くんの泣き顔を
「これからは心の殺人が増える」
泣き顔に全く相似の笑顔を捉えていた。
「それは……」
私は訊こうとした。してしまった。しかしすんでの所で言葉を呑み込む。
だが瑞野くんは聡かった。彼は私の言葉の、その先を無意識の内に嗅ぎつけると、「ええ」と低い声で相槌を打った。私たちは作業に戻る。静寂が鳴り響くステージ上で私はその硝子の結界を破らぬようにと、声を殺して泣いた。
瑞野くんのご両親と妹さんは、セキュリティの誤作動で亡くなった。
彼はまだ、自己を取り戻すリハビリに励んでいる。
鏖殺上限 固定標識 @Oyafuco
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