先生の逸話
@gagi
先生の逸話
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これは幻影である。
盾の中の世界で起こった事と思え。
その女は月を見ていた。
斑入りの大理石の欄干に肘をついて。一人で夜空を見上げていた。
女の名をクララという。
大理石の欄干に囲まれた庭には黄な花、赤い花、紫の花、紅の花――凡ての春の花が咲き乱れている。
その花々の馥郁たる香りに丘の上の庭は満たされていた。
欄干の遥か下には青絹を敷いた様な海がある。
ちょろちょろと磯を洗う春の波が一条の白布と見える。
潮風が吹くたびにクララの金色の髪が柔かに揺れる。
宵の空には満月が浮かんでた。
月には浜辺を歩く蟹が鋏を振り上げ踊るような模様がある。
ここは南の国である。
クララの故郷は北にある霧深い国だ。
その国の満月の模様は書に親しむ老婆の姿をしていた。
クララは月を見ながら古巣の夜鴉の城を思った。
クララは今が幸せである。
だからと言って過去を懐かしまないということは無い。
また潮風が吹いてクララの金色の髪を揺らした。
南の国の春であっても夜風は冷える。
クララは冷える己の身体を両腕で抱いた。
そのときだ。
背後から草を踏む音がした。
そうしてクララの肩に外套が優しくかけられた。
クララが振り返る。
そこには目と髪が石炭のように黒い男がいた。
身の丈六尺一寸の、痩せてはいるが満身の筋肉を骨格の上へ叩きつけて出来上がったような体躯の男だ。
名をウィリアムという。
ウィリアムはクララと夫婦の関係である。
ウィリアムがクララに言った。
「我君を愛す」
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……なんか違くね?
余は書生が見せてきた英訳に目を通してそう思った。
全体として訳に間違いはない。
ただ一つだけ。
『我君を愛す』という台詞が、以降の物語の展開を考慮に含めても不自然なのである。
英文のままならば、なんら違和感はない。
しかし日本語訳になると文章全体の中でこの『我君を愛す』だけが悪目立ちしているのだ。
「君、他の訳は思いつきませんか」
余が書生に訊ねた。
「ちょっと思いつかないぞな、もし」
「そんなことはないでしょう。ほら、考えて」
「しかし先生、原文は[I love you]ぞな、もし。
我君を愛す、が正しいと思うぞな、もし」
確かに、この書生が言うことはもっとだ。
直訳ならばこの書生が正しい。
しかし余が主張したいのは物語の文脈上、日本語だと奇妙な感があるという話だ。
他に適当な意訳があろうという主張だ。
ちょっと想像してみてほしい。
舞台は日本だ。
お嬢さんが一人縁側に出て月夜を眺めている。
雨戸が開いて外から美しい月の光が部屋の入口まで射し込んでいる。
夜風に身体を冷やすお嬢さん。
部屋の月明かりに影を落として男が一人、後ろからお嬢さんの肩にそっと羽織をかけてやる。
そうしてその傍でそっと一言、
『我君を愛す』
……いきなりどうしたお前? と思うだろう。
お嬢さんが吃驚してしまうだろう。
そんな、感想を抱いてしまうと思うのだ。
日本語訳を読む日本人の感性からすれば。
訳の課題となっているこの作品において、[I love you]という台詞は物語の進行上さほど重要な意味を持たない。
だから何かこう、当たり障りのない会話文を意訳として差し込んでやれば済む話だ。
以上のことをこの書生に説明しようとすれば、
『どうして? どうして?』
『ぞな、もし? ぞな、もし?』
と話が進まず無駄に骨が折れるだけのような気がする。
だから余は極めて簡潔に、書生に向けてこう言った。
「日本人はそれほど直接的な愛の表現をしないでしょう。
『月が綺麗ですね』とでも訳しておけば足ります」
書生は最初、何も諒解していない顔でぽかんとした。
幸いすぐに合点が行ったようで、目を見開いてその瞳に爛爛と光を宿す。
「わかりましたぞな、もし!
流石は先生! とってもロマンチストですぞな、もし!」
……なんだか余の伝えたい『当たり障りのない会話文を意訳として差し込んでやれ』以上のことを勝手に諒解されているような気がする。
まあ、よかろう。
面倒だから突っつかずに放置することにした。
その書生の傍を離れて再び教場をゆるゆる歩く。
他の書生の見回りをする。
教場の硝子窓の外を眺める。
澄み渡る秋の空に残月がぼんやり浮いている。
長閑な午前の刻はゆるゆると過ぎてゆく。
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※この作品はフィクションです。
実在した夏目漱石とは関係があります。
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