アノード―世界を変えた装置―
@shinta1029
第1話 遅すぎた完成
2080年4月1日、春の空気は奇妙に乾いていた。
東京の研究棟地下三階。佐藤優作は、酸素濃度を示す緑のインジケーターをぼんやり眺めていた。タイムリープ装置〈アノード〉は今日も沈黙している。完成まで、あと一歩。だが世界のほうが先に動いた。
非常ベルのような通知音が壁面スピーカーから跳ね、無機質な女声が告げる。
「緊急国際放送を優先接続します」
映し出されたのは、米国大統領の全世界中継の公開答弁。並んで立つのは、日本の内閣総理大臣――友沢一通。優作は思わず前のめりになる。画面越しの姿は、少年時代から何百回も見慣れた横顔と同じ骨格をしていた。ただ、瞳の奥にある温度だけが、昔と違う。
言葉の応酬。翻訳の遅延。硬直する時間。
次の瞬間、世界は二度と元に戻らないカウントを始めた。
乾いた破裂音。金属音の反響。
画面が揺れ、群衆の悲鳴が波となり、ホワイトノイズがあらゆる思考を飲み込んだ。友沢が引き金を引いた――その事実だけが冷たい針のように、優作の胸を貫いた。
通信は切れた。地下室は静かになった。
「……一通」
名前を口にした途端、封印していた記憶がほどけた。小学校の帰り道、電柱の影にしばらく立ちすくんでいた友沢。誰も気づかない微小な傷。笑う角度の均一さ。中学の文化祭、完璧な委員長として振る舞いながら、舞台袖で何も見ていない目をしていた彼。優作だけがうっすら違和感を覚えていたのに、見ないふりをした。高校でも、大学でも、ずっと同じ学校に通い、同じ教科書を開き、同じ季節を過ごした。なのに。
地上では、臨時閣議、非常事態宣言、在外公館の封鎖、同盟国の動員。ニュースは連日、赤と黒のテロップで世界の亀裂を数え始める。第三次世界大戦――その言葉は最初、評論家の比喩だったが、数日も経たずに現実の名称になった。
優作は働いた。研究室に寝袋を持ち込み、回路図を張り替え、冷却ラインを増設し、因果干渉の微分方程式に新しい境界条件を書き足した。
〈アノード〉は「意識の時空座標」を基準に、過去の任意の時刻を指定し、その時点へ“挿入”される装置だ。肉体はここに残り、脳だけが戻る。滞在できるのは到着点から最大四十八時間。四十八時間が過ぎると、激烈な頭痛とともに気絶し、起動した“現在”へ強制帰還――装置が課す絶対条件、リバウンド。行き先はいつでも選べる。だが、その時点の未来へ四十八時間以上は踏み込めない。
「四十八時間で足りるのか?」
白板に並ぶ数式を見上げながら、優作は自問した。銃殺の一ヶ月前に入り、二日で何を変えられる? 表面だけを撫でても、芯は変わらない。彼の思想は、もっと前から始まっている。幼い家の玄関、見えない暴力の匂い。小学校の下駄箱前で凍った時間。
けれど〈アノード〉なら、大学でも、高校でも、さらに幼い季節でも狙える。四十八時間の断片で少しずつ因果の向きを変え、何度でも現在に戻って再設定すればいい。最初の一手は、一ヶ月前だ。そこから“君”へ近づく導線を作る。
完成の日は、銃殺からちょうど一ヶ月後に来た。
2080年5月1日。午前4時32分。真夜中のビルは、遠くにサイレンだけが細く鳴っている。最終チェックを終え、優作はシールドの中に腰を下ろした。額に貼る電極は冷たい。掌に汗が滲む。装置のメインスイッチの上に、薄青いランプが灯る。
「――一通。俺は、今度は見て見ぬふりをしない」
録音でもない、誰にも届かない宣誓を口にして、優作はターゲット時刻のダイアログに指を走らせた。
〈到達先:2080-03-02 09:00(JST)〉――銃声の三十日前、朝の官邸日程が混み合う時刻。
脳波同期、因果位相の固定、参照記憶のハッシュ化。エンジンが低く唸り、空気の粒がしだいに重くなる。視界の端で、少年時代の断片がちらつく。体操服の匂い。夕焼けの校庭。雨音に混じる、小さな泣き声。
最後の確認灯が緑に変わる。
なにかを取り戻すには、なにかを捨てなければならない。優作はゆっくり息を吐き、スイッチを押した。
世界が一度、無音になった。
光が裏返り、時間が皺を寄せ、名前たちが色を失い、そして――
暗転の中で、誰かが囁いた。
「間に合うなら、今だよ、優作」
彼は2080年3月2日へ落ちていく。まだ引き金が引かれていない世界へ。
与えられた猶予は四十八時間。そこで、親友と、もう一度はじめて出会うために。
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