第4話 裏庭の秘密

秋の匂いがした。

金木犀の甘い香り。土の湿った匂い。遠くから聞こえる子供たちの声。

意識が戻る。最初に感じたのは、体の軽さだった。

佐藤優作は目を開けた。

視界が――低い。地面が近い。見上げれば、ブロック塀がやけに高く見える。

手を見る。小さな手。八歳の子供の手だ。

「……成功、した」

声が出た瞬間、驚愕する。高い声。幼い声。これは自分の声――五十年前の、八歳の自分の声だ。

優作は立ち上がった。体が軽い。五十八歳の疲労した肉体とは全く違う。筋肉は未発達で力はないが、動きは軽快だ。

住宅街の路地裏。見覚えのある風景。だが全てが大きく見える。電柱も、家も、空も。

八歳の視界。

優作は深呼吸した。脳には五十八歳の記憶がある。タイムリープの理論、友沢の未来、世界大戦の記憶。だが肉体は八歳。この体で、どう動けばいい?

ポケットを探る。子供用のズボンのポケットから、小さな時計が出てきた。デジタル時計。午後3時26分。指定時刻まであと四分。

記憶を辿る――この日、八歳の自分は何をしていた? 友沢の家の近くにいたはずだ。遊びに行く約束をしていたような……

違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。

優作は路地を走った。小さな足で、必死に地面を蹴る。息が上がる。子供の体力では、すぐに疲れる。だが、止まるわけにはいかない。

友沢家の黒い門扉が見えた。

優作は門の前で立ち止まり、息を整えた。ここから裏庭に回る必要がある――いや、待て。

八歳の子供なら、普通に遊びに来たことにすればいい。不審者扱いされる心配はない。

だが、裏庭に行く理由は?

