第3話 リバウンド
世界が音を取り戻したのは、突然だった。
轟音。全身を貫く激痛。頭蓋の内側を誰かが金槌で叩いているような衝撃。佐藤優作は床に倒れ込み、喉の奥から悲鳴が漏れた。
「――ッ、が、ああ……!」
視界が白く明滅する。吐き気。めまい。体中の神経が千切れそうな痛みを送ってくる。これが〈アノード〉のリバウンド――四十八時間の時間遡行から、強制的に「現在」へ引き戻される代償だ。
冷たいタイルの感触。蛍光灯の眩しさ。空調の音。
ここは、2080年5月1日。研究棟の地下三階。装置のシールド内部。
優作はしばらく動けなかった。呼吸を整え、震える手で額の電極を剥がす。汗が滲み、シャツが背中に張り付いている。全身が鉛のように重い。
壁の時計を見上げる。午前4時34分。
跳躍開始から、ちょうど二分後。肉体的には二分間しか経っていないが、意識は三月二日から四日までの四十八時間を過ごしてきた。脳だけが老化したような、奇妙な疲労感。
「……くそ」
呟きながら、優作はゆっくり立ち上がった。足元がふらつく。壁に手をつき、深呼吸を繰り返す。やがて痛みが引き、思考が戻ってくる。
第一回跳躍――失敗だ。
友沢一通には接触できたが、何も変えられなかった。彼は完全に警戒し、距離を取った。四月一日への言及で動揺は見せたものの、それだけだ。説得どころか、まともな会話すらできなかった。
そして、謎のメッセージ。
「答えは小学校にある。2030年の秋、彼に何があったか調べろ」
優作はシールドから出て、研究室の端末を起動した。記憶が鮮明なうちに、得られた情報を記録する必要がある。タイムリープの記憶は時間とともに薄れる――特に細部は曖昧になりやすい。
キーボードを叩く。
〈第一回跳躍記録:2080/03/02 09:00 → 2080/03/04 09:07〉
結果:接触成功、説得失敗
観察事項:
- 友沢は3月上旬から意図的に接触を避けている
- 四月一日への言及で明確な動揺
- 謎のメッセージ受信(送信元不明、番号追跡不可)
- 指示内容:2030年秋の出来事を調査
優作は指を止め、モニターを見つめた。
2030年。五十年前。友沢と優作が八歳だった年。二人が初めて同じ小学校の同じクラスになった年。
記憶を手繰る。
あの頃の友沢はどんな子供だったか? 明るくて、成績優秀で、クラスの人気者だった。いつも笑っていて、誰とでも仲良くなれた。優作も彼に憧れていた。完璧な少年――誰もがそう思っていた。
だが、本当にそうだったか?
優作は目を閉じた。記憶の断片が浮かぶ。
秋の放課後。校門の前で立ち尽くす友沢の後ろ姿。なぜか家に帰りたがらなかった日。体育の着替えで見えた、腕の内側の小さな青痣。「階段から落ちた」と言っていたが、妙に言い訳じみていた言い方。
親からの虐待――あらすじにあった設定だ。だが当時の優作は、それに気づいていなかった。いや、気づこうとしなかった。
「俺は、見て見ぬふりをしていたのか……」
自責の念が胸を締め付ける。
優作は端末を操作し、データベースにアクセスした。国立研究所の職員権限なら、ある程度の公的記録には触れられる。小学校の在籍記録、住民票の履歴、医療機関の受診歴――個人情報保護法の範囲内で、探せるものは探す。
検索。
〈友沢一通:2030年度記録〉
画面に表示されたのは、予想通りの優等生の履歴だった。成績は常に上位。欠席日数はゼロ。保健室の利用記録も特に目立ったものはない。表面上は、何の問題もない子供だ。
だが――
優作は別のデータベースに切り替えた。児童相談所の記録。虐待通報履歴。警察の家庭内トラブル対応記録。
こちらは職権では閲覧できない。アクセス拒否のメッセージが表示される。
「……別の方法を考えないと」
優作は椅子に深く座り込んだ。
五十年前の出来事を調べるには、どうすればいいか? 当時の関係者に話を聞く? だが誰に? 担任教師は今どこにいる? クラスメイトは覚えているか?
それとも――直接、その時代に跳ぶべきか。
2030年の秋。友沢が八歳の時。何かが起きた、その瞬間に。
優作は〈アノード〉を振り返った。装置はまだ冷却中だ。連続使用には最低六時間の冷却期間が必要。焦って起動すれば、回路が焼ける。
待つしかない。
優作はコーヒーを淹れ、研究室の窓際に立った。外はまだ暗い。遠くでサイレンが鳴り続けている。世界大戦の余波は、一ヶ月経った今も続いている。食料配給、電力制限、戒厳令。日常は徐々に崩壊している。
このまま何もしなければ、世界は終わる。
友沢を止めなければ、四月一日の銃声は繰り返される。
「一通……お前は、いつから壊れていたんだ?」
呟きは誰にも届かない。
優作はコーヒーを飲み干し、再び端末に向かった。別の角度から調べる。友沢の家族構成。父親は官僚、母親は専業主婦。一人っ子。表向きは裕福で円満な家庭。だが、虐待は外からは見えない。
優作は友沢の父親の名前を検索した。
〈友沢健三:元内閣官房副長官〉
経歴が表示される。エリート官僚。複数の政策立案に関与。2048年に政界引退。2063年、心不全で死去――友沢が総理大臣になる三年前だ。
母親の情報は少ない。旧姓・宮本彩。2051年に病死。死因は記載されていない。
両親はもういない。話を聞くことはできない。
優作は画面をスクロールし続けた。何か、手がかりはないか。友沢の過去に繋がる糸は――
その時、端末が通知音を発した。
新着メール。送信元は――
〈不明な送信者〉
優作の背筋が凍る。
メールを開く。本文はシンプルだった。
「佐藤優作。あなたは正しい選択をした。だが、まだ足りない。2030年10月17日、午後3時30分。友沢家の裏庭。そこに全ての始まりがある」
日時まで指定されている。
優作は返信しようとしたが、またもやエラー。送信先が存在しない。
「誰なんだ、お前は……!」
叫びたい衝動を抑え、優作は深呼吸した。冷静になれ。考えろ。
このメッセージの送り主は、明らかにタイムリープを知っている。そして友沢の過去も知っている。味方なのか? 敵なのか? それとも――
ふと、恐ろしい可能性が浮かんだ。
もしかして、この送り主も「未来から来た」のではないか?
