第2話 逆行の朝
意識が戻る。
最初に感じたのは、椅子の硬さだった。プラスチック製の背もたれが腰を支え、机の角が右肘に当たっている。蛍光灯の白い光が瞼越しに滲み、どこかで紙をめくる音がした。
佐藤優作はゆっくり目を開けた。
見慣れた天井――違う、これは"見慣れていた"天井だ。国立科学技術研究所の第二資料室。窓の外には、まだ桜の蕾がついたままの並木が見える。壁の時計は午前9時7分を指していた。
「……成功、した」
声が震えた。掌を見下ろす。五月の疲弊で節くれ立っていた指は、わずかに若く、血色が良い。三十日前の肉体に、五月一日の記憶を持つ脳が入っている。〈アノード〉は正常に作動した。
だが安堵している場合ではない。リミットは四十八時間。それを過ぎれば強制帰還。3月4日の朝9時7分までに、友沢一通に接触し、何かを変えなければならない。
優作は立ち上がり、資料室の扉を開けた。廊下にはまだ世界大戦の影がない。すれ違う研究員たちは雑談を交わし、誰も死の匂いを知らない。食堂の自動販売機はまだ普通にコーヒーを売っている。非常灯も点いていない。
――平和だ。ひどく、脆い平和だ。
優作はエレベーターで地上階に上がり、正面ロビーを抜けた。春の風が頬を撫でる。空は青く、雲は軽く流れている。三十日後、この空の下で何十万という命が失われる事実を、まだ誰も知らない。
ポケットから取り出したスマートフォンには、予定通りのメッセージが残っていた。三月二日の朝、優作は友沢と会う約束をしていた――正確には、"していたはずだった"。記憶を手繰り寄せる。そうだ、たしか昼食を一緒に、という軽い誘いだった。だが当日の午前に友沢から連絡が入り、急な公務でキャンセルになったのだ。
スマートフォンの通知履歴を確認する。
〈友沢一通〉09:22
「優作、ごめん。今日の昼、急に閣議が入った。また今度」
まだ届いていない。現在時刻は9時11分。あと十一分で、この"キャンセル"が来る。
優作は歩きながら考えた。もしこのキャンセルを阻止できれば、昼に会える。だが、そもそも閣議は本当に急に入ったのか? それとも友沢が意図的に避けたのか?
違和感が胸を突く。
五月の記憶を辿る。タイムリープ装置の設計中、優作は友沢との接触記録を洗い直していた。銃殺の一ヶ月前、つまり三月上旬から、友沢は優作との接触を明確に減らしている。メールの返信は遅く、電話には出ず、会う約束も次々に流れた。当時は「総理大臣だから忙しいのだろう」と納得していたが――今となっては、計画的な距離の取り方に見える。
まるで、何かを隠すように。
スマートフォンが振動した。9時22分。予定通り、メッセージが届く。
〈友沢一通〉09:22
「優作、ごめん。今日の昼、急に閣議が入った。また今度」
優作は即座に返信を打った。
「わかった。じゃあ夕方は? 十八時以降なら空いてる」
送信。既読がつく。数秒後、返信。
〈友沢一通〉09:23
「夕方も厳しい。明日もスケジュールが詰まってて……来週なら調整できるかも」
来週――それは四月に入ってからだ。銃殺まであと三十日を切る。
優作は指を止めた。ここで強引に押せば、友沢は警戒する。だが引けば、貴重な四十八時間が無駄になる。
思考を切り替える。会えないなら、別の手段で接触する。官邸に電話をかける? いや、総理大臣に直通できるわけがない。秘書官を通せば、数時間は潰れる。
ならば――直接、官邸に行くしかない。
優作はタクシーを拾い、永田町へ向かった。車窓から見える街並みは、五月の荒廃とはまるで違う。店は開き、人々は笑い、日常が淡々と続いている。運転手は天気の話をし、ラジオからは春の新番組の宣伝が流れている。
「首相官邸前です」
降車し、見上げる。灰色の建物は威圧的に静かだ。正門には警備員が立ち、来訪者用の受付が設けられている。一般人が簡単に入れる場所ではない。
優作は受付に向かった。
「内閣総理大臣・友沢一通との面会を希望します」
警備員は無表情に応じた。
「予約はありますか?」
「ありません。ですが、彼とは旧知の仲で――」
「予約のない方の面会は受け付けておりません。秘書官室への連絡をお願いします」
マニュアル通りの拒絶。優作は食い下がる。
「緊急の用件です。彼に伝えてください、佐藤優作が来ていると」
警備員は小さく息をついた。
「お引き取りください。これ以上は警備上の問題になります」
膠着。時間だけが流れていく。
その時、官邸の自動扉が開き、スーツ姿の男が出てきた。秘書官の一人だ。優作は顔を覚えている――大学時代、友沢のゼミで何度か見かけた後輩だ。
「……佐藤さん?」