優作は考えた。いや、考えている時間はない。もう午後3時29分だ。

優作は門を開け、敷地内に入った。玄関ではなく、家の横を抜けて裏庭へ向かう。

芝生と花壇の広がる裏庭。

そして――いた。

庭の中央に、二つの人影。

スーツ姿の中年男性。友沢健三。

そして、地面に膝をついている小さな少年。友沢一通。

「何度言えばわかるんだ」

健三の冷たい声。

「九十八点? お前には百点を取れと言ったはずだ」

優作の足が止まった。

これが、虐待。

五十八歳の記憶が、八歳の胸の中で疼く。止めなければ。あの男を――

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

友沢の声が震えている。

「謝れば許されると思うな。お前は友沢家の長男だ。完璧でなければならない」

健三が少年の腕を掴む。引き摺り起こす。

「もう一度やり直せ。今日中に百点が取れるまで、夕食はない」

「でも、もう何回も――」

「言い訳をするな!」

手が振り上げられる。

優作は叫んでいた。

「やめろ!」

健三と友沢が、同時にこちらを向いた。

「……誰だ、君は」

健三の声は冷たいまま。

優作は一歩前に出た。八歳の体が震える。怖い。この男は怖い。だが――

「佐藤優作です。一通の、友達」

「友達?」

健三は眉を寄せた。

「アポイントもなしに何をしている。今は教育中だ。帰りなさい」

「教育じゃない!」

優作の声が大きくなった。

「それは虐待だ!」

一瞬、空気が凍った。

健三の表情が変わる。冷たさが、さらに深まる。

「……何を言っている、君は」

「九十八点で殴るなんておかしい。一通は頑張ってる。それなのに――」

「黙れ」

健三の声が、優作の言葉を断ち切った。

「子供が、教育に口を出すな。帰れ。二度と来るな」

優作は地面に立ち尽くした。八歳の体では、この男に敵わない。

友沢一通が、こちらを見ていた。

涙を浮かべた瞳。赤く腫れた頬。そして――困惑した表情。

「優作……」

友沢は小さく首を横に振った。

「いいんだ。帰って」

「でも――」

「帰ってよ!」

友沢が叫んだ。

「これは僕の問題だから。優作には関係ない」

優作は息を呑んだ。

友沢は、自分を庇っている。優作が巻き込まれないように、拒絶している。

「一通……」

「早く帰って」

友沢はそう言って、視線を逸らした。

健三は優作を睨んだ。

「聞こえたか? 帰りなさい。これは家庭の問題だ」

優作は拳を握り締めた。悔しい。無力だ。八歳の体では、何もできない。

だが――ここで引き下がるわけにはいかない。

「もし一通に何かあったら」

優作は震える声で言った。

「僕、警察に言います。児童相談所にも言います」

健三の表情が、僅かに動揺した。

「……何を言っている」

「一通の体、傷だらけじゃないですか。それ、証拠になります」

優作は必死に記憶を辿った。2030年の児童虐待防止法。通報義務。学校の対応。

八歳の子供が知っているはずのない知識。だが、今は構っていられない。

「君は……」

健三が一歩近づいた。

「どこでそんなことを覚えた?」

「テレビで見ました」

優作は即座に嘘をついた。

「児童虐待のニュース。警察に言えば、調べてくれるって」

健三は数秒、優作を見つめた。

やがて、小さく鼻で笑った。

「子供の戯言だな。好きにしろ。だが、証拠もなく虚偽の通報をすれば、君の親が責任を問われる」

優作の呼吸が止まる。

そうだ――この時代の自分には、親がいる。優作の両親は健在だ。

もし通報して、それが「虚偽」だと判断されたら――

「さあ、帰りなさい」

健三は冷たく言い放った。

優作は動けなかった。友沢を見る。彼は地面を見つめたまま、何も言わない。

――何もできない。

優作はゆっくりと後ずさった。裏庭を出て、路地へ戻る。

走った。小さな足で、必死に走った。

角を曲がり、人気のない場所で、優作は壁にもたれた。

「くそ……!」

八歳の拳で、壁を叩く。痛い。力がない。何もできない。

涙が溢れた。

子供の体は、感情をコントロールしづらい。五十八歳の理性があっても、八歳の脳は涙を止められない。

「何も、変えられない……」

呟く。虐待を目撃した。止めようとした。だが、何も変わらなかった。

優作はしゃがみ込んだ。顔を膝に埋める。

どうすればいい? このまま四十八時間が過ぎれば、何も変えられずに現在へ戻る。友沢は虐待を受け続け、心は歪み、そして――

「優作?」

声がした。

顔を上げる。

そこに、友沢一通が立っていた。

八歳の友沢。赤く腫れた頬。涙の跡。それでも、無理に笑おうとしている顔。

「……一通」

「ごめんね」

友沢は隣に座った。

「さっき、怒鳴っちゃって」

「いや、俺が勝手に――」

「でも、ありがとう」

友沢は小さく笑った。

「優作が怒ってくれて、ちょっと嬉しかった」

優作は何も言えなかった。

友沢は空を見上げた。

「お父さん、厳しいんだ。いつも百点じゃないと怒る。でも、それは僕のためだから」

「違う」

優作は言った。

「あれは、お前のためじゃない」

「え?」

「あんなの、教育じゃない。ただの暴力だ」

友沢は黙った。

優作は続けた。

「一通、お前は悪くない。九十八点でも、すごいことだ。お前は十分頑張ってる」

「でも――」

「でも、じゃない」

優作は友沢の肩を掴んだ。

「お前は、完璧じゃなくていい。失敗してもいい。それでもお前は、お前だ」

友沢は目を見開いた。

「優作……」

「俺は、お前の友達だ。どんなお前でも、友達だ」

友沢の目から、涙が一筋流れた。

「……ありがとう」

二人はしばらく黙って座っていた。

秋の風が吹き、落ち葉が舞う。

優作は思った。これで、何かが変わるだろうか? この言葉が、友沢の心に届くだろうか?

わからない。だが――

「なあ、一通」

優作は言った。

「もし辛いことがあったら、俺に言え。一人で抱え込むな」

友沢は小さく頷いた。

「……うん」

「約束だぞ」

「約束」

友沢は笑った。少しだけ、明るい笑顔だった。

優作は立ち上がった。時計を見る。午後4時15分。あと四十時間弱。

「じゃあ、俺は帰る」

「うん。また明日、学校でね」

「ああ」

優作は歩き出した。

心の中で、自問する。

これで、何かが変わったのか? 友沢の未来は、変わり始めたのか?

答えは、わからない。

だが――少なくとも、友沢は一人じゃない。それだけは伝えられた。

優作は住宅街を歩き続けた。八歳の体で、五十八歳の記憶を抱えて。

そして――ポケットの中で、何かが振動した。

取り出す。小さな時計が、メッセージを表示していた。

〈不明な送信者〉16:16

「第一歩を踏み出したな、佐藤優作」

優作は立ち止まった。

続けて、二通目。

〈不明な送信者〉16:16

「だが、まだ足りない。友沢一通の心の奥には、もっと深い闇がある。11月3日、午前零時。それを止めろ」

11月3日――あと十七日後。だが、リミットは四十八時間。

優作は画面を凝視した。

謎の送信者。未来を知っている存在。

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