優作以外にも、時間を遡る方法を持つ者がいる?
〈アノード〉は優作が開発した唯一の装置だ。だが、並行世界や別の時間軸から干渉している可能性は? 理論上、あり得ない話ではない。
「いや、今は推測している場合じゃない」
優作は立ち上がった。六時間後、装置は再起動できる。その時、2030年10月17日へ跳ぶ。指定された時刻に、指定された場所へ。
それまでに、準備をしなければ。
優作は研究室の資料棚から、古い地図データを引き出した。2030年当時の東京の住宅地図。友沢の実家の住所は覚えている。高級住宅街の一角。大きな庭付きの一軒家。
裏庭――そこで何があった?
優作は地図を見ながら、頭の中でシミュレーションを始めた。八歳の友沢。秋の午後。裏庭。虐待の痕跡。もしくは、決定的な事件。
タイムリープで到着した瞬間、優作は成人の姿だ。五十年前の世界に、2080年の記憶を持つ五十八歳の男が現れる。不審者として通報される可能性もある。慎重に動かなければ――
研究室の扉が開いた。
優作は反射的に振り返る。
入ってきたのは、同僚の研究員・木下だった。疲れた顔をしている。
「佐藤さん、まだいたんですか……って、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっと徹夜で」
優作は平静を装った。〈アノード〉の実験については、まだ誰にも話していない。極秘プロジェクトとして、優作一人で進めてきた。
木下は心配そうに眉を寄せた。
「無理しないでくださいよ。戦争始まってから、みんなピリピリしてますけど……あ、そういえば、総理のこと、佐藤さん知り合いでしたよね?」
優作の手が止まる。
「……ああ、昔の友人だ」
「やっぱり。ニュースで顔見るたび、そういえばって思い出してました」
木下は肩を落とした。
「信じられないですよね。あんなことするなんて。でも、何か理由があったのかな……」
理由。
そう、友沢には理由があった。サイコパス的思想――あらすじにある設定。だが、その思想はどこから生まれた? 生まれつきの気質か、それとも環境が作り上げたものか。
虐待の傷は、人の心をどこまで歪ませるのか。
「木下さん」
優作は振り向いた。
「もし、過去を変えられるとしたら――変えますか?」
木下は困惑した表情を浮かべた。
「過去を? それは……どういう意味ですか?」
「たとえば、友人が間違った選択をする前に戻って、止められるとしたら」
木下はしばらく考え込んだ。
「……わからないです。変えたら、今の自分も変わっちゃうかもしれないし。でも、大切な人を救えるなら……やっぱり、戻りたいかも」
優作は小さく頷いた。
「そうですか」
「佐藤さん、何か変なこと聞きますね。哲学ですか?」
「ちょっとした思考実験です」
木下は苦笑した。
「佐藤さんらしいや。じゃ、僕は仮眠室で少し寝ます。あんまり無理しないでくださいね」
扉が閉まる。
再び一人になった研究室で、優作は時計を見上げた。
午前5時12分。あと五時間弱で、〈アノード〉は再起動できる。
五時間後、優作は五十年前へ跳ぶ。
2030年10月17日、午後3時30分。友沢家の裏庭。
そこに、全ての始まりがある。
優作は白板に日付を書き込んだ。そして、その下に一行。
「間違いを止めるのは正義じゃない。約束だ」
キャッチコピーの言葉を、もう一度噛み締める。
世界を救うためではない。友として、彼を救うために。
優作は五時間の待ち時間を使い、2030年の社会状況を調べ始めた。当時の服装、流行、テクノロジーのレベル。
そして――八歳の友沢一通と、どう接触するか。
四十八時間しかない。その中で、友沢の心に何かを残さなければ。
時計の針が進む。
午前10時。〈アノード〉の冷却完了を示すランプが緑に変わった。
優作は深呼吸し、再びシールドの中に入った。電極を額に貼り、ターゲット時刻を入力する。
〈到達先:2030-10-17 15:30(JST)〉
五十年前。秋の午後。
友沢一通が、まだ壊れる前の時代へ。
「今度こそ――」
優作はスイッチに手を伸ばした。
世界が再び音を失う。光が反転し、時間の川が逆流を始める。
優作の意識は、遥か過去へ落ちていく。
八歳の少年と、裏庭の秘密へ。
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