男は驚いたように立ち止まった。
「どうしてここに?」
優作は即座に答えた。
「友沢に会いに来た。今日、どうしても話したいことがある」
秘書官は困惑の表情を浮かべた。
「総理は今、閣議中です。それに、突然来られても……」
「わかってる。だけど、これは誰にも言えない話なんだ」
優作は一歩踏み込んだ。
「頼む。五分でいい。五分だけ、彼と話させてくれ」
秘書官は逡巡した。視線が泳ぐ。やがて小さく頷き、スマートフォンを取り出した。
「……少し待ってください。確認してみます」
通話。低い声での報告。数十秒後、秘書官は顔を上げた。
「総理は、今日は難しいとのことです。後日、改めて日程を調整してほしいと」
「後日じゃ遅いんだ」
優作の声が強くなった。
「今日じゃないと意味がない。彼にそう伝えてくれ」
秘書官は明らかに困惑している。もう一度通話しようとした、その瞬間――
官邸の奥から、穏やかな声が響いた。
「優作?」
振り返る。階段の途中に、友沢一通が立っていた。
紺色のスーツ、整えられた髪、完璧に制御された表情。テレビで見る総理大臣そのものの姿だ。だがその瞳には――優作にしか見えない、わずかな冷たさがあった。
「久しぶりだね。どうしたんだ、こんなところまで」
声は優しい。笑みは柔らかい。だが、距離がある。透明な壁を一枚挟んだような、触れられない隔たり。
優作は深く息を吸った。
「一通。話がある。今日、少しだけ時間をくれないか」
友沢は数秒、優作を見つめた。まるで何かを測るように。
やがて、彼は小さく首を横に振った。
「ごめん。今日は本当に無理なんだ。明日も、明後日も予定が詰まってる」
「じゃあいつなら――」
「来週。来週なら、夜に時間が取れる」
来週。また、来週。
優作は拳を握りしめた。リミットまであと三十九時間。このままでは何も変えられない。
「一通」
優作は一歩、階段に近づいた。
「お前、何か隠してないか?」
友沢の表情が、一瞬だけ硬直した。
ほんの0.2秒ほどの静止。すぐに笑みが戻る。
「隠し事? 何を言ってるんだ、優作」
「俺たち、幼馴染だろ。小学校からずっと一緒だった。なのに最近、お前は俺を避けてる」
友沢は困ったように眉を寄せた。
「避けてるわけじゃない。ただ、立場が変わったから。総理大臣っていうのは、想像以上に忙しいんだ」
「それだけか?」
「それだけだよ」
嘘だ、と優作の直感が告げる。友沢の瞳の奥に、何かが沈んでいる。
優作は賭けに出た。
「なら、一つだけ教えてくれ。お前、四月一日に何か予定してるか?」
友沢の呼吸が止まった。
今度は、はっきりとわかる硬直だった。笑みが剥がれかける。瞳孔が僅かに開く。
「……四月一日?」
「そうだ。何か、大きな予定が入ってるんじゃないか?」
数秒の沈黙。
友沢はゆっくりと、微笑みを再構築した。
「ああ、そうだね。アメリカ大統領との公開答弁がある。全世界中継の大きなイベントだ」
「それだけか?」
「それだけだよ、優作」
彼はそう言って、踵を返した。
「ごめん、もう戻らないと。また連絡する」
背中が遠ざかる。階段を上がり、扉の向こうへ消えていく。
優作は呼び止めることができなかった。
残されたのは、春の風と、秘書官の困惑した視線だけだった。
――初接触、失敗。
優作は官邸を後にし、近くの公園のベンチに座り込んだ。頭を抱える。リミットまで三十八時間。友沢は完全に警戒している。下手に動けば、さらに距離を取られるだろう。
ポケットのスマートフォンが振動した。メッセージ通知。
だが、送り主は友沢ではなかった。
〈不明な番号〉10:47
「佐藤優作。あなたは"間違った時間"にいる」
優作は息を呑んだ。
誰だ? なぜ俺の番号を知っている?
続けて、二通目が届く。
〈不明な番号〉10:48
「友沢一通を止めたいなら、3月2日では遅すぎる。もっと前へ行け」
画面を凝視する。心臓が早鐘を打つ。
三通目。
〈不明な番号〉10:48
「答えは小学校にある。2030年の秋、彼に何があったか調べろ」
2030年――友沢が八歳の頃だ。優作も同じ八歳。二人が初めて同じクラスになった年。
優作は震える指でメッセージに返信しようとしたが、送信エラーが表示された。番号は存在しない、と。
「誰だ……?」
風が吹き抜ける。桜の蕾が揺れる。
優作は空を見上げた。
四十八時間のリミット。謎のメッセージ。そして、友沢の隠された過去。
――もう一度、跳ぶしかない。
今度は、もっと深く。もっと遠く。
彼が壊れ始めた、その瞬間へ。
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